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こいつでいいのか

「それでさ」

 三浦は2杯目のビールを注文したあと、急に真剣な表情になった。

「倉沢に引っ越してから、お前のことをいろいろ聞いたんだ」

「俺の?」

「ああ。お前、すごいな」

「何が?」

「この町、住民投票でいろいろ決めるんだろ」

 グリフは、少しだけ表情を変えた。

「住民投票だけで決めるわけじゃない」

「その前に、普通の町民を集めて会議するんだろ?」

「町民会議な」

「無作為に選んだ人も入れる。それで専門家とか役所の話を聞いて、いくつか案を作る」

「よく調べたな」

「商店街の人に聞いた」

 三浦は得意そうに言った。

「ただ賛成か反対かを聞くんじゃなくて、町民会議で考えた案を、最後にみんなの投票にかけるんだろ。それも1回で終わらず、何度もやってきた」

「毎年というほどではないけど、何度かはな」

「そんなやり方、聞いたことないぞ」

「全国を探せば、似た取り組みはあると思う」

「でも、町の仕組みとして続いてるのは、ここくらいじゃないのか」

「たぶんな」

「『倉沢モデル』って呼ばれてるらしいじゃないか」

 三浦は、まるで自分の町の自慢をするように言った。

「それを最初に考えたのが、グリフなんだろ?」

「俺は案を出しただけだよ」

「また、それか」

「実際につくったのは、当時の村田町長や役場の職員だ。議会の理解も必要だった」

「でも、町長が代わってからは、お前が中心になって続けてきたって聞いたぞ」

「誰がそんなこと言ってた?」

「商店街の酒屋のおじさん」

「あの人か」

「あと、スナックのママも褒めてた」

「お前、どれだけ飲み歩いたんだ」

「町のことを知るには、飲み屋が一番早い」

 三浦は、すでに町のあちこちに飲み仲間をつくっているらしい。

 芸人として売れた期間は短くても、人との距離を縮める力は本物だった。

「まあ、言い出しっぺではあるからな」

 グリフは言った。

「自分なりに、できることはした」

「どうやって始まったんだ?」

「話せば長いぞ」

「今日は時間あるだろ」


 *


 グリフは、最初の住民投票について、かいつまんで話した。

 9年ほど前、倉沢町で太陽光発電所の建設計画が持ち上がった。

 計画に賛成する住民と反対する住民が対立し、町長も判断に苦しんでいた。

 単純に賛否を問えば、町は2つに割れる。

 しかも、反対票が多かったとしても、建設場所や規模を変えれば受け入れられる人がいるかもしれない。賛成票を投じた人の中にも、どんな計画でもよいと思っている者ばかりではない。

 そこでグリフは、町民が事前に話し合い、複数の案を検討したうえで投票する方法を提案した。

 最初からうまくいったわけではない。

 参加者の選び方、資料の作り方、専門家の人選、発言時間の配分。

 どれか一つを間違えれば、行政が結論を誘導したと批判される。

 会議に参加した町民からも、不満や戸惑いが出た。

 それでも回数を重ねるうちに、住民の間に、自分たちが町の判断に関わっているという意識が生まれていった。


 三浦は途中から、肘をテーブルにつき、前のめりになって話を聞いていた。

「それ、国でやったらどうなる?」

 グリフは話を止めた。

「国?」

 三浦は周囲を見回した。

 隣の席に客はいなかったが、それでも内緒話をするように声を落とした。

「倉沢でやってることを、国レベルでやるんだよ」

「簡単に言うな」

「でも、インパクトあるだろ?」

 グリフはすぐには答えなかった。

 確かに、インパクトはある。

 国民から無作為に選ばれた人々が議論し、複数の案を示す。

 その案について、国民が投票する。

 既存の国会や選挙とは別に、国民が直接、政策決定に関わる仕組みをつくる。

 少なくとも、日本の政治では珍しい主張になる。

 しかし、倉沢モデルに携わってきたからこそ、グリフには、その困難さも分かった。

 人口1万人にも満たない町ですら、参加者の選定や情報の公平性を保つのは難しい。

 国民1億人を超える規模で、誰が議題を決めるのか。

 どの情報を与えるのか。

 投票結果に法的な拘束力を持たせるのか。

 少数者の権利を、多数決からどう守るのか。

 考えなければならない問題は、いくらでもあった。


「笑われるだけだ」

 グリフは言った。

「県レベルですら実現してない。最初にこの仕組みを始めた村田さんは、今は岩手県知事だぞ。それでも県ではやってない」

「だから、国でやるんだよ」

「話を聞いてたか?」

「聞いてたよ」

 三浦はまっすぐグリフを見た。

「小さい町でできたから、次は県じゃなきゃいけないなんて決まりはないだろ」

「規模が違いすぎる」

「でも、俺が国会議員を目指すなら、それくらいの主張が必要だ」

「結局、選挙のためか」

「選挙に受からなきゃ、何もできないだろ」

 三浦は椅子を引き、さらに身体を寄せた。

「倉沢モデルで出馬しよう、グリフ」

 グリフは黙った。

 いきなり「出馬しよう」と言われても、自分が立候補するつもりはない。

 それでも、三浦の言葉は、グリフの中に思いがけないものを残した。

 倉沢で行ってきた住民参加型の意思決定を、国レベルへ広げたらどうなるのか。

 既存の議会政治を否定するのではなく、その外側に国民が参加する道をつくる。

 もし、既存政党の関係者から相談されたのなら、グリフは大いに興味を持っただろう。

 村田知事から、国政で制度化できないかと意見を求められたのなら、積極的に調査へ加わったはずである。


 問題は、目の前にいるのが三浦だということだった。


 政治を学び始めたばかり。

 国会議員になりたい理由は、もう一度有名になるため。

 金も地盤も政党とのつながりもない。

 ――こいつでいいのか。

 倉沢モデルとまで呼ばれるようになった仕組みを、三浦に任せてよいのか。

 もっと別の人間と組めば、実現へ近づく可能性があるのではないか。

 三浦と組んだために、最初から色物として扱われ、まともに検討される前につぶれてしまうのではないか。

 わずか数秒のあいだに、いくつもの考えがグリフの頭を通り過ぎた。


 *


 三浦は返事を待っていた。

 最初は期待に満ちていた表情が、沈黙が続くにつれて硬くなっていく。

 また断られる。

 そう思い始めていることが、顔を見れば分かった。

 漫才の新しい相方を探し、何人にも断られた話を、グリフは聞いていた。

 だからといって、同情だけで引き受けてよい話ではない。

 沈黙を破ったのは、グリフだった。

「三浦」

「何だ」

「政治の勉強はしてるのか?」

 三浦は少し戸惑った。

「やってるよ」

「何を?」

「いろいろ」

「いろいろじゃ分からない」

「本は読んでる。でも、難しいな。言葉も難しいし、誰かに教えてもらわないと、合ってるか分からない」

「大学は何学部だった?」

「俺、大学は中退してるから、最終学歴は高卒だよ」

「中退したのは知ってる。何を勉強してたんだ」

「一応、経済学部」

「一応って何だ」

「東京に行きたくて入っただけだから。世間でいうFランの大学だよ。2年くらいで辞めた」

 三浦は特に恥じる様子もなく話した。

「大学を辞めてから、バイトして金をためて、お笑いの養成所に入った」

 少し破天荒ではあるが、東京へ憧れた地方の若者として、まったく理解できない経歴ではなかった。

「グリフは?」

「俺はH大」

 三浦が目を見開いた。

「H大って、あのH大?」

「ほかに、どのH大があるんだよ」

「何だ。やっぱり頭いいんだな」

「やっぱりって何だ」

「上村とつるんでたから、もっとこっち側だと思ってた」

「お前の中の、こっち側とあっち側は何なんだ」

「高学歴なのに、何で高校時代は上村たちと一緒にいたんだ?」

「それも話せば長い」

 グリフは話を戻した。

「学歴がなければ駄目だと言ってるわけじゃない。政治の勉強をして、何か身についたのかと聞いてるんだ」

「憲法」

「憲法?」

「国の政治をやるなら、まず憲法だろうと思って」

「順番としては、悪くないな」

「でも、難しかった。言葉が古いし、説明を読んでも、その説明がまた難しい」

「何か覚えたことは?」

「前文」

「前文を読んだということか?」

「覚えた」

 グリフは聞き返した。

「全部?」

「たぶん」

 三浦はジョッキから手を離し、背筋を伸ばした。

 そして、少しもつかえることなく話し始めた。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」

 三浦の声から、普段の軽さが消えていた。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである――」

 途中、隣のテーブルの客が何事かと顔を向けた。

 三浦は気にすることなく続けた。

 恒久の平和。

 専制と隷従、圧迫と偏狭。

 恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利。

 政治道徳の法則は普遍的なものであり、自国のことだけに専念して他国を無視してはならないこと。

 最後に三浦は、わずかに声を強めた。

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて、この崇高な理想と目的を達成することを誓う」

 言い終えると、三浦はグリフを見た。

「合ってるか?」

「たぶん」

「たぶんかよ」

「俺も前文を全部暗記してるわけじゃない。でも、ほぼ合ってると思う」

 グリフは素直に驚いていた。

「ほかの条文は?」

「いろいろ読んだよ。でも、覚えてはいない」

「前文だけ?」

「何か気に入ったんだよ。文章の調子もいいし」

「だからって、全部覚えるか?」

「気に入ると覚えたくなるんだ」

「三浦、お前、すごいな」

 三浦は、きょとんとした顔をした。

「俺が?」

「ああ」

「何が?」

「国会議員でも、憲法前文を何も見ずに言える人は、そう多くないと思うぞ」

「そんなものか?」

「内容は理解してるだろうけど、一字一句までは覚えてない人がほとんどだろ」

 三浦は少し照れたように鼻をこすった。

「ほかにも、何か暗記してるものはあるのか?」

「昔、ネタは全部覚えてたけどな」

「それは仕事だろ」

「歌とか。学生時代に覚えたものもあるけど、ほとんど忘れた」

 三浦は少し考えた。

「ああ、あれは覚えてる。宮沢賢治」

「何を?」

「岩手出身だからな」

 三浦は、先ほどと同じように姿勢を正した。

「雨にも負けず」

 その一言から、声の調子が変わった。

 グリフと話すとき、三浦は標準語を使っている。

 だが、詩を読み始めると、ところどころに岩手の抑揚が戻った。文字そのものを方言に変えているわけではない。ただ、語尾の置き方や、音の上がり下がりに、故郷の響きが混じった。

「雨にも負けず

 風にも負けず

 雪にも夏の暑さにも負けぬ

 丈夫な体をもち

 欲はなく

 決して怒らず

 いつも静かに笑っている」

 先ほど憲法前文を唱えたときよりも、声は穏やかだった。


「1日に玄米4合と

 味噌と少しの野菜を食べ

 あらゆることを

 自分を勘定に入れずに

 よく見聞きし分かり

 そして忘れず」

 三浦は目を伏せ、ゆっくりと続けた。


「東に病気の子どもあれば

 行って看病してやり

 西に疲れた母あれば

 行ってその稲の束を負い

 南に死にそうな人あれば

 行って怖がらなくてもいいと言い

 北にけんかや訴訟があれば

 つまらないからやめろと言い」

 居酒屋のざわめきの中で、三浦の声だけが、不思議にはっきりと聞こえた。


「日照りのときは涙を流し

 寒さの夏はおろおろ歩き

 みんなにでくのぼうと呼ばれ

 褒められもせず

 苦にもされず

 そういうものに

 私はなりたい」

 言い終えると、三浦は照れを隠すようにビールを飲んだ。


 *


「これは学校で覚えたのか?」

「最初はな。でも、全部覚えたのは大人になってから」

「どうして?」

「分からない。何か好きなんだよ」

 グリフも、もちろんその詩を知っていた。

 しかし、三浦の口から聞くと、これまでとは違って聞こえた。

 自分を勘定に入れず、人のもとへ行く。

 褒められもせず、苦にもされず、それでも誰かの役に立つ。

 もう一度有名になりたいと、恥ずかしげもなく口にした男が、この詩を好み、すべて覚えている。

 矛盾しているようで、どこかでつながっている気もした。

「三浦」

「何だ?」

「お前、人の役に立ちたいっていう気持ちが、根っこにはあるんじゃないか」

 三浦は眉を寄せた。

「俺に?」

「そう」

「国会議員になりたい理由は、有名になりたいからだぞ」

「それは知ってる」

「芸人だって、売れたかったから始めた」

「でも、人を笑わせたかったんだろ」

「まあ、それはそうだけど」

「金を稼ぐだけなら、ほかの仕事でもよかった。売れない時期が続いても、芸人をやめなかった」

「やめる勇気がなかっただけかもしれない」

「それだけじゃないと思う」

 三浦は、少し困ったように笑った。

「自分じゃ分からん」

「俺がそう感じただけだ。お前がどう思うかは知らない」


 グリフは、目の前の男を改めて見た。

 憲法の前文と、宮沢賢治の詩。

 三浦が覚えているのは、単に記憶力がよいからではない。

 実際、ほかの条文はほとんど覚えていない。学生時代に学んだことも忘れている。

 それでも、この2つだけは残っている。

 国の権力は国民から預けられたものであり、その福利は国民が受けるという文章。

 自分の利益を勘定に入れず、病人や疲れた者のもとへ行く人間になりたいという詩。

 本人が自覚しているかどうかは分からない。

 ただ、三浦の中には、人に対する関心がある。

 人の反応を見て、間を変え、顔を変え、笑いをつくる。

 知らない町へ移り住み、飲み屋で住民と話し、倉沢の仕組みを調べる。

 牛丼店でも、高齢の客には丼を受け取りやすい場所へ置き、相手の歩く速度に合わせて声をかけていた。

 もう一度有名になりたいという欲望の奥に、人と関わることを求める何かがある。

 三浦は、普通ではなかった。

 賢いのか、馬鹿なのかも、まだ分からない。

 ただ、よくある計算だけで動く人間ではないことは確かだった。


「グリフ」

 三浦が口を開いた。

「倉沢モデルを国でやる話、やっぱり無理か?」

 グリフはすぐには答えなかった。

 実現できるとは思わない。

 少なくとも、今のままでは、何から手をつければよいのかさえ分からない。

 それでも、この男としばらく仕事をしてみるのは、悪くないかもしれない。

 成功するかどうかではない。

 三浦が、本当に人の話を聞けるのか。

 地味な勉強を続けられるのか。

 自分の欲望だけではなく、他人のために動けるのか。

 確かめてから結論を出しても遅くはない。


「三浦」

「うん」

「倉沢モデルを国でやるなら、まず調べることが山ほどある」

 三浦の目が少し大きくなった。

「それは、手伝ってくれるってことか?」

「まだ決めてない」

「どっちなんだよ」

「お前が本気かどうかを見る」

「本気だよ」

「口では何とでも言える」

 グリフは指を1本立てた。

「まず、倉沢モデルが何なのか、きちんと勉強しろ。町民会議と住民投票をやれば、それで倉沢モデルになるわけじゃない」

「分かった」

「次に、国の制度を調べる。国民投票、憲法、国会、政党、選挙。外国の例も必要だ」

「分かった」

「簡単に分かったと言うな」

「じゃあ、難しそうだけどやる」

「それならいい」

 三浦はしばらくグリフを見つめた。

 やがて、ゆっくりと笑った。

「グリフ、今、ちょっとだけ乗り気になっただろ」

「なってない」

「顔に出てるよ」

「出てない」

「漫才師は、人の顔を見る仕事なんだ」

「元漫才師だろ」

「まだ辞めたとは言ってない」

 三浦はジョッキを持ち上げた。

「倉沢モデルを、国へ」

「まだ乾杯する段階じゃない」

「いいだろ。始めるかどうかを調べる、その始まりだ」

 グリフは呆れながらも、自分のグラスを持った。

 軽く触れ合わせると、小さな音がした。

 その音が、何かの始まりだったのかどうかは、2人ともまだ知らなかった。


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