09 ただの事実
それからしばらく、慌ただしかった。
ルカの説明によれば、呪煙というのは毒性のある霧や靄の総称だ。自然のものではなく、兵器として使われるような、人の手によるものを言うらしい。
先ほど扉からかすかに香ったのは、ほんのり甘い、花のような匂いだった。ミアンナも感じ取り、こんな地下で香ることに違和感を覚えた。
彼女らはまず地下を封鎖、テオザを医療室に託した。幸い、命に別条はないようだった。それからルカの指示の下でミアンナが流動構文を使い、通気口から少しずつ、安全な濃度になるように毒の靄を逃した。
リーネには「状況が判り次第イゼリアへ連絡を」と指示していたが、外からではとても判らなかっただろう。サレントに共有の許可を取り、「死傷者なし、建物の一部損壊と毒物利用の可能性あり」といった伝言を送ってもらった。リーネとナシムがそれぞれ第一報を上げるはずだ。ツァフェンはやらないだろう。
もっとも、ミアンナとルカが最低限の対応を終え、連絡体制を整えて庁舎の外に出たとき、そこにはリーネとナシムと、何とツァフェンまで彼女たちを待っていた。
「報告は――」
「してきました! イゼリアさんが、手が要るかもしれないから戻っていいっていってくれたので!」
まずリーネは、自身の務めは果たしていることを理術士に伝えた。
「あっ、それから、要請があり次第、人員を派遣できるようにしておくとのことです!」
外交使節所は軍事施設ではないが、荒々しい現場に慣れた軍人も数名駐留している。人命救助の必要があるならともかく、そうでないならサレントの要望なしに軍人を派遣するのは政治的に難しい、という訳だ。
「……私ももちろん、報告は済ませた。アールニエの独断についても」
苦々しく続けたのはナシムである。
「私の任務だ。交代の命令でもあったかと思って任せてしまったのは私の失態だが、まさか何の命令も受けていないとはな」
「そう言えば、大丈夫なんですか? ルカさん、お怪我とか伺いましたけど……」
ナシムの声にどうも刺がある。リーネはそこに気づかないふりで、普通の質問をした。
「療養中だ」
と言ったのはルカではなくナシムだ。ルカは肩をすくめた。
「呑気な顔をしてるんじゃない! お前はまだ任務に戻る許可さえ得てない、罰されるぞ!」
「ええ……?」
ルカの無茶にか、それともナシムの気色ばった様子にか、リーネは引いたような声を出す。
「覚悟の上だよ」
当のルカはあっさりしたものだ。
「死傷者が出なかったのはアールニエ鋼嶺徒の機転による。専理術士として正式に謝辞を入れよう。相殺くらいにはなるだろう」
ミアンナはすっと仲裁に入った。
(そうしたことではないかと思っていた)
「ルカは負傷し、大事をとっているため、今回はナシムが代行」という話だったのに突然現れたのだ。療養中とは思わなかったが、無許可理術の調査へ公式に戻ってきた訳ではないだろう、と。
「私自身、確認せずにアールニエ鋼嶺徒を伴った責任はある」
「そん……」
「すっごいバタバタしてたね! ちょー面白かった!」
不謹慎の塊がそこではしゃいだ声を出す。ナシムの声はかき消された。
「あー、満足!」
「念のために聞きたいが」
ミアンナがツァフェンに向かえば、白髪の男は嫌そうな顔をした。
「あー、ミアンナくん、此方に無茶振りしてくる気でしょ」
「無茶かどうかは判らない。騒ぎの起こっている庁舎から意図的に離れていった『感情』はなかったかを尋ねたい」
確実にいたのだ、術者は。「シャッハ」は。判っていながらもテオザの救助と呪煙の排除を優先せざるを得なかった。
「建物のなかが、もう、百年に一度のお祭りくらいの賑わいだったのに!? 面白くもない外を見てなかったかって聞くの!? 此方に!?」
ツァフェンは信じられないと言いたげだった。
「無茶だったろうか」
「まー、此方くらいになるとね。ちゃんと見てるんだなあ」
「どっちなんですか……」
リーネがつい洩らす。
「いたよ。近くを通ったニンゲンたちはたいてい興味ありげにするか、巻き込まれまいと逃げるかだけど。逆に、興味も恐怖もなーんも感じてないのが一匹」
ツァフェンはペロリと舌なめずりをした。単位には触れまい、とミアンナは続きを待った。
「そっくりだったよ、ミアンナくんに」
「え……?」
不審そうにリーネが首をかしげる。
「姿形のことじゃないよもちろん。此方に視えるものが、ね」
「『無感動お化け』と言いたいのであれば、少し違うのではないだろうか? もしその人物があらかじめ知っていたのであれば、驚きも恐怖もない」
「判ってるよー、そんなこと。此方が言ってるのは、そいつは判ってたから感情を揺らさなかったって当たり前の話じゃなくて……うーん、少し違うんだけどわかりやすく言うなら色かな」
「色」
「そ。よく似た色をしてる」
その感覚は理解しがたい。しかし言わんとするところは判る。どういったものであれ、ミアンナとシャッハには明確な共通点があると。
(理術、というのが簡単な答えではあるが)
(それだけではないのだろうな)
理術士がみな似ているとは思えない。近いものがあるとしても「そっくり」とまではいかないだろう。
「どこに向かったかは問うても無駄だろうか」
「無駄ー」
案の定の返答だった。
ツァフェンには「怪しい人物を追わねば」などという意識はない。彼が「百年に一度の祭り」を見逃すほうを選んでいたら、ミアンナは驚愕するところだ。
「どんな人物かは見たのか? 性別や年代は」
「見てなーい」
ルカの問いかけにも悪びれず答える。
「興味ないと見えないって前にも言ったでしょ。全体像に入ってたくらいの話だからね。みんな興奮してるなか、ひとりだけ落ち着いて。あ、ミアンナくんとルカくんも比較的落ち着いてたね。だからどこにいるか判ったよ。ずっと一緒で仲良しだったねー」
「同じ行動を取るのは状況的に当たり前でしょうが!」
ツァフェンの軽口にリーネが堪えきれず声を出す。予想通りの反応にツァフェンは満足顔だ。
「ふたりで一緒に行動する必要あった? ひとりは不審者を追うべきじゃなかったのー?」
「呪煙の特性を知る僕と、風を動かせる彼女が必要だった」
ルカが言ったが、ツァフェンは納得しなかった。
「死ぬような毒煙じゃなかったんでしょ。後回しにしたらよかったんだよ。あーあ、逃がしちゃったね、犯人」
「僕をやり込めたいのか? それともミアンナを?」
顔をしかめてルカは手を振った。ナシムがぴくりとした。
「無意味なことはやめてくれ、ツァフェン。呪煙は致死性が低くても、症状が残ることがある。被害者が出ないように行動したことを僕は悔やまない。最善の手ではなかったとしてもだ」
「……被害はなかったんだな? それは上に伝えてもいい」
ナシムは両腕を組んだ。ツァフェンはルカの言葉を聞いていたのかいないのか、辺りをふらふらと見ている。
「だが軍規違反は軍規違反。ミアンナ殿……ミアンナさんは優しさからお前をかばってくださるが、それに甘えるような真似はするな」
こちらではリーネがぴくりとする。
「ミアンナさん」
すっとナシムが前に出てきた。
「何だろうか」
「あなたの行動は尊敬に値する。尋問中の聡明な態度も、先ほどの勇敢な姿も。そんな女性はこれまで見たことがない」
「できることをしているだけ」
「聡明」は先ほども聞いた、「勇敢」な行動はそちらも行えたはずだった、「女性」といちいち言うのは余計――といった言葉はやはり控え、ミアンナは簡単に返した。
「今日はアールニエがご迷惑をおかけした。明日はまた、私が任に当たるので、よろしくお願いしたい」
「アールニエ鋼嶺徒は何も迷惑をかけていない」
そこだけは明言した。何も「優しさ」などではなく、ただの事実だ。
「情報の共有をしっかりしてもらえれば、どちらが担当されてもかまわない」
「ああ、今日のことはよく聞いておくよ」
「お前は話す方だろうが!」
ルカがうなずけば、ナシムは怒鳴るようにした。
「共有だろう? 僕も話すし、ナシムも話してくれ」
意にも介さず、ルカは返した。
「む……」
「明日については、鋼監将次第だ」
「それは、もっともだが」
「此方、そろそろ疲れたー。帰ろっと。またねー、ミアンナくん、リーネくん」
全く空気を読まない魔族がひらひらと手を振った。それともこれは、読んだのだろうか。実際、ナシムは標的をルカからツァフェンに変えた。
「勝手な行動は困る、ツァフェン殿!」
「ウケる」
当然、ツァフェンは頓着しなかった。そのままくるりと踵を返してふらふらと歩き出してしまう。
「ルカ! あれをとめろ!」
公的な場という認識によってルカを姓で呼んでいたナシムだが、この状況には反射的に普段の呼び方が出た。
「僕が? いいのか?」
ルカが首をかしげた。「任務中としての行動」にならないか、と言うのだろう。ナシムは詰まったようだった。
(珍しい皮肉、でもないな。ただの確認だ)
(ルカ殿を「面白い」と言うツァフェン殿が少し判るようにも思う)
「だいたい、もう解散するところだったじゃないか? ツァフェンが離脱してもかまわないだろう」
「そういうことじゃない。規律の問題だ」
「対魔研は協力者であって、軍属じゃない」
もしルカがナシムをやり込めようとしていたり、正論で諭そうとしていたなら、少々嫌な空気になっただろう。しかしナシムにとっては生憎なことに、ルカはただ正当な訂正をしただけだった。ヴァンディルガとしてはカーセスタに対して「皇軍が対魔研に命令できる」と誤解させるべきではない。
「そ、それはそうだが……しかし、礼儀の問題で」
ナシムはなおも抗弁した。やれやれ、とミアンナは口を挟むことにする。
「ツァフェン殿のことなら、前回の調査時でも様子を拝見している。少なくともカーセスタの担当に私がいる間は、彼の言動を無礼だと思うようなことはない。ナシム殿もルカ殿も、気に病まれないよう」
ルカが気に病むとは思わないが、ここは並列しておかないと不自然だ。
「有難う、ミアンナ」
さっとルカが言う。ナシムに先んじるつもりなど一切ないだろう。ただ、彼は言葉や行動が早いのだ。
(それがナシム殿の気に入らない)
ナシムは明らかにむっとした顔をしたあと、それをごまかそうと口元に手を当てていた。
「ではミアンナさん。明日については必要に応じて連絡いたします。それでいいな、ル……アールニエ」
「もちろんだ」
「承知した。……ルカ殿。余計なこととは思うが、ご自愛を」
あれだけ動けていたのだ。ルカは無理を押しているというようなこともなく、本当に問題がないのだろうとは判ったが、「丸一日意識不明だった」と聞かされたことを思えばミアンナもこれくらいは言いたくなった。
「あ、ああ。大丈夫だ。……嬉しいよ」
小さくつけ加えて、ルカは笑顔を見せる。ミアンナの背後でリーネがイラッとした顔をした。
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