伍:地獄の鬼
水柱の中から現れたのは、墨染と思われる黒い和服を纏った青年だった。
髪は黄色で、端正な顔立ちをしている。
その額の上の方には一本の角があり、一目で鬼であることがわかった。
彼はずぶ濡れの状態で水面に立ち、前髪を掻き揚げると、鮮やかな青の瞳を紫苑たちに向け、くわっと口を開いた。
「だーっ! 何で出口が池の中なんだよ! 束縛術掛けられるし、穴から出たら水の中だし、マジで死ぬかと思ったわ!」
流暢な日本語で叫び、彼は鋭い眼差しで向日葵を睨んだ。
「お前か! 俺に束縛術なんか掛けたのは! ビックリしただろうが!」
「え、あ、なんか、ごめんなさい……」
反射的に謝ってしまう向日葵。
妖から話しかけられても、迂闊に応えてはいけないという退魔師の常識が吹っ飛ぶくらいには、呆気に取られてしまった状態である。
その現世で見かける鬼とあまりに異なる様子と、特殊な妖力を感じ取った樹が、目を瞬いた。
「……もしや、地獄の鬼……?」
それを聞き取った黄色い髪の鬼が、樹を振り返る。
「ああ。俺の名は琥珀。冥府地獄庁現世警護課の鬼だ」
「……冥府地獄庁?」
何だか現世の政府機関のような名前である。
と、それを聞いた樹は警戒を解いて一礼した。
冥府、つまりあの世である。
日本に伝わる神話でも、三途の川の畔に閻魔大王がいて、死者の生前の罪を暴いて、極楽行きか地獄行きを決めるというのは有名な話だ。
そして、その閻魔大王の配下には鬼がいるのだと、暦家の古い文献にも記されていた。
「冥府の鬼殿であるとは存知上げず、失礼いたしました。暦樹と申します」
「暦? なんか聞いたことがあるな……」
琥珀と名乗った鬼が腕を組んで唸る。
「暦は退魔を生業とする家系です」
「あー、そうだ。現世で有名な退魔師の一族だな」
ふむ、と納得した風情で頷くと、琥珀は水面を蹴って跳躍し、皆のいる岸に降り立った。
「で、退魔師たちが、封幽門の出口で何をしていた?」
「フウユウモン?」
「冥府と現世を繋ぐ道のことだ」
なるほど、幽穴のことか。冥府側からは別の名称で呼ばれていたのか。
樹は、かつて暦の先祖が幽穴を隠して封じるために張った結界が壊されてしまい、再び結界を張るためにやってきたのだと、琥珀に説明した。
「そういうことか……」
「琥珀様は何故こちらに?」
「急に封幽門の現世側の出口の封印が解かれたとか言って、冥府は大騒ぎになったんだよ。それで俺が様子を見るために派遣されてきたって訳」
肩を竦める琥珀に、向日葵は頭を下げる。
「そうとは知らず、束縛術を行使してしまい申し訳ありません」
「まぁ、よく考えたら封幽門から何か出てきたら警戒するのは当たり前だ。気にするな。お前たちからしたら、地獄の鬼とその辺にいる鬼の見分けはつきづらいだろうし」
うん、と頷き、それから何か気付いたように向日葵の顔を眺める。
「……それにしてもお前、人間にしては霊力が滅茶苦茶強いな。死んだら是非とも地獄の鬼になってこっちの仕事を手伝ってほしいくらいだ。しかも美人だし」
「はぁ……」
よくわからず首を傾げる向日葵。と、琥珀はその背後に控える赫耀に目を向けた。
「……背後で俺を睨んでいる鬼は、お前の使役か?」
「はい」
「……へぇ」
意味深長にそう漏らし、向日葵と赫耀を交互に見やったが、琥珀は何も言わずに池を振り返った。
「……さて、俺も仕事をしないとな」
言うや、彼は懐から何かを取り出した。
「それは?」
樹が尋ねると、琥珀は得意げにそれを掲げた。
拳大の水晶玉のような石だった。澄んだ水色が淡く輝いているように見える。
「冥府の技術課が開発した封印結界装置だよ。自然エネルギーを吸収して半永久的に結界を保持してくれるらしい。もちろん、耐久妖力以上の力を持った妖には破られる可能性があるが、その辺の鬼くらいじゃ破れないらしいから安心して大丈夫だってさ」
傍から聞いていて、冥府に技術部があるのか、と感心する紫苑である。
「ただ、発動させるためには手順が必要で……」
琥珀はそう言いかけて、何かに気付いた様子で背後を振り返った。
その直後、樹が張っていた結界が音を立てて破られた。
「結界が……!」
驚く面々の視界に飛び込んで来たのは、幽穴の気配に釣られて集まってきていた妖の群れと、その中に立つ人間の姿。
その姿を見た向日葵が瞠目する。
「……久遠……!」
そこにいたのは、久遠雅臣だった。
血走った目でこちらを睨み、怒り狂った様子で怒声を上げた。
「葉月向日葵! 許さないぞ! 僕の使役を返せ! お前のせいで……!」
どうやら、次期当主の座から下された逆恨みのようだ。
そんな雅臣の様子に、向日葵は心底うんざりした顔で呟く。
「……自業自得じゃない。逆恨みするなっての……しかも、私はアンタの使役を奪ってないし」
「……いや、それよりも、当主に謹慎を命じられているはずなのに、何故ここにいる……?」
樹が怪訝そうに眉を寄せる。
謹慎中のはずなのにここにいるということは、久遠家に対しても家名に泥を塗る行為だ。
「……逆恨みにしろ、謹慎中にしろ、今この場で樹様の結界を破っているのは事実だ。向日葵、油断するな」
紫苑が冷静に呟く。
彼らの様子を伺っていた琥珀が、雅臣を一瞥して剣呑に目を細めた。
「……あー、アイツ、やっちまったな」
彼の声色に、嘲りに近い響きが混じる。
「やっちまった?」
実が琥珀を振り返ると、彼は顎で雅臣を示した。
「お前ら、退魔師なんだろ? 気付かないのか? アイツの霊力をよく見てみろ」
そう言われた樹と実が目を凝らして雅臣を見る。
傍で聞いていた三人もそれに倣う。
「……霊力が、濁っている……?」
そう呟いたのは向日葵だった。それを聞いた琥珀が頷く。
「……アイツ、呪詛返しを喰らってる。しかも、無理に何体もの妖を使役に従えたことで霊力が枯渇しかかっている」
「呪詛返し……ってことは、誰かを呪おうとしたということですか?」
樹の問いに、琥珀は首肯する。
「あの状態からの推測だが、おそらく呪った相手はお前たちだろう」
「……一人で、私たちを呪おうとしたと?」
向日葵が、半分呆れたような顔で聞き返す。
通常、退魔師が相手を呪う場合、一人に対して行うのが暗黙知だ。
複数相手を同時に呪おうとすれば、それだけ撥ね返り、呪詛返しを喰らう可能性が高くなる。
そして、相手の霊力が強ければ強いほど、呪詛返しを喰らう可能性は上がる。
つまり、複数の霊力が強い退魔師を呪うなんて、自殺行為に等しい、ということである。
「そうだ。しかも、霊力が枯渇しかかっている……あれは何だ、阿呆か?」
呆れ果てた様子の琥珀に、全員が深く溜め息を吐いて、「紛うことなき阿呆です」と答えるのだった。
友情出演:琥珀 ※別作品に登場するキャラクターです。
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