01 奇策はありません
ラーデン危機。
ミアンナもその言葉と大まかな出来事は知っていたが、およそ六十年前の事件となると、十五歳の少女には「歴史上の出来事」だ。
その発生年を思えば、ハイムが関わる可能性について想定できる。そのまま続けて読んだ通信書の内容がその知らせであったことに、彼女は苦い満足感を覚えた。
「――〈同期律整式〉の開発にも関わっておられたのか」
それは式盤の慣らし運用が不要になった新技術だ。「新」と言っても、三十年近く前のことになる。もちろんミアンナは、その技術がなかった時代を体験していない。
(伝説の再来だの、史上最年少の専理術士だのと言われるが、ハイム殿の時代より私はずっと楽をしている)
大いなる先達と並び立っているなどと思ったことはなかった彼女だが、改めてそうしたことを感じた。
「支部にやってきた最初の日」
ぽつり、とリーネが呟いた。
「ミアンナさんと話しましたよね。〈同期律整式〉のこと。執務室の設置型式盤が古いのは、慣らし運用が必要だった頃の名残りじゃないかって」
「確かに、話した」
ミアンナも思い返した。彼女らは知らず、先代統理官兼専理術士が携わった技術の話をこの場所でしていたことになる。奇妙な感慨があった。
「すごいですね、って……驚きたかったな」
「……同意する」
こんな状況でなければ、彼女らはハイムの偉業を純粋に讃え、敬意を抱いたろう。しかしいま、この情報は「ハイムがシャッハであると考えられる理由のひとつ」だ。
「本部からの文書によれば、ハイム殿が故郷から姿を消したのはふた月以上前。『監視役』はその任にありながらハイム殿に便宜を図ってもらっており、恩義と後ろめたさのために報告を遅らせていた」
「人の心を掴むのがお上手なんでしょうね……その、悪い意味じゃなくて。あれ、悪い意味になるのかなあ……」
リーネ自身もハイムと邂逅し、その話術を知っている。何てことのない世間話の形を保ちながら情報を出し、リーネから質問を引き出して、自分の伝えたいことだけ伝えていった。赤い襟巻きを出されるまで、リーネは「通りすがりの優しいお爺さんと素敵なやり取りができている」と感じていて、相手に誘導されているなんて思いもしなかった。
「わたし、いまでも、騙されたとは思っていないんです。してやられた、とは思うんですけど、怒りみたいなものはなくて」
「それがまさしく、『心を掴むのが巧い』ということなんだろう」
「ううん、そういうことなんでしょうねえ……悔しさみたいなものは、あります」
数日経って、リーネも心の整理ができてきたようだった。
支部員たちに「決定的な情報の伝達者」として話をすることは、彼女にとっても重い出来事だったはずだ。罵られるとまではいかずとも、否定され、信じてもらえないこともきっと考えていた。
しかし実際には、半ば反射的に出てしまったウィントンの言葉以外、強い反論はなかった。彼らは理性的に彼女の目撃談を受け入れた。ハイムを慕わしく思うのと同じように、リーネのことも信じていたからだ。
そして一晩が明け、書類の精査も進んだ。
みなの気持ちもざわついたままではあるが、昨日よりはその波が静まっている。
シャッハがハイムであるにせよ、そうではないにせよ、その証拠を見つけたいという思いは一致していた。
「生憎、としか言いようがないが、出てくる資料という資料が全てハイム殿を指す。仮に、事実を見ないふりで擁護するとしたら『何者かがハイム殿を貶めるために証拠を積み上げている』とでも……いや、無茶が過ぎる」
「ハイムでなければよい」という思いは面識のないミアンナにさえある。だがここまで積み重なっては、無理だろう。
「――もう、断定してもよいのではないかと思います」
そのときちょうど二階の執務室に入ってきたジェズルに、ミアンナの言葉が聞こえていたようだ。彼は少し疲れた顔で、そう言った。
「ここからひっくり返せる奇策はありませんよ。あるとしたら……事実に目をつむるだけです」
師も同然の相手が理術で人を危険な目に遭わせているという事実を受け入れるのは、理性的なジェズルにもたやすくなかったはずだ。おそらく昨夜はあまり眠れていないのではないかと推測できた。
「ところで、お時間はよろしいですか」
「何だろうか」
「セフィーヌ殿がミアンナ殿とお話ししたいと」
「技術棟か?」
「ええ、信号で通信がありました」
「すぐに行く」
ミアンナは外套をひっつかんだ。
「式盤の話になると思う。リーネはここに」
「……はい」
少々不服そうではあったが、リーネは応じた。式盤技術に関しては、機密事項が多い。
「私は同席しても?」
ジェズルが差し込んできた。ミアンナは少し考えてうなずく。
「一緒に聞いてもらおう」
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