普通の人が考える仕組み
グリフは、その日のうちに上村へ電話をかけた。
牛丼店で三浦と偶然再会したこと。その夜、2人で話したこと。そして、倉沢で続けてきた住民参加の仕組みを国政へ持ち込めないかと提案されたことを、順を追って説明した。
電話の向こうで、上村はしばらく黙っていた。
『それで、お前は引き受けたのか』
「まだ、正式に何かを始めると決めたわけじゃない。まずは、あいつが本気かどうかを見る」
『お前がそう言うときは、だいたいもう半分引き受けてるんだよ』
「そうか?」
『そうだよ』
上村は呆れたように息を吐いた。
『まあ、お前がいいっていうなら、俺は止めないけどな。多分、相当大変だぞ』
「やっぱり?」
『三浦は昔からそうなんだ。友達として遊んでる分には面白い。あいつがいると場が明るくなるし、知らないやつともすぐ仲よくなる』
「ああ、それは分かる」
『でも、何かを一緒にやろうとすると、すぐ空回りするんだよ。文化祭で勝手に予定を増やしたり、頼まれてもいないのに司会を始めたり』
「想像できるな」
『高校のとき、野球部の応援を盛り上げるって言って、試合の前日に全校生徒へ新しい応援歌を覚えさせようとしたこともあった』
「それは無理だろ」
『教師に止められたら、“挑戦する前から諦めてどうするんですか”って説教し始めた』
グリフは笑った。
「変わってないな。俺が気づくまで、ずっと牛丼屋で働くつもりだったらしい」
『普通に店へ行けばいいのにな』
「お前との約束を守ってたんだよ」
『そこなんだよなあ』
上村の声が少し柔らかくなった。
『やることは馬鹿なんだけど、妙に義理堅いんだ。だから完全には見捨てられない』
「そこが、あいつのいいところなんだろ」
『まあな』
「俺たちの年で、会えるかどうかも分からない相手を3か月も待てるのは、ある意味では天才だよ」
『天才の使い方、間違ってないか?』
「少なくとも、俺にはできない」
グリフは三浦との会話を思い返した。
「俺でも、こいつが本気なら少しくらい手伝ってやろうかって気になった」
『確かにな。お前は熱いところもあるけど、どこか冷めてるからな』
「言ってろ」
『褒めてるんだよ。勢いだけで何でも引き受ける人間じゃないってことだ』
「それで、あいつが国会議員になれると思うか?」
『思わない』
上村は即答した。
「少しくらい考えろよ」
『考えたって同じだ。でも、面白いことが起きそうだとは思う』
「面白さで国会議員を選ぶな」
『お前まで政治家みたいなこと言うなよ。もう辞めただろ』
「元政治家だ」
『似たようなもんだ』
上村は少し笑ってから尋ねた。
『それで、これからどうするんだ?』
「まずは三浦に、政治の基本を教える」
『お前が先生になるのか』
「先生というほどじゃない。俺が知っていることを話すだけだ。週に2回くらいかな」
『あいつ、続くか?』
「そこを見るんだよ。少なくとも、看板政策にするつもりの直接民主制くらいは理解してもらわないと困る」
『直接民主制って、住民投票とかだろ?』
「それだけじゃないけどな」
『俺は倉沢に住んでるから、何となくは分かる。町民会議で話し合って、そのあと投票するんだろ。でも、三浦に分かるかな』
「言葉が少し硬いだけで、中身は難しくない。むしろ、三浦みたいな人間が普通の言葉で説明できないなら、国民に広めるなんて無理だ」
『なるほどな』
上村はしばらく考えてから言った。
『俺も、都合が合えば参加していいか?』
「興味あるのか?」
『少しな。倉沢に住んでて何度も投票したけど、仕組みを最初から聞いたことはない。それに、三浦とお前だけにしておくと、話が変な方向へ行きそうだ』
「監視役か」
『通訳だよ。お前の説明が難しすぎたら三浦に訳して、三浦が変なことを言い始めたらお前に訳す』
「三浦は日本語を話してるだろ」
『あいつは時々、三浦語になる』
グリフは声を出して笑った。
「分かった。三浦と会う日は声をかけるよ」
*
数日後の夜、グリフと上村は、三浦が借りているアパートを訪れた。
築年数の古い2階建てで、外廊下の鉄製の手すりにはところどころ錆が浮いていた。階段を上るたびに、乾いた金属音が鳴る。
三浦の部屋は2階の一番奥にあった。
間取りは六畳と小さな台所だけの、1人暮らし用の部屋である。
壁際には折り畳まれた布団が置かれ、その横には芸人時代に使っていたらしい衣装ケースが積まれていた。テレビ台の上には小型のテレビがあり、窓際には洗濯物が室内干しされている。
部屋の中央には、小さな折り畳みテーブルが出されていた。
「狭くて悪いな」
三浦が座布団を並べながら言った。
「男3人なら十分だろ」
グリフは答えた。
本当はグリフか上村の家を使う案もあった。
しかし、2人とも所帯持ちである。夜ごと三浦を連れて政治の話をすれば、家族に余計な気を遣わせる。
《ワルン・クラサワ》の一角を使うこともできたが、営業後までスタッフを残したり、店内で政治活動をしているように見られたりするのは避けたかった。
その結果、三浦の部屋が、当面の勉強会場になった。
テーブルの上には、麦茶のペットボトル、オレンジジュース、3袋100円ほどの小さな菓子が並んでいる。
「ビールは?」
上村が冷蔵庫のほうを見た。
「今日は勉強だから、酒はなしだ」
三浦が言った。
「お前がそれを言うのか」
「俺だって本気なんだよ」
三浦は真新しい大学ノートと、3本入りのボールペンをテーブルへ置いた。
「ノートまで買ったのか」
「形から入るのも大事だろ」
「3日で使わなくなるなよ」
「上村、お前は何しに来たんだ。俺のやる気を削りに来たのか」
「暴走しないように見張りに来た」
「グリフ、こいつ帰していいぞ」
「2人とも座れ」
グリフは鞄から、何枚かの資料を取り出した。
三浦がノートの一番上に、日付を書き込む。
その下へ大きな字で、
――直接民主制 第1回
と記した。
「それで、まずは直接民主制についてだ」
グリフは2人の顔を見た。
「これを理解してもらわないと、何も始められない」
「倉沢でやっているやつだな」
三浦が言う。
「ああ。ただし、倉沢で行っている仕組みのすべてが、直接民主制というわけじゃない」
「もう分からなくなった」
「早いよ」
上村が言った。
*
グリフは資料の1枚に、ペンで2つの円を描いた。
「簡単に言えば、選挙で代表者を選び、その人たちに政治を任せるのが間接民主制だ」
「国会議員とか町議を選ぶやつだな」
「そうだ。これに対して、国民や住民が政策について直接投票するのが直接民主制だ。住民投票や国民投票が代表的だな」
「じゃあ、町民会議は?」
「それは、熟議民主主義に近い」
「じゅくぎ?」
三浦がノートへ平仮名で書いた。
「よく話し合うという意味だ。いきなり賛成か反対かを決めるんじゃなくて、資料を読み、専門家の話を聞き、反対意見も聞いてから考える」
「話し合ってから投票する」
上村が言った。
「倉沢でやってるのは、それを組み合わせたものか」
「そうだ。町民会議で案を練る部分と、住民が投票する部分を組み合わせている」
三浦はノートに、
――話し合い+投票
と大きく書いた。
「それを最初に考えて、村田町長に提案したのがグリフなんだろ?」
「それ、どこで聞いた?」
「商店街の人たち」
制度を正式に提案したのは、当時の町長だった村田である。
グリフが事前に村田へ案を持ち込んだことは、公にはされていなかった。しかし、グリフに近い商店街の支援者たちの間では、いつの間にか知られるようになっていた。
「俺が一から考えたわけじゃない」
グリフは言った。
「参考にした外国の事例がある」
「どこ?」
「アイルランドだ」
三浦が首をかしげた。
「ヨーロッパの国だっけ?」
「確か、イギリスの隣だよな」
上村が言った。
「島の西側にある国だ。北の一部はイギリスだけど、今話しているのはアイルランド共和国のほうだ」
「ややこしいな」
「そこは今日の本題じゃない」
グリフは資料を1枚、2人の前へ置いた。
「アイルランドには、憲法を改正するとき、最後に国民投票をする仕組みがある」
「国会だけじゃ変えられないのか?」
三浦が尋ねる。
「議会で改正案を通したうえで、国民投票にかける。国民の過半数が賛成して、初めて憲法が変わる」
「日本と似てるな」
上村が言った。
「手続きの形は似ている。ただ、アイルランドでは日本より頻繁に国民投票が行われてきた」
「それだけなら、普通の直接民主制だろ?」
「ここからが面白いところだ」
グリフは、紙の上に100という数字を書いた。
「2013年頃、アイルランドは、憲法を現代に合わせて見直すために“憲法会議”をつくった」
「憲法学者を集めたのか?」
「専門家だけじゃない。全部で100人。そのうち66人は、無作為に選ばれた普通の市民だった」
三浦のペンが止まった。
「無作為って、くじ引きみたいなもの?」
「完全なくじ引きというより、国民全体の縮図になるように選ぶ。男性と女性、若い人と高齢者、都市と地方などが、なるべく実際の社会に近い割合になるようにする」
「66人が普通の人で、残りは?」
上村が聞いた。
「議員が33人。それに独立した議長が1人だ」
「政治家と普通の人を一緒にしたのか」
「そうだ」
三浦はノートに人の絵を描き、その横へ66と33を書き込んだ。
「そこで何を話した?」
「投票できる年齢を下げるべきか、選挙制度をどうするか、女性の地位を憲法でどう扱うか。いくつもの問題を検討した」
「ずいぶん幅広いな」
「その中で特に有名になったのが、同性同士の結婚を認めるかという問題だ」
*
三浦は少し表情を改めた。
「宗教的な考え方も強い国だったから、政治家だけで決めるには難しい問題だった」
「賛成したら反対派に怒られるし、反対したら賛成派に怒られる」
上村が言った。
「政治家が一番逃げたくなるやつだな」
「そういう問題だからこそ、普通の市民に考えてもらった」
「普通の人が集まって、いきなり結婚の話をするのか?」
「いきなり多数決はしない」
グリフは三浦のノートを指で示した。
「さっき書いただろ。話し合いが先だ」
「ああ、熟議」
「憲法の専門家から、現在の法律がどうなっているか説明を受ける。同性婚に賛成する団体と、反対する団体の双方から話を聞く。当事者の体験も聞く」
「質問もできるのか?」
「もちろんだ。資料も読むし、少人数のグループでも話し合う」
「1日で?」
「何度も集まる。週末を使って、時間をかけて検討する」
三浦は感心したように息を吐いた。
「普通の人が、そこまでやるのか」
「最初から詳しい人である必要はないんだ」
「知らない人を選ぶ意味があるのか?」
「知らないからこそ、最初から結論が決まっていないこともある」
上村が腕を組んだ。
「でも、専門家の説明の仕方で、意見を誘導できるんじゃないか?」
「そこが一番難しい」
グリフはうなずいた。
「誰を専門家として呼ぶか。賛成と反対に同じだけ話す時間を与えるか。渡す資料に偏りがないか。運営側が結論を誘導していると思われたら、全部が信用されなくなる」
「倉沢でも、そこに苦労したのか」
「したよ。太陽光発電所のときも、事業者の資料だけでは駄目だった。反対している住民や、景観の専門家の話も聞く必要があった」
三浦は何度もうなずきながら、ノートへ書き込んでいた。
「それで、アイルランドの普通の人たちは、同性婚に賛成したのか?」
「憲法会議では、およそ8割が、憲法を変えて同性婚を認めるべきだと勧告した」
「思ったより多いな」
上村が言った。
「話を聞く前から、8割が賛成だったのか?」
「そこまでは分からない。ただ、議論の結果として、その結論を出した」
「それで、すぐ法律が変わった?」
三浦が尋ねる。
「いや。憲法会議に法律を変える権限はない」
「ないのかよ」
「普通の市民が100人集まっただけで、国の憲法を変えられたら危ないだろ」
「じゃあ、何のためにやったんだ?」
「政府と議会へ勧告するためだ」
*
グリフは紙に矢印を描いた。
「市民と議員が話し合う。そこで勧告をまとめる。政府がそれを受けて、国民投票にかけるか判断する。そして最後は、国民全体が投票する」
三浦が矢印を追いながら言った。
「市民会議が案を作って、議会が受け取って、最後は国民が決める」
「そういう流れだ」
「倉沢と似てるな」
「倉沢では、町民会議で複数案を検討して、町長と議会が住民投票を実施する。規模も法的な仕組みも違うけど、考え方は参考にした」
「アイルランドでは、同性婚はどうなった?」
「政府が勧告を受け入れ、2015年に国民投票をした。結果は、6割以上の賛成で憲法が改正された」
「普通の市民が出した案が、本当に国を変えたのか」
三浦が小さく言った。
「正確には、憲法会議だけで変えたわけじゃない。議会の手続きもあったし、賛成派と反対派の国民運動もあった。最後に決めたのは、有権者全体だ」
「でも、最初の道をつくった」
「そう言っていいと思う」
三浦はノートの端に、大きく丸を描いた。
「ほかにも成功したのか?」
「そのあと、仕組みを少し変えた“市民会議”がつくられた」
「憲法会議と何が違う?」
「今度は、議員を入れなかった」
上村が眉を上げた。
「政治家抜き?」
「議長1人と、無作為に選ばれた市民99人。合計100人だ」
「完全に普通の人だけで話したのか」
三浦が言った。
「議論するメンバーはな。もちろん、専門家や当事者は説明に来る」
「何を話した?」
「最も注目されたのは、妊娠中絶を厳しく制限していた憲法の規定をどうするか、という問題だった」
三浦のペンが、また止まった。
「それは、同性婚より揉めそうだな」
「実際、長年対立してきた問題だった。女性の権利や健康の問題だと考える人もいれば、胎児の命を守る問題だと考える人もいた」
「政治家だけで決めたら、どちらへ転んでも大騒ぎになる」
上村が言った。
「だからといって、最初から国民投票にしたら、感情的な争いになるかもしれない」
「そこで、市民会議か」
「そうだ」
グリフはうなずいた。
「市民たちは、医師や法律家から説明を受けた。中絶に反対する人、規制の緩和を求める人、実際に影響を受けた女性たちの話も聞いた。一般から寄せられた意見も読んだ」
「それを何か月も?」
「複数の週末を使ってな」
「面倒になって、来なくなる人はいなかったのか?」
「途中で交代した人もいる。それでも会議としては続けた」
三浦は腕を組んだ。
「俺だったら、途中で頭がいっぱいになりそうだ」
「それでいいんだよ」
「いいのか?」
「簡単に答えが出ない問題だと知ることも、話し合いの意味だからな」
グリフは、三浦の前に置かれたノートを軽く叩いた。
「政治家や活動家は、最初から立場が決まっていることが多い。“賛成だから賛成の情報を集める”“反対だから反対の情報を集める”となりやすい」
「普通の市民なら、途中で考えを変えてもいい」
上村が言った。
「そうだ。誰かに対して、前からこう主張してきたという責任もない。説明を聞いて、納得すれば意見を変えられる」
「市民会議は、どういう結論を出した?」
三浦が尋ねた。
「憲法を変え、議会が中絶について法律を定められるようにする方向を勧告した」
「それでまた、すぐ国民投票?」
「その前に、議会の委員会が市民会議の報告を検討した。政府と議会が改正案をつくり、2018年に国民投票が行われた」
「結果は?」
「憲法を変える案が、大きな差で可決された」
*
三浦はペンを置いた。
「すごいな」
しばらく、誰も話さなかった。
窓の外から、駐車場へ入ってきた車の音が聞こえた。隣の部屋では、テレビの笑い声がかすかに響いている。
やがて上村が口を開いた。
「でも、それって市民が直接法律を作る制度ではないよな」
「そこは重要だ」
グリフは答えた。
「市民会議そのものは、直接民主制とは少し違う。市民が話し合って勧告を出す、熟議の仕組みだ」
「最後の国民投票が直接民主制」
三浦がノートを見ながら言った。
「そうだ。そして、議会も途中に入っている」
「議会をなくすわけじゃないんだな」
「なくさない。市民会議だけで国を動かすわけでもない」
グリフは、先ほど描いた矢印に3つの言葉を書き加えた。
市民会議。
議会。
国民投票。
「それぞれ役割が違う。市民会議は、普通の国民が時間をかけて考える。議会は、法律として成立する形に整え、政治的な責任を負う。国民投票は、最後に国民全体が決める」
「3段階か」
上村が言った。
「面倒だな」
「面倒だからいいんだ」
「どういうこと?」
三浦が聞いた。
「簡単に決めてはいけない問題を、簡単に決めないための仕組みなんだよ」
グリフは2人を見た。
「多数決は、最後には必要だ。だけど、何も知らないまま、気分だけで賛成か反対かを選ばせれば、声の大きいほうや、恐怖をあおるほうが勝つこともある」
「先に一部の市民が勉強して、選択肢を整理する」
「そうだ。その過程を公開すれば、ほかの国民も、どんな意見があり、何が問題なのかを知ることができる」
*
三浦はしばらくノートを見つめていた。
「倉沢モデルって、アイルランドをそのまままねたんじゃないんだな」
「町の規模や日本の制度に合わせて変えた」
「町民会議で考えて、町長と議会が受け取って、住民投票をする」
「必要に応じてな。毎回、住民投票をしなければならないわけじゃない」
「じゃあ、国でやるとしたら、アイルランドをそのまま持ってくればいいのか?」
「そんなに簡単じゃない」
グリフは即座に答えた。
「アイルランドは、もともと憲法改正の国民投票を何度も経験している。日本とは政治文化も制度も違う」
「また難しい話になってきた」
「ここからが本題だよ」
「今日は入門じゃなかったのか?」
「だから、難しい部分は次回だ」
三浦は明らかに安心した顔をした。
上村が時計を見る。
「もう10時半だぞ」
「そんな時間か」
グリフも腕時計を確認した。
話し始めてから、2時間以上が過ぎていた。
「初日は、このくらいにしよう」
「まだ聞けるぞ」
三浦が言った。
「お前は独り身だからいいけど、俺たちには家族が待ってるんだ」
上村が立ち上がった。
「政治を語って家庭を壊したら、国民の生活を守るどころじゃない」
「上村が珍しく、もっともらしいことを言った」
「珍しくは余計だ」
グリフは資料をまとめ、鞄へ戻した。
「次までに、今日の話を自分の言葉で説明できるようにしておいてくれ」
「試験するのか?」
「人に訴える政策にするんだろ。俺の説明をそのまま暗記しても意味がない」
「憲法前文なら暗記できたぞ」
「暗記じゃなくて理解しろ」
「分かった」
「今の返事が一番信用できないんだよな」
上村が言った。
三浦は2人を玄関まで見送った。
「次はいつにする?」
「あとで連絡する」
「できれば牛丼屋の勤務がない日にしてくれ」
「お前の予定を先に送れ」
「了解」
グリフと上村が外廊下を歩き、階段を下りていく。
三浦は扉の前に立ったまま、その姿が見えなくなるまで見送った。
*
2人が帰ったあと、三浦は部屋へ戻った。
テーブルの上には、空になったグラスと菓子の袋が残っている。
片づけようとして、途中でやめた。
ノートをもう一度開く。
自分で書いた文字を上から読み返した。
間接民主制。
直接民主制。
熟議。
無作為に選ばれた普通の市民。
専門家と賛成派、反対派の話を聞く。
市民会議、議会、国民投票。
最後のページには、グリフが言った言葉を、急いで書き留めていた。
――簡単に決めてはいけない問題を、簡単に決めないための仕組み。
三浦は、その一文を四角で囲んだ。
芸人として舞台に立っていた頃、客を笑わせるためには、説明を短くしろと言われてきた。
余計な言葉を削り、最初の数秒で客を引きつける。
政治も同じようなものだと思っていた。
目立つ言葉を言い、注目を集め、名前を覚えてもらう。
だが、今日聞いた話は逆だった。
すぐに答えを出さない。
分からないことを認め、時間をかけて考える。
反対する人間の話まで聞く。
「政治って、面倒くせえな」
三浦は1人でつぶやいた。
それでも、ノートを閉じる気にはならなかった。
1枚めくり、新しいページの上に書く。
――次回までに調べること。
その下へ、まず「アイルランド」と記した。
少し考えてから、もう一つ付け加えた。
――なぜ普通の人が、難しい問題を話し合えたのか。
三浦はスマートフォンを手に取り、検索画面を開いた。
部屋の時計は、すでに11時を回っていた。




