第四章 ブーケ⑬
「父さん、二枚目じゃないからなぁ」
「そうだな」
今日、兄が初めて笑った。
空気が和らいだ気がした。
「だから日下紡績を売らなかったのか」
「そういうことだ」
それから二、三年後のこと。
柘植家の館——
母さんの実家が帯壁市に寄贈されたと、地元の新聞に載った。
「菫子、菫子!」と朝刊を握りしめて大喜びしていた姿は、今でも目に焼き付いている。
兄から解放されて応接室を出た私は、父の書斎へ向かった。
謝罪の言葉を口にする前なのに、私の顔を見た父は優しい笑顔を浮かべていた。
「今日の私は会社をサボろうと思う。だからお前もサボれ。あと圭一郎も呼べ」
父はそう言って立ち上がると、一言付け加えた。
「母さんには内緒だ」
父のウィンクを見たのは、この日が最初で最後だった。
「父と兄と私で、この福寿楼へ来ました」
重忠さんはそう言って天井を見上げた。
「目まぐるしく変わる世の中で、ここは変わらないですな」
まだ明かりの灯っていないシャンデリアを見て、重忠さんは目を細めていた。
「あの日——学生運動に参加した友人の何人かは、戻れない所へ足を踏み入れました」
最後の言葉は誰に向けたのだろうか。
分かりきった疑問だ。
私もシャンデリアを見上げてみた。
私はどうすべきだったのだろう。
その答えは私が出すべきでないのだろうな。
「おじいちゃん、素敵ね」
香織さんはホットミルクのカップを置いて、嬉しそうに言った。
(ああ、そうか。香織さんだけは知っているのか)
事実に気付いた私と目が合った香織さんは、さりげなく頷いた。
あの純愛の物語の主人公を知って尚、日下源治郎の愛も純愛だと思った。
忠重さんが脇に置いた杖に手を掛けた。
「ちょっと失礼します」
そう言って中座した。
ぎこちなく歩く背中を、上田さんが追ってくれた。
私は鞄から写真を取り出すと「今更な話ですが」と香織さんに差し出した。
インパールの集合写真だ。
香織さんは一瞥しただけで北浦さんを見つけた。
「面影がありますね。でも——キツい目をしている」
「やはり柔和な方でしたか?」
「そうですね。——つくづく戦争は残酷ですね、こんな表情させるなんて」
香織さんは写真から視線を外すと、何か嫌なものを吐き出すように深く息をついた。
香織さんは写真を手に取ると、無言でこちらに戻そうとして手を止めた。
空を切った私の指先が所在を無くしていた。
「裏に何か——」
「ああ、名前と最期を迎えた場所です」
「そうなんですね」
瞳に暗い光が宿って見えた。
「あのぉ」
「どうしましたか?」
香織さんの視線が北浦さんとは違う場所に落ちていた。
「この国井義光さんという人は?」
指で示した名前の下には括弧書きの地名があった。
「このチンドゥイン川で戦死なさっていますね」
香織さんは「戦死」と私の言葉をなぞるように呟くと、何かを考えるように押し黙ってしまった。
「——香織さん?」
私の呼び掛けに震えるように首を振ると「あの......」と言い掛けて再び口を閉ざした。
香織さんの視線を追うと、上田さんが忠重さんを連れて戻って来るのが目に入った。
香織さんは立ち上がって上田さんに礼を言うと「今日はこれで失礼します」と重忠さんの手を取って頭を下げた。
私も「本日は貴重なお話とお時間を、ありがとうございました」と深くお辞儀をした。
北浦将吉の高潔な愛——
日下源治郎の泥臭い愛——
「薔薇も蓮も咲く花は美しい」
「遠藤さん、何か言いました?」
「谷口くんには分からないさ」
PCさえあれば、どこでも記事は書ける。
それでもいい取材が出来た日は、事務所で記事を書きたいものだ。
「そうですか。遠藤さんみたく分かりたいものですね」
渾身の嫌味だったが「俺にもまだ分からん」と言うと、谷口くんはコケる真似をしてみせた。
「メシ行くか」
私はジャケットを羽織るとPCを閉じた。
「奢りっすか」
「ラーメンな」
今夜は久しぶりに、泊まり込みも悪くないかもしれない。
ブラインド越しに、日の長さを感じる夕べ。
なんとなくそう思った。




