舞台を降りた芸人
夏になった。
東京では朝から気温が30度を超え、昼を待たずにアスファルトが陽炎を立てていた。駅前のスーパーでは、米売り場の棚に空きが目立ち始めている。
猛暑による不作や、訪日客の増加、流通の偏り。
テレビでは専門家がさまざまな理由を説明していたが、三浦にとって重要なのは、近所のスーパーで5キロの米が買えなくなったということだった。
「米がないなら、パンを食えばいいじゃないですか」
情報番組で若いタレントが冗談を言い、司会者が苦笑している。
三浦はテレビを消した。
「それで笑い取れるなら、俺だってまだ売れてるよ」
誰もいない部屋でつぶやいた。
その日の午後、三浦は都内の雑居ビルにある貸し稽古場へ向かった。
エレベーターのない古い建物の3階だった。細い階段を上るたびに、冷房の効いた1階へ戻りたくなる。壁には、劇団員募集や小規模なライブのチラシが何枚も貼られていた。
稽古場では、相方の真壁が先に待っていた。
「お疲れさまです」
「おう。暑いな」
「冷房、さっき入れたんですけど、全然効かないですね」
部屋の隅では、古い家庭用エアコンが大きな音を立てていた。しかし、そこから出てくる風は生ぬるい。
三浦は汗を拭きながら、折り畳み椅子に腰を下ろした。
真壁と会うのは、3か月ぶりだった。
2人が《ポコぽんた》を結成したのは12年前になる。それ以前は、それぞれ別の相手とコンビを組んでいた。
三浦のほうが芸歴は長く、年齢も6つ上だった。
真壁は38歳。
髪は短く、黒縁の眼鏡をかけている。舞台では地味な印象だったが、ネタを書く力は三浦よりはるかにあった。
普段のネタ作りは、真壁が台本を書き、三浦が実際に声に出して試す。客に伝わりにくい部分や、間延びする箇所を削り、言葉を直していく。
文章では面白く見えても、口に出すと笑えないことがある。逆に、文字にすれば何でもない一言が、間の取り方一つで大きな笑いになることもあった。
そこを見抜くのは、三浦の得意分野だった。
*
2人は、一度売れた。
深夜のネタ番組をきっかけに出演が増え、バラエティー番組のひな壇にも呼ばれた。1日に3本の収録が重なることもあった。
だが、それは長く続かなかった。
新しい芸人が次々と現れ、番組が終わり、出演依頼は少しずつ減った。
気がつけば2人は、地方営業や小さな劇場を中心に活動する芸人へ戻っていた。
「じゃあ、始めますか」
真壁が印刷した台本を差し出した。
今回の題材は、スーパーのセルフレジだった。
三浦が客役、真壁が店員役である。
三浦は部屋の中央に立ち、台本を見ながら始めた。
「すみません、このセルフレジ、使い方が分からないんですけど」
「かしこまりました。まず、ご自分で商品を読み込んでください」
「セルフなのに、あなたが教えてくれるんですか?」
「そこはセルフじゃありません」
「じゃあ、代わりに全部やってください」
「それでは普通のレジになります」
「普通のレジは、どこですか?」
「隣です」
「最初からそっちに行けばよかった!」
2人は、そのまま数秒黙った。
エアコンの音だけが、やけに大きく聞こえた。
三浦は台本から顔を上げた。
「……うん」
「どうですか」
「セルフレジが分からないおじさんが、普通のレジに行く話だな」
「はい」
「それ以上でも、それ以下でもないな」
「そうですね」
「ボケが全部、普通の質問なんだよ」
「一応、最後にひっくり返したつもりなんですけど」
「どこが?」
「最初から普通のレジに行けばよかった、という」
「ひっくり返ってないよ。正しい結論にたどり着いただけだ」
真壁は黙って台本に目を落とした。
「三浦さんが、セルフレジを人の名前だと思う設定にしますか」
「どんな名前だよ」
「セルフ・レジさん」
「外国人にする必要ある?」
「レジ・セルフかもしれないです」
「どっちでもいいよ」
*
2人はもう一度、最初から試した。
三浦が必要以上に大声を出し、真壁が冷静に突っ込む。
立ち位置を変え、間を長くし、台詞の順番も入れ替えた。
しかし、どう直しても面白くならなかった。
ネタ合わせを始めて1時間ほどたつ頃には、台本の余白が修正の文字で埋まり、2人とも口数が減っていた。
三浦はペットボトルの水を飲み、壁にもたれた。
「真壁、どうする?」
真壁は床に置いた台本を見たまま答えた。
「どうしますかね」
「今日は駄目だな。日を変えて、もう1回やるか」
「はい」
三浦は汗で額に張りついた髪をかき上げた。
「それと、今年はM-1に出てみようと思ってる」
真壁が顔を上げた。
「M-1ですか」
「うん」
「この前まで、もう出ないって言ってませんでした?」
「気が変わった」
「売れてないやつが出る大会だって」
「それは上村に格好つけて言っただけだ」
「誰ですか、上村って」
「高校の同級生」
三浦は苦笑した。
「出るなら、新ネタが最低2本は欲しい。今日のこれを直して、もう1本。申し訳ないけど、頑張ってもらえるか」
真壁はすぐには答えなかった。
眼鏡を外し、レンズをシャツの裾で拭いている。
「頼むよ」
「……はい」
返事には、明らかに力がなかった。
三浦は疲れているのだと思った。ネタを書いているのは真壁である。新ネタを2本用意しろと言われれば、負担に感じるのも当然だった。
「まあ、いきなり完成させなくていいから。設定だけでも出してくれれば、俺も一緒に考えるし」
「三浦さん」
「ん?」
真壁は眼鏡をかけ直した。
しばらく黙ったあと、意を決したように口を開いた。
「M-1というより……もう、無理なんじゃないかと思うんですよね」
「何が?」
「俺たちです」
*
三浦は真壁の顔を見た。
冗談を言っている表情ではなかった。
「え、何。どうした?」
「俺、芸人を辞めようと思ってます」
「え?」
「もう、決めました」
「マジで?」
「ガチです」
真壁は淡々と言った。
その言葉だけが、稽古場の中に妙にはっきりと残った。
三浦はしばらく何も言えなかった。
真壁は、芸人を辞めて普通に働くつもりだという。
実家の知人が経営している会社から、人手が足りないので来ないかと誘われていた。最初は断っていたが、詳しく話を聞くうちに、そこで働くことを真剣に考えるようになったらしい。
「本当は、35歳までに売れなかったら辞めるつもりだったんです」
「でも、俺たち、1回は売れただろ」
「売れたというのも、微妙ですけどね」
「テレビにも出たし、営業だけで食えた時期もあった」
「だから、踏ん切りがつかなかったんですよ」
真壁は自嘲するように笑った。
「一度も売れてなかったら、35で辞めてたと思います。でも、もう1回くらい何かあるんじゃないかって思って、38まで来ちゃいました」
「まだ38だろ」
「もう38です」
「芸人で38なんて、若手みたいなもんだよ」
「それは芸人の中だけです」
「50で売れた人もいる。60近くなってから注目された人だっているだろ」
「その人たちは、50になるまで続けられた人です」
「俺たちだって続けられる」
真壁は首を横に振った。
「三浦さんは続けたいんですよね」
「当たり前だろ」
「俺は、もう分からないんです。売れたいのか、辞めるのが怖いだけなのか」
*
三浦は言葉に詰まった。
真壁の言葉は、そのまま自分にも向けられているように聞こえた。
売れたいのか。
それとも、芸人ではない自分になるのが怖いだけなのか。
三浦は44歳になっていた。
一度はアルバイトを辞め、芸人の仕事だけで生活できていた。しかし今では再び、知人が経営する飲食店や、イベント会場の設営を手伝いながら活動を続けている。
芸人の仕事が入るたびにアルバイトを休むため、安定した職には就けない。
芸人として知られた顔が邪魔をすることもあった。
「あれ、昔テレビに出てましたよね」
アルバイト先で客から声をかけられるたび、三浦は笑顔で応じた。
「今も出てますよ。たまたま最近見てないだけです」
笑ってもらえれば、それでよかった。
だが、客が帰ったあとには、いつも少しだけ惨めな気持ちが残った。
「もう少し考えろよ」
三浦は言った。
「急いで決めることじゃないだろ」
「半年くらい考えました」
「俺には何も言わなかったじゃないか」
「言ったら、止められると思ったからです」
「止めるに決まってるだろ。コンビなんだから」
思った以上に強い声が出た。
真壁は目を伏せた。
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃない」
三浦は稽古場の中を歩き回った。
何か説得する言葉を探したが、うまく出てこなかった。
「M-1に出よう。最後でもいいから」
「最後にするつもりはないでしょう」
「分からないだろ。出てみたら何か変わるかもしれない」
「それを、何年言ってきました?」
真壁の声は静かだった。
責めるような言い方ではなかった。
だからこそ、三浦には何も返せなかった。
結局、その日は、もう少し考えてくれと伝えて別れた。
真壁も、その場では「分かりました」と答えた。
***
しかし数日後、三浦のスマートフォンにメッセージが届いた。
――いろいろ考えましたが、やはり芸人を辞めます。事務所にも伝えました。今まで、本当にありがとうございました。
三浦は何度も、その短い文章を読み返した。
電話をかけたが、真壁は出なかった。
代わりに、しばらくして返信が来た。
――直接話すと、また迷いそうなので。すみません。
「迷うなら、辞めるなよ」
三浦はスマートフォンに向かって言った。
だが、真壁の決意は変わらなかった。
所属事務所からは、新しい相方を探してはどうかと言われた。
しかし、同世代の芸人は、すでに辞めた者が多かった。残っている者には、それぞれ相方がいる。
若い芸人と組むことも考えた。
だが、20代の芸人が話す動画配信者や音楽、流行の言葉を、三浦は半分も理解できなかった。相手も、三浦が話す昔のテレビ番組や芸能人の話を知らない。
仲のよい後輩にも声をかけた。
「1回、俺と組んでみない?」
後輩は困ったように笑った。
「三浦さんのことは好きですけど、コンビは、さすがに無理っす」
「何でだよ」
「何でと言われても……」
「売れそうにないから?」
「そこまで言ってないです」
「顔に書いてあるよ」
後輩は最後まで否定しなかった。
相手だって売れたい。
三浦と組むことが、売れるための近道だとは誰も思わなかった。
――ピン芸人か。
三浦は、1人でできるネタを考え始めた。
自宅の鏡の前に立ち、スマートフォンで動画を撮る。
最初に作ったのは、「何にでもクレームをつける男」というネタだった。
三浦は架空の店員に向かって、声を張った。
「ちょっと店長呼んでくれる?」
立ち位置を変え、今度は店員役になる。
「どうされましたか?」
再び元の位置へ戻る。
「このアイスコーヒー、冷たすぎるんだよ!」
「アイスコーヒーですので」
「じゃあ、ホットコーヒーは熱すぎるんじゃないの?」
「ホットですので」
「ちょうどいいコーヒーはないのか!」
「常温の水ならございます」
「じゃあ、それをくれ!」
三浦は決め顔をした。
静まり返った部屋で、冷蔵庫のモーター音が聞こえた。
録画を止め、自分の演技を再生する。
途中まで見て、画面を閉じた。
「客が普通に面倒くさいだけだな」
*
別のネタも考えた。
自分を戦国武将の生まれ変わりだと思い込んでいるコンビニ店員。何を聞かれても占いで答えるタクシー運転手。将来の夢が町内会長だという不良少年。
設定をノートに書いてみたが、どれも途中で先が続かなくなった。
真壁なら、ここから話を広げられたかもしれない。
オチをつけ、台詞を削り、三浦が演じやすい形に整えてくれただろう。
しかし、もう真壁はいない。
三浦はノートを閉じ、畳の上に仰向けになった。
天井の染みを見ながら、両腕を広げる。
「俺、1人だと、こんなにつまらないのか」
これまでも、ネタを書くのは真壁だった。
だが、自分が演じ、自分が直し、自分が客を笑わせてきたという自負はあった。
コンビとして売れなかっただけで、自分に力がないわけではない。
そう思っていた。
それが今、1人でネタを作ってみると、何も形にならない。
諦めるべきなのかもしれない。
真壁のように、どこかで区切りをつけるべきなのかもしれない。
芸人でなければ、自分には何ができるのだろう。
飲食店で働くことはできる。人と話すのは得意だ。営業の仕事にも向いているかもしれない。
だが、それを考えるたび、胸の奥に強い抵抗が生まれた。
ここで辞めれば、自分の人生は「昔、少しテレビに出ていた人」で終わる。
それだけは、どうしても受け入れられなかった。
一度でいい。
もう一度だけ、自分の名前が世間に広がる瞬間を味わいたい。
テレビでなくてもいい。舞台でなくてもいい。
人が振り返り、自分の話を聞き、自分の言葉で笑ったり怒ったりする場所なら、どこでもよかった。
諦めたくはなかった。
成功する見込みなどなくてもいい。
他人から見れば、みっともない悪あがきでも構わない。
何もせずに終わるよりは、最後に何か一つ、自分から動きたかった。
三浦は起き上がり、テーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取った。
連絡先を開き、画面をゆっくりとスクロールする。
テレビ関係者、芸人仲間、昔の同級生。
その中で、ある名前に指が止まった。
上村。
三浦はしばらくその名前を眺めていた。
そして、数か月前に倉沢で会った、町議の男のことを思い出した。
グリフ。
酔った勢いで、自分は政治家に向いているかもしれないと言った。
あのときは、ただの冗談だった。
少なくとも、三浦自身はそのつもりだった。
だが、笑われるために口にした冗談が、時間を置いてから、別の意味を持って戻ってくることもある。
三浦は上村の名前を押した。
呼び出し音が鳴る。
1度、2度、3度。
やがて、眠そうな声が聞こえた。
『もしもし』
「よう、上村。久しぶり」
『三浦か。何だよ、急に』
「ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
『金なら貸さねえぞ』
「そうじゃねえよ」
三浦は一度息を吸った。
「グリフって、次の選挙にも出るのかな」




