二十一日目(前編)
馬車を降りた私の目前に広がる青い景色。水平線の彼方からは、私の足元の白い砂浜へ向かって何度も波が打ち寄せてきます。砂漠のように所々に盛り上がりを見せている海原は絶えずその姿を変えており、次々と生みだされる波は時折その頂辺を風によって崩され白色へと変え、複雑な動きを見せているのでした。
どうやら海には二つの動きが入り混じっているようです。不規則に、そして無数に生まれる三角の形をした小さな波、それらを広範囲に渡って大きく持ち上げるうねり。うねりは波とは異なった形をしており、横一列に並んだ緩やかな丘のような形をしており、常に一定の間隔で現れて押し寄せてくるのでした。
砂浜の周囲を探索する私の目の前に、何か大きな力によって削り取られた形状をした崖がみえます。その崖は陸側は緑に覆われていますが、海側では白い色の岩肌を見せており全体としては、とても対照的な色をしているのでした。
無数の小さな浅い穴に覆われた岩から、打ち寄せる波を見つめる私。砂浜とは違い、独特の匂いを放つこの場所では様々な生物が存在しており、それらは矮小な存在であるにも関わらず、私には目もくれず絶えず忙しく動き回っているようです。
濃い青色をした海を見つめていた私は、言いようのない恐怖感に包まれます。無限とも思える広がりを見せる海、それは何も横方向だけではありません。おそらく遥か彼方の海底まで広がっているのでしょう。
その深海に潜む魔物が、突然現れてもおかしくはありません。地上からは水の奥深くを見ることは出来ません。ですが、逆の場合はどうでしょうか?私はただなんとなく海を見つめているだけですが、逆に海の底からはおぞましい魔物が舌なめずりをして愚かな獲物である私を見ているかもしれないのですから。
一刻も早くこの場を離れたいという考えに駆られる私。ですが突然背後から声をかけられ、動くことはかなわないのでした。
「深い青色を見ていると、吸い込まれるような感覚にならない?飛び込んでみたくなるような」
穏やかな表情をしたご主人様は普段通りのゆっくりとした口調で話します。
一体ご主人様は何を言っているのでしょうか。人間も我々と同様に水場での適応能力は持っていないはずです。陸上では、繁栄している人間種族も海では生活することは出来ず、海洋種族の治める南方へはまったく勢力をのばしていません。陸上に住む者にとって海は未知の世界であり、一度そこへ足を踏み入れればたちまち海の種族の餌食にされてしまう事でしょう。
「恐怖は感じないのですか?全貌を掴めず、どのような魔物が存在するかもわからない海に対して。少し離れた場所から見るのであれば、濃い色合いをした良い景色だとは思いますが、近くへ来てみると私には恐怖しか感じません」
「使い魔は違うかも知れないけど、すべての陸上の生き物は元々は海から生まれた存在だからね。多分、こっちの世界でも」
信じがたい話をされるご主人様。海から生まれた存在なら、どうして水場での適応能力を持っていないのでしょうか?本来、生物は生まれた環境に適した能力を持っているはずです。
そういえば以前、ご主人様は興味深い事を仰られていましたね。なんでも生物は今ある形のまま生まれたのでは無く、異なる姿から次第に環境に適した姿に形を変えてきたとか。魔力によって生み出された我々とは異なり、ご主人様達はそうやって今の姿を手にしたのでしょう。
「それだと、やがて陸の生き物は更に異なる姿に変わっていくのですか?」
「そう言われているね。それまで何万年もかかるし、今ある姿が最後になる生き物もいるみたいだけど」
寂しげな表情で遠くを見つめるご主人様。寿命の短い人間種族であるご主人様にはその変化を見ることはかなわないでしょう。ですが、人間自体は姿形を変えて永く生きるはずです。
私は、ご主人様の姿に人間種族の好奇心の旺盛さと生への執着を垣間見た気がするのでした。寿命も短く、力も魔力も弱い生物でありながらこの世界の頂点に君臨する奇妙な存在。その人間の強さの秘訣が朧げながらではありますが、分かってきた気がします。短い生涯でありながらも彼らはとても有意義に時間を消費しているようです。そして、他の生物とは異なり良く物事を考えます。
一般的な生物は、自らの生活、捕食や繁殖にしか興味を抱きませんが、人間は違うようです。自分達の事以外にも、他種族の事や世界の真理を常に追い求めて生きているようです。そしてそれらの知識の積み重ねが、今日の人間の地位を作ったのでしょう。寿命も永く、力も魔力も強い魔族ですが、残念ながらその生涯を有意義に使った個体は限られているはずです。そこが両者の大きな違いとなったのですね。
「ご主人様、迷宮をお造りにならなくてよろしいのでしょうか?」
私の生涯にとって、ご主人様の生涯は僅かな時間です。無駄には出来ません。
砂浜へと戻った私とご主人様は、そこで凄惨な光景を目にするのでした。白い砂浜に点在する、緑色の体液を撒き散らして絶命している大きな蟹の魔物達。胴体を両断された姿で転がっている馬、大きく切り裂かれた馬車の幌、遠く離れた場所で転がっている車輪。
人間の腰程の体高を持つ蟹達を率いている、ひときわ大きな体をした赤黒い色の巨大な蟹と向かい合うシャハルラム達。赤黒い大蟹は人間の何倍もある巨大なハサミを振りかざし、双子の妹の張った結界目掛けて振り下ろしています。硬質化した物体同士のぶつかり合う音が響き、ハサミが振り下ろされる度に周囲には細かい欠片が飛び散っているようです。
結界の外では、シャハルラムが何やら呪文を唱え、やがて白い砂浜が盛り上がるようにして、地面から骸骨達が姿を現します。各々が錆びた武器を手にして現れた骸骨達。その生命を持たない勇敢な兵は臆することなく、蟹達に向かっていくのでした。
骸骨達の武器がそれぞれの正面に立つ子蟹へと振り下ろされ、砂浜では絶えず金属音が響いています。波の打ち寄せる音しかしなかった砂浜は、激しい剣戟の音に包まれ至る所で戦闘が繰り広げられているのでした。蟹の硬い攻殻によって武器を弾かれ、ハサミによる反撃に身体を粉砕される骸骨。当たり所が悪かったのか、骸骨の武器を体に受けて緑色の体液を撒き散らして、砂浜へと倒れる蟹。両者は一進一退の攻防を繰り広げているようです。
無数に聞こえる金属のぶつかる音をかき消すかのように轟音が響き、赤い閃光によって巨大なハサミを貫かれる巨大蟹。結界の中では、姉が両手杖の先端から閃光を発して応戦しているのでした。
薄い青色の結界の中で妹の右手に抱きかかえられたオーブを見つけ、安心する私。あとはご主人様を守りつつ、蟹達を排除するだけです。普段魔物は使役する存在と思っていましたが、いざ対峙するとなると厄介ですね。獲物を逃がすまいと完全に我々を包囲している大量の敵。更に厄介な事に動物型の魔物とは異なり、この手の魔物は痛みを知らず、こちらの攻撃に対して怯む事無く襲ってきます。
巨大な右のハサミを貫かれ、その破口から体液を流している巨大蟹は、結界を破壊する事が出来ないと悟ると鋭い脚をせわしなく動かし、向きを変えるのでした。
巨大蟹の頭部から伸びた二本の突起、その先端にある黒い目玉がこちらを向いているように思えます。勿論、蟹の視線等はわかりかねますが、私にはとても嫌な予感がしているのでした。その場にて体の向きを変えていた巨大蟹の動きが止まり、私とご主人様へと正面を向けています。
こちらに標的を変えた。私がそう判断すると同時に、動き出す巨大蟹。敵はご主人様目掛けて、その巨体からは想像できないような速度で迫って来るのでした。




