捌:廃墟
午後二時を回った頃、目的地に到着した向日葵は、廃墟の入口で車を降りた。
その少し先に、見覚えのある青いスポーツカーが停まっていた。紫苑の愛車である。
「桐人は、市街地まで戻って待機していて。時間がかかりそうなら連絡するわ」
「承知しました」
桐人は頷いて、少し開けた場所で切り返して戻っていった。
この時点で、既に妖気が漂っている。霊力を持たない桐人をこの場で待たせるのは危険だという判断だ。
向日葵は紫苑の車に近付き、窓から中を覗き込んだ。
誰も乗っていないことを確認して辺りの気配を探ると、紫苑と菖蒲の霊力の気配があった。
どうやら、紫苑が途中で菖蒲と合流してここへ来たらしい。
スマホを確認するが、特に連絡は来ていない。
電話を掛けてみるが、電波が届かないか電源が切られているというアナウンスが流れるだけだった。
漂う妖気が、進むにつれて濃くなっているようで、二人の気配は完全に紛れてしまっている。
昼間だというのに、妖気のせいかやたら薄暗く不気味な雰囲気に包まれている。
勿論、そんな場所の雰囲気に吞まれるような向日葵ではないが。
「……赫耀」
名を呼ばれた赫耀が姿を見せる。
「紫苑の気配は覚えている?」
「ああ、勿論」
「探して」
短い指示に、赫耀はすぐにその気配を手繰った。
「奥だな。人間の気配が三つある」
「三つ?」
「一つは第三の《鍵》、もう一つは封印されていた時に俺が操った女、もう一つは、おそらく伊東とかいう男のものだ」
赫耀は使役になる前、封印が解かれる直前に如月梅と菖蒲を操っている。
霊力の気配を覚えていたことが役に立った。
「……伊東か……」
小学校で用務員として現れた時、彼に特別強い霊力は感じなかった。
だが、人間は誰しも霊力を有している。退魔師らが言う「霊力を持たない」とは、完全にゼロの状態を指す訳ではなく、妖が視えるほどではない、という意味であることがほとんどだ。
そのため、相手が一般人であっても、霊力の気配を覚えることは可能である。
そして、人間より遥かに霊力や妖力に敏感な赫耀が言うなら、おそらく三つ目の霊力は伊東のもので間違いないだろう。
「行くわよ」
向日葵の言葉に赫耀は無言で首肯し、彼女の半歩後ろを歩く形で続く。
「……近いぞ」
しばらく歩いたところで赫耀が呟く。
向日葵も頷いた。
その直後、朽ちかけた旅館らしき建物の角を曲がったところで、人影を見つけた。
二つだ。長い黒髪を後ろで一つに括っている長身と、肩にかかる茶髪の小柄な後ろ姿。
「紫苑! 菖蒲!」
呼びかけながら足早に近寄る。
二人はじっと前を向いたまま、しかし向日葵の到着に安堵した様子で息を吐いた。
「……向日葵、あれを見て」
紫苑が正面を睨んだまま顎で指す。その先に視線を向けると、崩壊した小さな祠があった。
その横に、誰かが倒れている。
中年の女だ。白髪交じりで、膝下丈のスカートとサンダルという、いかにも田舎町にいそうな主婦、といった風情の格好をしている。
廃墟にいるにはあまりに不釣り合いな出で立ちだ。
だが、問題は彼女の格好ではない。
「……私が小学校で会った伊東と同じ気配……?」
そう、気配があの用務員の伊東と同じなのだ。普通は、血縁でもここまで一致しない。
ぱっと見た感じでは、妖力に耐性のない一般人が、妖力に中てられて気を失っているように見える。
息があるのは気配でわかる。
困惑する向日葵に、紫苑は唸りながら頷いた。
「……私が寺で会った伊東とも、同じ気配だ」
「あの人は、私が一度昨日ここへ来た時に祠まで案内してくれた伊東さんよ。この廃墟の隣村の町内会長さんの奥さんだと言っていたけど……」
菖蒲の言葉に、向日葵は二人が戸惑った様子で立ち止まっていた理由を察した。
普通、妖を封印していた祠が壊されたと聞いてやってきた場所で、人間が倒れていたら駆け寄って手当をする。しかし、二人がそれをしなかった理由は、あれが人間とは限らないからだ。
「……どうする? 向日葵」
紫苑が視線を伊東から外さずに尋ねる。
視線を逸らさないのは、もし伊東が呪詛師などの敵であった場合、その僅かな隙をついて術を仕掛けてくる可能性があるからだ。
「……一時的に封印する。私がやるわ」
向日葵は両手で印を組んだ。
「禁!」
唱えた瞬間、伊東の周囲に光が顕現し、彼女の身動きと霊力を完全に封じ込めた。
その時だった。
ずん、と身体に妙な負荷がかかったような感覚が襲ってきた。
何とか耐えた向日葵と紫苑に対し、菖蒲が耐えきれずに膝を折る。
「この気配は……!」
全員が確信する。鬼だ。
向日葵が菖蒲を振り返ると、彼女は青褪めた顔で頷く。
「私が昨日来た時に感じたのと同じ気配よ」
「……なるほど、これはなかなかね」
向日葵が呟く。赫耀ほどではないが、祓えずに封印されていた、というのも納得の強い妖力だ。
注意深く様子を伺って、向日葵は刀印を結んだ右手を横一文字に薙ぎ払った。
「……斬!」
向日葵の霊力が迸り、刃となって虚空を斬り裂いた。
刹那、そこがまるで壁紙のようにべろりと剥がれた。
そこから、黒い瘴気のようなものが噴き出してくる。
「っ! 結!」
咄嗟に紫苑が叫んで、三人を取り囲む結界を織り成した。
そこに、瘴気が激しくぶつかってくる。
「菖蒲! 早く体勢を整えろ! もっていかれるぞ! 最低限自分の身は自分で守れ! 真当主だろう!」
紫苑が声を荒らげる。普段の冷静沈着な様子からは想像しがたい、太い怒声だ。
はっとした菖蒲が、膝に力を入れて立ち上がり、印を組んだ。
「赫耀!」
向日葵に名を呼ばれた赫耀が、素早く右手を掲げた。
しかし、彼が何かするより早く、黒い靄とは別の何かが赫耀に絡みついた。
「っ!」
赫耀がぎょっとした直後、そのまま全身に見えない鎖が巻き付いたかのように、自由を奪われてしまった。
「何だこれは……!」
数百年前に封印された時と似た感覚だが、違う。
その様子を見た向日葵が目を瞠る。
「まさか……!」
退魔師の使役に下った妖に対してのみ効く術がある。
その契約を無効化する術だ。
質の悪い呪術師や呪詛師によって契約で縛られた妖を解放するために編み出された術だが、まさか赫耀相手にこの術を仕掛ける者がいるとは予想外だった。
「赫耀!」
向日葵が名を呼んだ直後、赫耀の腕がだらんと落ちた。
いつの間にか、霊力の鎖が彼の顔を覆っていた。
彼の身体から力が抜け、その霊力によって支えられているような恰好になる。
向日葵が愕然とその姿を見つめる。
赫耀は、向日葵が今まで出会った中で最強の鬼だった。
その赫耀が、このように目の前で囚われてしまうなんて、想像もしていなかった。
「やったぞ! これで最強の悪鬼は俺の配下だ……!」
向日葵、紫苑、菖蒲、赫耀のどれでもない声が響いた。
赫耀以外の三人が驚いて振り返ると、その先に、一人の青年が立っていた。
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