国会議員になりたい男
秋の観光シーズンを迎え、倉沢町には再び観光客の姿が増えていた。
光明神社へ向かう参道では、団体客が添乗員の旗を追い、駅前では大きなキャリーケースを引いた外国人が地図を広げている。
だが、倉沢町から車で30分ほど離れた国道沿いには、観光地とは異なる日常の流れがあった。
大型トラック。買い物帰りの家族連れ。仕事を終えて家路を急ぐ会社員。
その国道沿いに、《ワルン・クラサワ》の5店舗目となる新しい店があった。
赤茶色の屋根と、インドネシアの伝統的な布模様を取り入れた看板。広い駐車場には、夕食時を過ぎても10台ほどの車が残っている。
厨房では、グリフが中華鍋を振っていた。
油の中でニンニクとタマネギが音を立てる。そこへ細かく切った鶏肉と野菜を入れ、火が通ったところで米を加えた。
大きく鍋をあおると、細長い米粒が宙に浮いた。
「ナシゴレン、2つ。辛口が一つ、普通が一つ」
「はい」
若いスタッフが皿を用意する。
グリフはケチャップマニスを鍋肌に回しかけた。甘い醤油の香りが立ち、厨房に香ばしい匂いが広がった。
世間では、夏頃から米不足のニュースが続いていた。
スーパーでは米の棚が空になり、残っていても1人1袋までと制限されている店がある。飲食店向けの仕入れ価格も上がり、値上げや提供量の調整をする店も出ていた。
ただし、《ワルン・クラサワ》への影響は、それほど大きくなかった。
ナシゴレンは本来、粘りの少ないインディカ米で作る料理である。
グリフが日本で店を始めた当初は、現地と同じインディカ米を使っていた。しかし、日本人の客には、普段食べ慣れているジャポニカ米のほうが好まれた。
そこで通常は国産のジャポニカ米を使い、希望する客にはインディカ米も選べるようにしていた。
米不足が始まってからは、インディカ米を使う割合を増やしている。
店頭には、
――本場インドネシア式のナシゴレンをお試しください。
と書いた札を置いた。
「こっちの米のほうが、炒めたときにぱらぱらしてるね」
「海外旅行に来た感じがする」
客からは思いのほか好評だった。
ジャポニカ米も、長年付き合いのある地元農家から少量ずつ分けてもらうことができた。十分な量ではなかったが、店の営業に支障が出ない程度には確保できている。
グリフは盛りつけたナシゴレンの横に目玉焼きを載せた。
政治でも商売でも、問題が起きてから慌てて選択肢を探すより、普段から複数の方法を持っておくほうが強い。
町議を辞めた今でも、そんな考え方は変わっていなかった。
*
グリフが町議を辞めてから、数か月が過ぎていた。
任期満了後の町議選には出馬せず、現在は藤樹堂の役員と、《ワルン・クラサワ》の料理人として働いている。
政治を辞めれば暇になると思っていたが、実際にはそうでもなかった。
議会や住民対応に使っていた時間が、店舗運営や商品開発、従業員の教育に置き換わっただけである。
それでも、議員と経営者の立場を行き来しなくてよくなった分、気持ちは楽だった。
料理を作っている途中で役場から電話が来ることもない。住民からの相談を受けながら、会社の利益との関係を気にする必要もなくなった。
《ワルン・クラサワ》は、現在5店舗を営業している。
これまでの4店舗は、すべて倉沢町内にあった。
倉沢では店の名前が知られているため、新店舗を出しても、開店直後からある程度の客を見込むことができた。
だが、国道沿いの新店舗は倉沢町の外にある。
この地域では、まだ《ワルン・クラサワ》の名はそれほど知られていない。
エスニック料理という、家族連れには少し馴染みの薄い分野で、どこまで客を集められるのか。
ここで成功すれば、さらに別の地域へ出店する道が開ける。
会社にとって重要な店だった。
グリフも、できるだけ自分で厨房に立ち、客の反応を見るようにしていた。
そして、この日は閉店後に、もう一つ用事があった。
前日、上村から電話がかかってきたのである。
*
『正月頃に会った三浦って、覚えてるか』
電話口から、上村の声が聞こえた。
「覚えてるよ。あんなに飲んだのは久しぶりだったからな」
『あいつ、お前に相談したいことがあるんだと』
「相談?」
『政治家になりたいらしい』
グリフは少し黙った。
「政治家?」
『そう』
「俺はもう辞めてるぞ」
『それも言ったよ。今のグリフに弟子入りしたって、料理人にしかなれないぞって』
「“しか”って何だよ」
『いや、料理人が悪いって意味じゃねえよ。あいつがやりたいのとは別だって意味だ』
「言い方が悪いんだよ」
『面倒くせえな。とにかく、一度話をしてやってくれないか』
「何を話すんだ」
『政治家の大変なところを教えてやってくれ。お前から現実を聞けば、あいつも少しは冷静になるだろ』
「最初から諦めさせるつもりなのか」
『あいつが政治家なんて、危なっかしいだろ』
「まあ、それは少し分かるけど」
『明日、店が終わったあとでいいから時間をくれ』
「いいけど、遅くなるぞ。今は国道沿いの店にいるから、倉沢からも遠い」
『構わない。こっちから頼んでるんだ。車で行くから、酒も飲まない』
「分かった。閉店後だぞ」
『おう。頼む』
電話が切れた。
グリフは、正月に三浦と飲んだときのことを思い出した。
あの夜、三浦は酒に酔いながら、自分は政治家に向いているかもしれないと言っていた。
そのときは冗談だと思っていた。
どうやら、本人は少し本気らしい。
*
上村と三浦は、閉店の1時間ほど前に店へ来た。
2人はナシゴレンとサテを食べ、客席の隅でコーヒーを飲みながら、グリフの仕事が終わるのを待っていた。
三浦は何度も厨房の時計を見た。
「まだかかるのか」
「お前が早く来すぎたんだよ」
上村が言った。
「遅刻したら印象が悪いだろ」
「就職の面接じゃねえんだぞ」
「でも、政治家だった人に相談するんだから、似たようなもんだろ」
「何を話すか、ちゃんと考えてきたのか」
「考えてきたよ」
「政治家になりたいです、どうすればいいですか、だけじゃ駄目だからな」
「それを聞くために来たんだろ」
「ほら、何も考えてねえじゃねえか」
三浦はコーヒーに砂糖を2本入れた。
「政治のことを知ってたら、相談に来ないよ」
「最低限、自分で調べてから来いって言ってんだ」
「そこをグリフに聞けば早いだろ」
「お前、本当に政治家になる気あるのか」
*
2人が小声で言い合っているうちに、最後の客が会計を終えた。
入口の札が営業中から閉店へ替えられる。
店内では、スタッフたちが空いたテーブルを拭き、椅子を整えていた。厨房からは水を流す音や、食器を重ねる音が聞こえてくる。
グリフはエプロンを外すと、後片づけを店長代理に任せ、2人の席へ向かった。
「悪い。待たせたな」
「グリフ、急に時間を取ってもらって悪かったな」
上村が頭を下げた。
「いや、いいよ。ただ、先に会計を済ませてもらっていいか。伝票が残ってるとレジを締められないから」
「ああ、悪い」
上村は伝票を持って席を立った。
グリフは三浦の向かいに腰を下ろした。
「それで、政治家になりたいんだって?」
「ああ」
三浦は、すぐに身を乗り出した。
「俺、向いてると思うんだよね」
「どのあたりが?」
「人前で話すのが得意だろ。知らない人とも話せる。カメラの前でも緊張しない」
「それだけ?」
「かなり大事じゃないか?」
「大事ではあるよ。でも、政治家の仕事の一部でしかない」
三浦は首をかしげた。
「演説して、議会で質問して、テレビに出るのが仕事じゃないの?」
「それは外から見えやすいところだ」
グリフはテーブルの上に両手を置いた。
「俺が町議だった頃は、人前で演説する時間なんて、活動全体の数パーセントくらいだった」
「残りは?」
「資料を読む。役場の担当者から説明を聞く。住民から相談を受ける。現場を確認する。他の地域の事例を調べる」
「秘書とかいないの?」
「町議に専属の秘書なんかいないよ」
「全部、自分でやるのか」
「少なくとも、自分で理解しないと判断できないだろ」
三浦は腕を組んだ。
「思ったより地味だな」
「かなり地味だよ」
そこへ、会計を終えた上村が戻ってきた。
「だから言っただろ。お前がテレビで見てるような仕事ばかりじゃねえんだ」
三浦は上村を見た。
「でも、人前で話す力は必要だろ」
「必要だけど、それだけじゃ駄目だ」
グリフは続けた。
「政治家は偉そうに見えるかもしれないけど、実際は人に頭を下げることのほうが多い」
「選挙のとき?」
「選挙だけじゃない。話を聞いてもらうためにも頭を下げる。協力してもらうためにも頭を下げる。怒っている住民に会うときも、反対している人に説明するときもそうだ」
「頭を下げるのは慣れてるよ」
三浦は胸を張った。
「芸能界で何度もやってきたから」
「理不尽なことを言われても?」
「それも慣れてる。番組が打ち切られたら、出演者のせいにされたこともある」
上村がうなずく。
「こいつ、我慢だけはできるかもしれない」
「だけって言うな」
*
グリフは町議時代の仕事を具体的に話した。
道路を直してほしいという要望があれば、現場を確認しなければならない。しかし、1か所を優先すれば、別の地域から不満が出る。
高齢者からバスの便を増やしてほしいと言われても、利用者数や運行費用を調べずに約束することはできない。
誰かの希望をかなえれば、別の誰かが負担を負うこともある。
「政治家は、正しいことを言って拍手される仕事じゃない」
グリフは言った。
「どれを選んでも不満が出る中で、一つを決める仕事だ」
三浦は黙って聞いていた。
上村も横から口を挟む。
「収入だって、思ってるほど多くないんだろ」
「地方議員は、自治体によってかなり違う。議員だけでは生活が苦しいところもある」
「選挙にも金がかかるんだろ?」
「やり方次第だけど、まったく金をかけないのは難しいな」
「ポスターとか、選挙カーとか?」
「事務所を構える場合もある。供託金も必要だ」
三浦が反応した。
「供託金って何?」
「立候補するときに預ける金だ。一定の票を取れないと戻ってこない」
「落選したら没収されるのか?」
「基準に届かなかった場合はな」
「政治家になるのも大変なんだな」
「今頃、気づいたのか」
上村が呆れたように言った。
話は20分ほど続いた。
グリフと上村は、政治家という仕事がいかに地味で、責任が重く、思ったほど報われないかを説明した。
さらに、倉沢町では数か月前に町議選が終わったばかりだった。
「今から町議を目指すにしても、次は原則4年後だ」
グリフが言う。
「出るなら、普通は自分の地元だろ。縁のない町でいきなり立候補しても、簡単には受からない」
「俺の実家は岩手だよ」
「岩手といっても広いぞ。倉沢町の住民じゃないだろ」
「上村の友達っていうのは使えない?」
「使えるわけねえだろ」
上村が言った。
「俺に何の影響力があるんだよ」
「高校の同級生は知ってるだろ」
「お前のことを覚えてるやつが何人いると思ってるんだ」
「テレビに出てたんだぞ」
「何年前だよ」
三浦は最初こそ笑っていたが、次第に口数が減っていった。
グリフは、少しは現実が分かってきたのだろうと思った。
上村も、もう十分だろうという顔をしている。
ところが、三浦は突然、両手を上げた。
「いや、待ってくれよ」
「何だ」
「さっきから、お前らが話してるの、ずっと町議の話だろ」
グリフは眉をひそめた。
「地方議員になりたいんじゃないのか?」
「誰がそんなこと言った?」
上村が三浦を見た。
「お前、政治家になりたいって言っただろ」
「政治家とは言ったけど、町議とは言ってない」
「じゃあ、何になりたいんだよ」
三浦は一度姿勢を正した。
そして、2人の顔を交互に見た。
「俺は、国会議員になりたいんだ」
*
「国会議員?」
上村の声が裏返った。
グリフも、一瞬、三浦が冗談を言っているのだと思った。
しかし、本人は真剣な顔をしていた。
「お前、国会議員って言ったのか?」
上村が聞き返す。
「ああ」
「俺、初めて聞いたぞ」
「言ってなかったからな」
「何で言わなかったんだよ」
「最初から国会議員って言ったら、お前、グリフに会わせてくれなかっただろ」
「当たり前だ!」
上村は頭を抱えた。
「俺は、地元で町議でも目指したいのかと思ってたんだぞ」
「それは上村が勝手に思ったんだろ」
「普通はそう思うだろ!」
グリフも額に手を当てた。
「国会議員なんて、町議よりはるかに難しいぞ」
「やっぱり?」
「やっぱり、じゃない」
「でも、町議より目立つだろ」
「そこなのか?」
三浦は悪びれずにうなずいた。
「国会議員ならテレビにも出るだろ。発言がニュースになることもある」
「お前、政治家を芸能界の代わりにするつもりか」
上村の声が低くなった。
「そういうわけじゃないけど」
「そういうふうにしか聞こえねえよ」
三浦は腕を組んだ。
「無理かもしれないけどさ、無理だと言われていたことを実現した人だっているだろ」
「たとえば誰だよ」
「大谷を見ろよ」
上村の表情が険しくなった。
「地元の英雄を、こんな話に使うな」
「岩手出身で、世界で活躍してるだろ」
「お前に、あんな努力ができるのか」
「競技は違うけど、努力はするよ」
「今までネタを書くのも相方に任せてたやつが言うな」
三浦の顔がこわばった。
「それは今、関係ないだろ」
「関係ある。政治家になれば、自分の考えを自分の言葉で話さなきゃならねえんだぞ」
グリフは、2人が言い争いになる前に口を挟んだ。
「そもそも、どうして国会議員になりたいんだ?」
三浦がグリフを見る。
「どうしてって?」
「変えたい法律があるのか。国で取り組みたい問題があるのか。日本をどうしたいという考えは?」
三浦はすぐには答えなかった。
目をそらし、空になったコーヒーカップを指で回す。
「友達だから正直に言うけど」
「ああ」
「今のところ、そういう志みたいなものはない」
*
上村が天井を仰いだ。
「もう帰ろう。こいつは駄目だ」
「最後まで聞けよ」
三浦は、少し声を強めた。
「俺は、もう一度有名になりたいんだ」
「やっぱり芸能界の代わりじゃねえか」
「違うと言い切れないけど、それだけでもない」
「何が違うんだ」
三浦は、相方の真壁が芸人を辞めたことを話し始めた。
別の相方を探したが、同世代の芸人はすでに引退した者が多かった。若い芸人とは話が合わず、仲のよい後輩からも、コンビを組むことだけは断られた。
ピン芸人としてネタを作ったが、事務所のスタッフは笑わなかった。
「面白くないなら、面白くないって言えばいいのにさ」
三浦は言った。
「“三浦さんらしさは出てますね”だぞ。あれ、完全に褒めるところがないときの言い方だろ」
「まあ、厳しい評価だな」
グリフが言う。
「仕事を頼んでも、今は合う案件がないって言われる。事務所の連中も、俺を終わった芸人として見てるんだよ」
三浦は、次第に感情をあらわにしていった。
「一度は売れたんだ。町を歩けば声をかけられた。収録が1日に何本もあった。店に行けば、向こうがサインを飾ってくれた」
握った拳をテーブルに置く。
「それが今は、昔テレビに出てましたよね、だ。昔って何だよ。俺はまだ生きてるんだよ」
「だから、国会議員になって見返したいのか」
「ああ」
三浦は、はっきり答えた。
「芸人仲間も、事務所の人間も、俺を断った後輩も。俺は終わってなかったって言いたい」
上村はしばらく黙っていた。
やがて、少し困ったような顔で頭をかいた。
「気持ちは、分からんでもない」
「分かるだろ」
「分からんでもないけど、打算が丸見えなんだよ」
「友達だから本音を言ってるんだろ」
「政治家を目指すなら、人前では絶対に言うなよ」
「それくらい分かってる」
「今日の話を聞いてる限り、分かってるようには見えねえ」




