第二十四話:すれ違いと看病
「……あれから三日。僕は一度もアリス様と目が合っていない」
窓の外は、あの日から降り続く冷たい雨が景色を濡らしていた。 執務室の机には、手つかずのまま冷え切った紅茶が置かれている。アリスのために用意した、「東通りの新作茶葉」だ。
(……今日も、来ないか)
街で元婚約者に会った翌日から、アリスの態度は一変した。 廊下ですれ違おうとすれば、脱兎のごとく踵を返して逃げ出す。 リリア様の部屋に行けば、「アリスなら、入れ違いで帰ったわよ」と苦笑される。
まるで、怯えた小動物だ。 それも、ただ恥ずかしがっているのではない。「拒絶」に近い必死さで、僕を避けている。
(……あの時、怒ってくれたのは嬉しかったが。 僕が調子に乗って距離を詰めすぎたのが、不快だったのか?)
クラウスは深いため息をつき、雨に煙る窓ガラスに映る自分の顔を睨みつけた。
「……何をどう間違えたんだろうな」
答えのない問いが、雨音にかき消されていく。
◇◇◇
(公爵邸にいるよりも教会にいた方が会わずに済むよね?)
一方、アリスは限界を迎えていた。 クラウスの顔を見れば、あの日の「好き」という自覚が溢れ出して、聖女としての仮面が維持できなくなる。 だから、逃げた。 逃げる場所は、仕事しかなかった。
泥だらけのブーツ。雨で重くなった聖女服。 兵士たちの治療、貧しい村への出張、終わりのない祈祷。
「聖女様、顔色が優れませんが……」 「大丈夫です! 次の患者さんを通してください!」
教会の神官が止めるのも聞かず、アリスは働き続けた。 身体を酷使していれば、あの「甘い毒(恋心)」を忘れられる気がしたからだ。
だが、限界は唐突に訪れる。 冷たい雨の中、祈祷を終えて立ち上がろうとした瞬間、世界がぐらりと傾いた。
(あ……私……何、やってるんだろう……)
意識が暗転する直前、視界の端に、必死の形相で駆け寄ってくる「あの人」の姿が見えた気がした。
◇◇◇
高熱の中、夢現で、アリスはそっと抱き上げられて、どこかに運ばれるのを感じた。
「まったく、貴女は何がしたいんですか? ……僕のことが好きなんじゃないんですか?」
遠くで誰かが優しく何かを言っているような気がした。
(私に優しくしないで……私は恋しちゃいけないし、誰かに優しくされる人間じゃない)
アリスの頬に一筋の涙が伝う。
「何がそんなに辛いんですか? ……教えてくれないとわからないですよ?」
クラウスはその涙を指で拭って小さくため息をつく。
そして、アリスを自室の寝台にそっと寝かせる。エリアスとリリアにアリスの看病する許可をもらったのだった。
◇◇◇
クラウスの私室のベッドで寝込むアリス。 クラウスがつきっきりで看病した。
額のタオル変えたり、水を飲ませたり、食事を食べさせたり。流石に着替えと身体の清拭は侍女に任せたが、それ以外は甲斐甲斐しく世話をした。
アリスの熱はなかなか下がらず、看病されながら、熱と不安で涙ぐんでいた。
「……優しくしないでください。 どうせ貴方も、私より『条件のいい女』が現れたら、いなくなるんでしょう? 実家の両親みたいに……あの元婚約者みたいに……。 私は面倒くさいし、性格も悪いし……ただの『騒音』なんでしょう……?」
クラウスは何も言わず、アリスの口を塞ぐ。 お菓子のような軽いキスではなく、少し長めの、熱を共有するようなキス。
「……んっ!? ……ぷはっ、な、なにを……」
「……まったく。熱のせいで少しはお静かになるかと思えば、今度はネガティブな妄想ですか」
クラウスは、呆れたように、でも慈しむようにアリスの濡れた瞳を拭う。
「いいですか、アリス様。よく聞いてください。 僕はね、一度味わった『極上の甘味』を手放すほど、馬鹿じゃありませんよ」
「……え?」
「逃げる? 僕が? ……逆ですよ。 逃がさないって言ってるんです」
クラウスは、アリスの手を自分の頬に寄せ、眼鏡の奥で肉食獣のように目を細める。
「貴女はもう、僕の『甘やかし』なしじゃ生きていけないでしょう? 責任を取って、一生面倒を見てあげます。 ……その代わり、覚悟してくださいね? もう二度と、この腕(檻)からは出しませんから」
「……っ、う……ずるい……。 そんなの……断れないじゃないですかぁ……」
「それは、肯定だと受け取りますよ」
クラウスは甘えるアリスの髪を優しく撫で、顔の横に手をつく。アリスの顎に手をかけ、上から覆いかぶさるようにして改めて口付ける。
先程のキスよりも更に深いキス。顎にかけた手でアリスの口を開けさせるとクラウスの舌が、アリスの口内を蹂躙する。息も唾液も全てを奪い尽くすような強引なディープキスだった。
「んぅっ……!? ……く、クラウス……? 今、なに……?」
アリスは息も絶え絶えになっていた。熱と酸欠で目を回している。
その頬を優しく撫でるとクラウスは目を細めて人の悪い笑みを浮かべた。
「……おや。まだ熱が高いですね。 『風邪は人に移すと治る』と言いますから。 僕が少しもらってあげようとしただけです」
「……うつすって……口で……?」
「一番粘膜の接触面積が広いですからね。効率的でしょう? ……それとも、今のじゃ足りませんでしたか?」
涙で瞳が潤み、熱で上気した頬のアリスに背徳的な美しさを感じ、自らの唇をちろりと舌で舐めると「もう一回しますか?」という表情で再び顔を近づける。
「た、足りました! 十分です!! 寝ます!!」
アリスはクラウスの色気に当てられ、真っ赤な顔のままで布団を頭までかぶってしまう。
「まだ無理は禁物ですね。ゆっくりお休みなさい」
クラウスは軽く苦笑して、ホッとしたような表情になり、アリスの潜ってしまった布団をやさしく撫でるのだった。




