壱:事件
向日葵が祖父である芭蕉に説教を喰らってから数日後、彼女が大学から帰宅しようと駅に向かっていると、後ろから駆けて来る足音が近づいてきた。
「葉月さん!」
呼ばれて振り返ると、そこには見覚えのある人物が立っていた。
流行りの髪形をした、少し軽薄な印象を受ける青年だ。
「この後暇? もしよかったらお茶とか食事でも……」
「遠慮するわ。忙しいの」
無表情でそう答えると、向日葵は身を翻した。
しかし青年は諦めない。
「待てよ! 何だよ! 折角誘ってやってるのに……」
「誘ってくれなんて頼んでないわよ。何で私の貴重な時間を、よく知りもしない興味も湧かないアンタみたいな男と過ごすために使わなきゃならないの? 何の拷問?」
冷たく言い放つと、今度こそ背を向けて歩き出す。
一瞬ぽかんとした青年だったが、何を言われたか理解した瞬間にかっとなった様子で向日葵の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
「偉そうに……!」
しかし、その手が届く直前、特大の静電気が発生したかのように、ばちっと音がして手が弾かれた。
「っ! ってぇ……」
向日葵は気配と音で何が起きたかを察しつつ、振り返らずにその場を立ち去っていった。
しばらく進んで、駅のホームに着いたところで、向日葵は周りに人がいないことを確認して呟いた。
「赫耀、命令していないのに余計なことをしないで」
と、彼女の背後で気配が僅かに揺らいだ。
『……あの男からは明確な敵意を感じた。主を守るのは使役の定めだ』
彼女の耳にだけ直接声が届く。
赫耀の声だ。彼は隠形して向日葵に追従していたのだ。
「私を守ろうとしてくれるのは嬉しいけど、人間相手に力を使うのは駄目よ」
『何故だ。使役が主を守るのは当然だろう』
「あのねぇ、赫耀は元々鬼で、私の使役になったんだから、人間に危害を加えたら駄目なのよ。そういう契約でしょう?」
向日葵の言わんとすることを理解した赫耀は、それでも「わかった」とは言わなかった。
実際、使役になる時には主従契約を結んでいる。
だが、書面を交わす人間同士の契約と違い、向日葵が赫耀の力を削いで名前を付けるという手順を踏む、強制的な主従契約であり、その際に向日葵が念じたことが制約として赫耀を縛っている。
そのうちの一つに、原則として人間を傷つけてはならない。というものがある。
その原則の例外となるのは向日葵が命じた時のみである。
だが、赫耀の言う通り、使役は主を命を賭して守るという定めを負う。それはそもそもの主従契約の大前提となる部分である。その定めの範囲ならば、人間を傷つけることも厭わない、というのが赫耀の解釈なのだ。
そして、赫耀を縛るのはその使役としての定めだけではない。
『……使役は主を守る。それだけは俺も譲れん』
それは、向日葵の使役に下った時に、彼自身が己に課した誓約でもある。
気が遠くなるような久遠の闇の中に封印されていた悪鬼。
ずっと孤独だった。
寂しいと思う感情も持ち合わせていなかったが、いつも胸に穴が開いているような心地がしていた。
それを、向日葵は名前を与えて傍にいることを許してくれた。
あの瞬間から、向日葵は赫耀にとって唯一無二の存在になったのだ。
だから、赫耀は何があっても向日葵を守ると、心に決めているのである。
「あれくらい、私一人で対処できるわよ。今までだってそうしてきたんだから」
そう呟く向日葵の顔に、僅かな翳りを感じて、赫耀は隠形しつつも怪訝そうに首を傾げた。
当たり前だが、赫耀は向日葵の過去を知らない。
そして向日葵もまた、伝承で聞いた範囲でしか、赫耀のことを知らない。
主従契約を結んで間もない二人は、まだ絆と呼べるほどの信頼関係も築けていないのだ。
『……これからは、一人で全部やろうとしなくていい』
「え?」
上手く聞き取れず問い返したところで、電車がホームに入ってきてしまった。
仕方なく電車に足を踏み入れた瞬間、向日葵は妙な気配を感じて周囲に視線を滑らせた。
何だろう。ほんの微かだが、いる。
平日の夕方で割と込み合っている電車内。皆スマホをいじったり、お喋りに興じていたりと、誰も異変に気付いている様子はない。
入って、向かい側の閉まっているドアの横に立って、周囲を観察するが、妖などは見当たらなかった。
「……祓」
下ろした手を密かに印の形に握って、ほぼ声に出さずに呟く。
刹那、向日葵から清浄な霊力が迸り、電車内に広がっていった。
どこかにいた妖の気配が完全に消えたのを確認して、向日葵は小さく嘆息して窓の外を見る。
彼女が電車に入って来た瞬間から、数人が彼女をちらちらと見ては、うっとりとしたような顔をしているが、彼女は気にも留めない。
暦の十二の分家の者の中でも、彼女の美貌はひと際目を引く。
もしも彼女の母親の妹が暦家現当主の母親でなければ、きっと彼女が樹の花嫁に据えられていただろう。
とはいえ、向日葵自身は、樹と結婚したいという気も、本家に取り入りたいという気も微塵もないため、母親同士が姉妹で良かったと思っていたりするが。
『……なぁ主』
直接呼びかけられ、向日葵は僅かに視線を動かした。
隠形しているので、主である向日葵でも姿を視認することはできないが、気配はそこにあることを感じている。
電車の中で不用意に声を出すことはできないので無言で続きを促すと、赫耀はさも不思議そうな声を漏らした。
『このデンシャという箱は、何故これほどの速さで動いているんだ? 何が引いている?』
そうだ。赫耀が悪鬼として封じられたのは何百年も昔のことだ。
当然、当時には電車もなければ電気もないし、今の日本に当たり前に存在しているインフラは全てなかったのだ。
そんな彼に、電車は電気で動いている、と口で説明しても伝わらないだろう。
どう説明したものか、と思案しつつ、電車が自宅最寄り駅に到着したので電車を降りる。
と、丁度その時、彼女のスマホが着信を告げた。
「はい、向日葵です」
画面で相手を確認してから応じると、電話の主は本家である暦家の当主、樹だった。
『向日葵、仕事だ』
短い言葉に、向日葵の背筋が無意識に伸びる。
『場所は市内の小学校、座標はメッセージで送る。裏庭の祠を、何者かが破壊したらしい』
つまり、封じられていた何かが、そこから解き放たれて悪さをしている、と。
よくある話だ。
退魔師が全国的に分散して機能していたのは、明治時代くらいまで。
その頃までは妖も非常に活発で、よく人間を襲ったりしていたので、退魔師が頼られてきたが、文明が発達し、夜も明るくなったことで妖たちは徐々に衰退し、同時に退魔師も数が減っていった。
当然だが、そうなると妖の存在を信じない者が増えていく。
今となっては、ほとんどの者が迷信だと笑うようになってしまった。
それにより、かつて退魔師が苦労して封じた妖の封印が、無知な人間によって破壊されて解き放たれてしまうということが起きるようになっているのが現状である。
「……小学校の裏庭、ね……」
通話を終え、呟きながら画面に視線を落とす。
早速、樹から小学校の位置を示す情報が送られてきた。
場所は五キロほど離れたところで、徒歩となると一時間近く掛かってしまう。
向日葵は迷わずタクシーに乗り込むと、小学校名を告げた。
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