消えなかった野心
グリフは三浦を見つめた。
「政治家が全員、立派な志だけで動いているとは思わない」
三浦が顔を上げる。
「有名になりたい。偉くなりたい。選挙に勝ちたい。そういう欲を持った議員はいる」
「だろ?」
「でも、そういう人間にも、自分なりの政策はある。少なくとも、人に説明できる建前は持っている」
「建前でもいいのか」
「建前だけでいいとは言ってない」
「あとから勉強して、政策を作るのは駄目なのか」
「駄目ではない。ただ、今のお前が選挙に出ても、有権者に何を訴えるんだ?」
三浦は少し考えた。
「俺に1票入れてください」
「何のために?」
「俺を国会へ送るため」
「その先を聞いてるんだ」
上村が鼻で笑った。
「お前を有名にするために、有権者が投票するわけねえだろ」
「じゃあ、何かインパクトのある政策を考えればいいんだろ」
「政策を一発芸みたいに言うな」
「でも、無名の俺が普通のことを言っても、誰も見てくれないだろ」
グリフは黙った。
その点だけは、完全に間違っているとは言えなかった。
国政選挙で、知名度も地盤も政党の支援もない候補が注目されるには、何らかの特徴が必要になる。
ただし、目立つことだけを目的に過激な主張を掲げれば、政治家ではなく、選挙を利用する話題作りの人物になってしまう。
「芸人出身の国会議員は、過去にもいる」
グリフは言った。
「でも、その人たちは、お前とは知名度が違う。誰でも顔と名前を知っているような人たちだった」
「それは分かってるよ」
三浦は苦い顔をした。
「あの人たちに比べたら、俺の知名度なんてクソみたいなものだ」
「自分でそこまで言うな」
「だから、ほかの武器が必要なんだよ。特技とか、誰も言ってない政策とか、何か一つあれば話題になるかもしれない」
「話題になったあと、どうするんだ?」
「取材を受ける。俺は話すことならできる」
「完全に芸人の発想じゃねえか」
上村が言った。
「知られなきゃ、選挙も始まらないだろ」
三浦の動機は、明らかに打算的だった。
国をよくしたいという思いより、自分がもう一度注目されたいという欲望のほうが強い。
だが、グリフには、それが単なる思いつきとも思えなくなっていた。
相方に去られ、事務所からも見放され、仲のよい後輩にまで断られた。
芸人として終わった人間だと認めたくない。
何者でもない自分に戻りたくない。
その焦りだけは、本物だった。
「国会議員については、俺にも詳しいことは分からない」
グリフは言った。
「俺は町議しか経験してない。政党から公認を取る方法も、国政選挙の実務も知らない。力にはなれないよ」
「ほかに政治の話を聞ける人がいないんだ」
「芸能界に、政治家と知り合いの人くらいいるだろ」
「売れてた頃なら紹介してもらえたかもしれない。でも今、連絡しても返事が来ない」
「事務所は?」
「相談したら、まず芸人として今後どうするか考えましょうって言われた」
「完全に止められてるな」
「俺だって、それくらい分かるよ」
三浦の声から、少しずつ力が失われていった。
店内では、スタッフたちが何度もこちらを見ている。
片づけはほとんど終わっていた。厨房の照明も一部が消され、あとは3人が帰れば店を閉められる状態だった。
*
グリフは腕時計を見た。
「今日は、このくらいにしよう」
三浦は黙っている。
「国会議員は諦めたほうがいい」
グリフは、はっきり言った。
「今のお前には、現実味がない」
「……そうか」
「政治家になりたいなら、まず地方議員から考えろ」
「町議か」
「倉沢の町議選は終わったばかりだから、次は4年後だ。それだけ時間があれば、地域の活動もできる。政治の勉強もできる」
「4年は長いな」
「本気なら、必要な時間だろ」
上村もうなずいた。
「そのくらいやってから考えろよ。今日思いついて、来年国会議員なんて無理に決まってる」
「今日思いついたわけじゃない」
「大して変わらねえよ」
三浦はグリフを見た。
「町議を目指すなら、教えてくれるのか?」
「俺に分かる範囲ならな」
「選挙のやり方も?」
「町議選なら」
「地域で何をすればいいかも?」
「それも話はできる。ただし、話を聞いただけでなれると思うなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「そこは、これから分かるようになる」
上村が立ち上がった。
「ほら、帰るぞ。店の人が帰れない」
三浦も椅子から立った。
「俺、東京の部屋は引き払ったんだ」
突然、三浦が言った。
「今は実家に戻ってる」
「もう岩手にいるのか」
「ああ。芸人の仕事も減ったし、東京に住む金がもったいなくなった」
「実家は、ここからどれくらいだ?」
「車で1時間くらい」
三浦は少しだけ笑った。
「また連絡するよ。まず、町議の仕事から教えてくれ」
「国会議員は?」
「諦めたとは言ってない」
「おい」
上村が顔をしかめた。
「でも、まず町議の話を聞く。それでいいだろ」
グリフはため息をついた。
「口だけじゃなくて、何か行動してから連絡してくれ」
「何をすればいい?」
「それを全部、人に聞くところから直せ」
「厳しいな」
「政治家は地味で大変なんだろ?」
三浦はそう言って笑った。
上村が三浦の背中を押す。
「いいから帰るぞ」
「押すなよ」
2人はスタッフに頭を下げ、店を出ていった。
駐車場で上村の車のライトが点灯し、やがて国道の流れへ入っていく。
グリフはガラス越しに、その車を見送った。
*
三浦が政治家になれば、目立つ仕事ばかり選び、地味な住民対応は投げ出すのではないか。
いい加減な仕事をしそうだ。
正直な第一印象は、それだった。
だが、自分が再び注目されたいという欲望を、あれほど隠さず口にする人間も珍しい。
欲望そのものが悪いとは限らない。
問題は、それを何に使うかだった。
「まあ、今後の行動次第か」
グリフは小さくつぶやいた。
「何もしないなら、次はないけどな」
「グリフさん、照明を消しますよ」
スタッフに声をかけられ、グリフは振り返った。
「ああ。遅くなって悪かった」
店内の照明が一つずつ消えていく。
最後に残った窓には、暗い国道を走る車の光と、料理人に戻ったグリフの姿が映っていた。
***
それから半年以上、三浦から連絡が来ることはなかった。
グリフは、ときどき上村と飲んだ。
以前なら、上村が誰かを連れてくることも多かったが、その中に三浦の姿はなかった。
「そういえば、三浦はどうしてる?」
何度目かの酒の席でグリフが尋ねると、上村は枝豆のさやを皿へ放りながら答えた。
「実家を手伝ってるらしいぞ」
「実家?」
「あいつんちは農家だよ。米とか野菜とか作ってる」
「そうだったのか」
「東京の部屋も引き払ったしな。芸人も事実上休業みたいなもんだ。政治家も諦めて、そのまま家を継ぐんじゃねえか」
「本人がそう言ってたのか?」
「いや、俺がそう思ってるだけ」
「何だよ」
「でも、そのほうがいいだろ。あいつが国会議員なんか目指したら、ろくなことにならねえ」
上村はそう言って笑った。
グリフも、否定はしなかった。
あの夜の三浦は、本気なのか冗談なのか、最後までよく分からなかった。
もう一度有名になりたい。
自分を見限った芸人仲間を見返したい。
政治家を目指す理由としては、あまりに正直で、あまりに浅かった。
すぐにでも連絡してくるような勢いだったが、半年も音沙汰がないのなら、熱が冷めたのだろう。
グリフも次第に、三浦のことを思い出さなくなっていった。
*
年が明け、2025年になった。
2月も終わりに近づくと、倉沢では、昼のあいだだけ雪解けの水が道路を流れるようになった。
道路脇には、冬のあいだに積み上げられた雪が、黒ずんだ塊となって残っている。朝晩はまだ氷点下になることもあったが、商店街の軒先には、節分の鬼に代わってひな祭りの飾りが並び始めていた。
その日、グリフは藤樹堂での打ち合わせを終え、商店街を歩いていた。
昼食を取るには少し遅く、夕食にはまだ早い。通りを歩く人も少なかった。
商店街の外れにある牛丼チェーンの前を通りかかったとき、グリフは何げなく店内へ目を向けた。
カウンターの向こうで、店員が牛丼に具を盛りつけている。
黒い帽子に、店の制服。髪も短く整えられていた。
どこかで見た顔だと思った。
しかし、誰だったか、すぐには思い出せない。
店員は慣れた手つきで丼を持ち、牛肉とタマネギをよそった。具が片寄らないように箸で整え、紅しょうがの容器と一緒に客へ差し出す。
「お待たせしました」
声を聞いて、グリフは足を止めた。
数秒遅れて、記憶がつながる。
「三浦?」
思わず、店の外で声に出した。
当然、店内の三浦には聞こえない。
グリフはガラス越しに、もう一度その顔を確認した。
芸人時代の三浦は、少し長めの髪を立たせ、目立つように明るい色を入れていた。
今は黒髪の、ごく普通の短髪である。テレビに出ていた頃の派手さはなく、牛丼店の制服にも妙に馴染んでいた。
店内は空いていた。
グリフは特に腹が減っていたわけではなかったが、牛丼1杯くらいなら食べられるだろうと思い、入口の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
券売機で並盛りの食券を買い、カウンター席へ座る。
三浦はまだ気づいていない。
グリフが食券をカウンターへ置くと、三浦がそれを取りに来た。
「並盛り、一つですね」
グリフは少し顔を近づけ、小声で言った。
「おい、三浦。ここで働いてるのか?」
三浦の動きが止まった。
「あ」
数秒、グリフの顔を見つめる。
「グリフか」
「久しぶり」
三浦は反射的に周囲を見た。
離れた席に客が2人いる。もう1人の店員は、厨房の奥で仕込みをしていた。
「……バイトだよ」
「いつから?」
「それは、あとで話す」
三浦は声をさらに落とした。
「見つかっちゃったなら、しょうがないな」
「何が?」
「実は、上村に止められてたんだ。政治家を諦めるまでは、お前に会うなって」
「そんなこと言われてたのか」
「強引に店へ押しかけたりしたら、もう俺とは付き合わないって言われた」
「上村も、ずいぶん強く出たな」
「あいつ、本気で俺を止めたいんだよ」
「それで半年も連絡がなかったのか」
三浦はうなずいた。
「俺、お前の連絡先を知らなかっただろ」
「店に来れば会えたぞ」
「だから、それを上村に禁止されたんだよ」
「なるほど」
三浦は厨房の奥を見た。
「ちょっと待ってろ」
そう言い残し、店の奥へ引っ込んだ。
しばらくして戻ってきたときには、手にスマートフォンを持っていた。
ほかのスタッフは、久しぶりに会った知人と連絡先を交換しているのだろうと思ったらしく、特に気にする様子はなかった。
「LINE交換しよう」
三浦は手慣れた操作で、画面にQRコードを表示させた。
「どうやるんだっけ」
「グリフ、お前、本当に飲食店を5店舗も経営してるのか?」
「経営とLINEの操作は別だろ」
「ここ押して、次にこれ」
三浦に教えられながら、グリフはどうにか連絡先を登録した。
「よし」
三浦はスマートフォンをポケットへ戻した。
「とりあえず、仕事中だから」
「ああ。悪かったな」
「牛丼、すぐ出す」
三浦は何事もなかったように厨房へ戻った。
しばらくして運ばれてきた牛丼は、具がきれいに盛られていた。
*
その日の夕方、三浦からLINEが届いた。
――今から、どこかで話せないか。
グリフは、その日は店に入る予定がなかった。
ローサに連絡を入れ、夕食が遅くなることを伝えると、倉沢駅近くの居酒屋で三浦と会う約束をした。
約束の時間に店へ入ると、三浦は奥のテーブル席で1人、スマートフォンをいじりながら待っていた。
「待たせたか?」
グリフが声をかける。
「いや。俺も、さっき来たところ」
三浦はスマートフォンを伏せて置いた。
2人は生ビールを注文した。
運ばれてきたグラスを互いに持ち上げる。
「お疲れ」
「お疲れ」
軽くグラスを合わせた。
最初は、互いの近況を話した。
三浦は3か月ほど前から、あの牛丼チェーンで働いていた。
実家を出て、倉沢町内の古いアパートを借りているという。
「実家を手伝ってるって、上村から聞いてたぞ」
「秋までは手伝ってたよ。米の収穫とか、出荷とか」
「そのまま農家を継ぐんじゃなかったのか」
「親にも言われた。でも、兄貴がいるから、継ぐなら兄貴だよ」
「じゃあ、何で倉沢に?」
三浦はビールを一口飲んだ。
「お前に会うため」
「俺に?」
「上村との約束では、俺から会いに行くのは禁止だった」
「そうみたいだな」
「でも、お前のほうから俺に会いに来るなら、約束を破ったことにはならない」
グリフは三浦の顔を見た。
「それで、牛丼屋で働いてたのか?」
「ああ」
「俺が来ると思って?」
「商店街にあれば、いつか通るだろ。お前、藤樹堂にも商店街にもよく来るって聞いたから」
「誰に聞いたんだよ」
「商店街の人」
「もう聞き込みまでしてたのか」
「聞き込みってほどじゃない。飲みに行って話してただけだよ」
「それで3か月?」
「3か月」
グリフは、思わず額に手を当てた。
「俺が店に入らなかったら、どうするつもりだったんだ」
「そのときは、そのときだ」
「店の前を通っても、気づかない可能性だってあったぞ」
「実際、最初は気づかなかっただろ」
「髪形が違ったからな」
芸人時代の三浦は、髪形も含めて一つのキャラクターを作っていた。今のような普通の短髪なら、テレビに出ていた頃を知る人間でも簡単には気づかない。
「客には、ばれてないのか?」
「たぶん。一度だけ、“どこかで見たことありますね”って言われたけど、“この店でじゃないですか”って言ったら納得してた」
「雑だな」
「世間の記憶なんて、そんなもんだよ」
三浦は笑った。
「それで、グリフが俺に気づかなかったら、政治家は諦めるつもりだった」
「何でそうなる?」
「運試しだよ」
「運試し?」
「これから俺がやろうとしてることは、努力だけじゃ無理だろ」
三浦は、空いた小皿の上で割り箸をそろえた。
「知名度もない。金もない。政党とのつながりもない。勉強も足りない。そんな俺が政治家になるなら、運が必要だ」
「それは否定しないけど」
「3か月、毎日じゃないけど、あの店で働いて、それでもグリフと会えない。その程度の運しか持ってないなら、もう諦めようと思った」
「ずいぶん極端だな」
「でも、会えた」
三浦はグラスを持ち上げた。
「だから、まだ諦めるなってことだろ」
グリフは返事をしなかった。
自分とは、目的に向かう方法がまるで違っていた。
グリフは、目的を決めたら、必要なものを考える。
人に会う必要があれば連絡先を探す。紹介者を見つける。駄目なら別の道を探す。情報を集め、手順を組み立て、一つずつ積み重ねる。
三浦の方法は違う。
上村との約束は守る。
その一方で、グリフが偶然訪れることを期待し、牛丼店で3か月働く。
地道といえば、地道だった。
しかし、効率が悪すぎる。
それで会えなければ、政治家になることまで諦めるという。
こいつは馬鹿なのではないか。
グリフがそう思った瞬間、三浦が顔をのぞき込んできた。
「お前、今、俺のことを馬鹿じゃないかと思っただろ」
「いや、そんなことは……」
「顔に出てるよ」
三浦は真顔になった。
「俺だって、馬鹿じゃない」
そう言うと、右手を自分の頭の上に載せた。
一瞬、動きを止める。
次の瞬間、手のひらを正面へ向け、同時に大きく白目をむいた。
口元だけは、妙に澄ました表情を保っている。
グリフは、その顔を見つめた。
どこかで見たことがある。
「あ」
「何だよ」
「そのギャグ、お前だったのか」
三浦の顔が明るくなった。
「これは知ってたのか」
「昔、テレビで見た気がする。誰がやってたか覚えてなかったけど」
「ひどいな。俺が一番売れてた頃のギャグだぞ」
三浦は同じ動きを、もう一度やってみせた。
*
「もともとは、漫才の中に出てくる酔っ払いのおっさんの動きだったんだよ」
酔っ払いが、意味の分からないことを延々と話す。
相方の真壁が呆れ、馬鹿にしたような顔をする。
そこで三浦が、少し間を置いて、
「俺だって、馬鹿じゃない」
と言い、白目をむきながら手を頭から前へ出す。
真壁が冷たく、
「いや、馬鹿だろ」
と返す。
それが基本の形だったという。
「文章にすると、全然面白くないな」
グリフが言った。
「そうなんだよ。これは台詞じゃなくて、間と顔なんだ」
三浦は少し身を乗り出した。
「相方が俺を馬鹿にしたあと、すぐ言うと駄目なんだよ。ほんの少しだけ黙る。客が、“こいつ、何か言い返すぞ”って思うくらい待つ」
「長すぎても駄目なのか?」
「長すぎると、ただ止まっただけになる。短いと、予想する暇がない」
三浦は指先でテーブルを2度叩いた。
「それに、最初から白目を全開にするんじゃない。最初の1回は少しだけ。2回目は顔を傾ける。3回目は手の動きを大きくする」
「同じことを繰り返すのか」
「同じ形を繰り返しながら、少しずつ変えるんだよ。客がパターンを理解すると、次が来る前から笑い始める」
「なるほど」
「そこで、わざと間を外したり、顔を変えずに言ったりする。期待どおりにやるか、裏切るか。客の空気を見ながら変えるんだ」
三浦は、指で自分の目元を示した。
「顔芸に見えるけど、あれでも結構、計算してたんだぞ」
グリフは感心した。
テレビで何げなく見ていた一つのギャグにも、間の長さや表情、繰り返す回数が計算されている。
相手の反応を観察し、その場で調整する。
それは、政治家が演説で聴衆の反応を見ることや、料理人が客の表情から味を判断することにも似ていた。
「確かに、馬鹿じゃないな」
「だろ?」
「牛丼屋で3か月待つのは、やっぱり馬鹿だと思うけど」
「そこは否定しろよ」
2人は笑った。




