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3/30

舞台を降りた芸人

 夏になった。

 東京では朝から気温が30度を超え、昼を待たずにアスファルトが陽炎を立てていた。駅前のスーパーでは、米売り場の棚に空きが目立ち始めている。

 猛暑による不作や、訪日客の増加、流通の偏り。

 テレビでは専門家がさまざまな理由を説明していたが、三浦にとって重要なのは、近所のスーパーで5キロの米が買えなくなったということだった。

「米がないなら、パンを食えばいいじゃないですか」

 情報番組で若いタレントが冗談を言い、司会者が苦笑している。

 三浦はテレビを消した。

「それで笑い取れるなら、俺だってまだ売れてるよ」

 誰もいない部屋でつぶやいた。

 その日の午後、三浦は都内の雑居ビルにある貸し稽古場へ向かった。

 エレベーターのない古い建物の3階だった。細い階段を上るたびに、冷房の効いた1階へ戻りたくなる。壁には、劇団員募集や小規模なライブのチラシが何枚も貼られていた。

 稽古場では、相方の真壁が先に待っていた。

「お疲れさまです」

「おう。暑いな」

「冷房、さっき入れたんですけど、全然効かないですね」

 部屋の隅では、古い家庭用エアコンが大きな音を立てていた。しかし、そこから出てくる風は生ぬるい。

 三浦は汗を拭きながら、折り畳み椅子に腰を下ろした。

 真壁と会うのは、3か月ぶりだった。

 2人が《ポコぽんた》を結成したのは12年前になる。それ以前は、それぞれ別の相手とコンビを組んでいた。

 三浦のほうが芸歴は長く、年齢も6つ上だった。

 真壁は38歳。

 髪は短く、黒縁の眼鏡をかけている。舞台では地味な印象だったが、ネタを書く力は三浦よりはるかにあった。

 普段のネタ作りは、真壁が台本を書き、三浦が実際に声に出して試す。客に伝わりにくい部分や、間延びする箇所を削り、言葉を直していく。

 文章では面白く見えても、口に出すと笑えないことがある。逆に、文字にすれば何でもない一言が、間の取り方一つで大きな笑いになることもあった。

 そこを見抜くのは、三浦の得意分野だった。


 *


 2人は、一度売れた。

 深夜のネタ番組をきっかけに出演が増え、バラエティー番組のひな壇にも呼ばれた。1日に3本の収録が重なることもあった。

 だが、それは長く続かなかった。

 新しい芸人が次々と現れ、番組が終わり、出演依頼は少しずつ減った。

 気がつけば2人は、地方営業や小さな劇場を中心に活動する芸人へ戻っていた。

「じゃあ、始めますか」

 真壁が印刷した台本を差し出した。

 今回の題材は、スーパーのセルフレジだった。

 三浦が客役、真壁が店員役である。

 三浦は部屋の中央に立ち、台本を見ながら始めた。

「すみません、このセルフレジ、使い方が分からないんですけど」

「かしこまりました。まず、ご自分で商品を読み込んでください」

「セルフなのに、あなたが教えてくれるんですか?」

「そこはセルフじゃありません」

「じゃあ、代わりに全部やってください」

「それでは普通のレジになります」

「普通のレジは、どこですか?」

「隣です」

「最初からそっちに行けばよかった!」

 2人は、そのまま数秒黙った。

 エアコンの音だけが、やけに大きく聞こえた。

 三浦は台本から顔を上げた。

「……うん」

「どうですか」

「セルフレジが分からないおじさんが、普通のレジに行く話だな」

「はい」

「それ以上でも、それ以下でもないな」

「そうですね」

「ボケが全部、普通の質問なんだよ」

「一応、最後にひっくり返したつもりなんですけど」

「どこが?」

「最初から普通のレジに行けばよかった、という」

「ひっくり返ってないよ。正しい結論にたどり着いただけだ」

 真壁は黙って台本に目を落とした。

「三浦さんが、セルフレジを人の名前だと思う設定にしますか」

「どんな名前だよ」

「セルフ・レジさん」

「外国人にする必要ある?」

「レジ・セルフかもしれないです」

「どっちでもいいよ」


 *


 2人はもう一度、最初から試した。

 三浦が必要以上に大声を出し、真壁が冷静に突っ込む。

 立ち位置を変え、間を長くし、台詞の順番も入れ替えた。

 しかし、どう直しても面白くならなかった。

 ネタ合わせを始めて1時間ほどたつ頃には、台本の余白が修正の文字で埋まり、2人とも口数が減っていた。

 三浦はペットボトルの水を飲み、壁にもたれた。

「真壁、どうする?」

 真壁は床に置いた台本を見たまま答えた。

「どうしますかね」

「今日は駄目だな。日を変えて、もう1回やるか」

「はい」

 三浦は汗で額に張りついた髪をかき上げた。

「それと、今年はM-1に出てみようと思ってる」

 真壁が顔を上げた。

「M-1ですか」

「うん」

「この前まで、もう出ないって言ってませんでした?」

「気が変わった」

「売れてないやつが出る大会だって」

「それは上村に格好つけて言っただけだ」

「誰ですか、上村って」

「高校の同級生」

 三浦は苦笑した。

「出るなら、新ネタが最低2本は欲しい。今日のこれを直して、もう1本。申し訳ないけど、頑張ってもらえるか」

 真壁はすぐには答えなかった。

 眼鏡を外し、レンズをシャツの裾で拭いている。

「頼むよ」

「……はい」

 返事には、明らかに力がなかった。

 三浦は疲れているのだと思った。ネタを書いているのは真壁である。新ネタを2本用意しろと言われれば、負担に感じるのも当然だった。

「まあ、いきなり完成させなくていいから。設定だけでも出してくれれば、俺も一緒に考えるし」

「三浦さん」

「ん?」

 真壁は眼鏡をかけ直した。

 しばらく黙ったあと、意を決したように口を開いた。

「M-1というより……もう、無理なんじゃないかと思うんですよね」

「何が?」

「俺たちです」


 *


 三浦は真壁の顔を見た。

 冗談を言っている表情ではなかった。

「え、何。どうした?」

「俺、芸人を辞めようと思ってます」

「え?」

「もう、決めました」

「マジで?」

「ガチです」

 真壁は淡々と言った。

 その言葉だけが、稽古場の中に妙にはっきりと残った。

 三浦はしばらく何も言えなかった。

 真壁は、芸人を辞めて普通に働くつもりだという。

 実家の知人が経営している会社から、人手が足りないので来ないかと誘われていた。最初は断っていたが、詳しく話を聞くうちに、そこで働くことを真剣に考えるようになったらしい。

「本当は、35歳までに売れなかったら辞めるつもりだったんです」

「でも、俺たち、1回は売れただろ」

「売れたというのも、微妙ですけどね」

「テレビにも出たし、営業だけで食えた時期もあった」

「だから、踏ん切りがつかなかったんですよ」

 真壁は自嘲するように笑った。

「一度も売れてなかったら、35で辞めてたと思います。でも、もう1回くらい何かあるんじゃないかって思って、38まで来ちゃいました」

「まだ38だろ」

「もう38です」

「芸人で38なんて、若手みたいなもんだよ」

「それは芸人の中だけです」

「50で売れた人もいる。60近くなってから注目された人だっているだろ」

「その人たちは、50になるまで続けられた人です」

「俺たちだって続けられる」

 真壁は首を横に振った。

「三浦さんは続けたいんですよね」

「当たり前だろ」

「俺は、もう分からないんです。売れたいのか、辞めるのが怖いだけなのか」


 *


 三浦は言葉に詰まった。

 真壁の言葉は、そのまま自分にも向けられているように聞こえた。

 売れたいのか。

 それとも、芸人ではない自分になるのが怖いだけなのか。

 三浦は44歳になっていた。

 一度はアルバイトを辞め、芸人の仕事だけで生活できていた。しかし今では再び、知人が経営する飲食店や、イベント会場の設営を手伝いながら活動を続けている。

 芸人の仕事が入るたびにアルバイトを休むため、安定した職には就けない。

 芸人として知られた顔が邪魔をすることもあった。

「あれ、昔テレビに出てましたよね」

 アルバイト先で客から声をかけられるたび、三浦は笑顔で応じた。

「今も出てますよ。たまたま最近見てないだけです」

 笑ってもらえれば、それでよかった。

 だが、客が帰ったあとには、いつも少しだけ惨めな気持ちが残った。

「もう少し考えろよ」

 三浦は言った。

「急いで決めることじゃないだろ」

「半年くらい考えました」

「俺には何も言わなかったじゃないか」

「言ったら、止められると思ったからです」

「止めるに決まってるだろ。コンビなんだから」

 思った以上に強い声が出た。

 真壁は目を伏せた。

「すみません」

「謝ってほしいわけじゃない」

 三浦は稽古場の中を歩き回った。

 何か説得する言葉を探したが、うまく出てこなかった。

「M-1に出よう。最後でもいいから」

「最後にするつもりはないでしょう」

「分からないだろ。出てみたら何か変わるかもしれない」

「それを、何年言ってきました?」

 真壁の声は静かだった。

 責めるような言い方ではなかった。

 だからこそ、三浦には何も返せなかった。

 結局、その日は、もう少し考えてくれと伝えて別れた。

 真壁も、その場では「分かりました」と答えた。


 ***


 しかし数日後、三浦のスマートフォンにメッセージが届いた。

 ――いろいろ考えましたが、やはり芸人を辞めます。事務所にも伝えました。今まで、本当にありがとうございました。

 三浦は何度も、その短い文章を読み返した。

 電話をかけたが、真壁は出なかった。

 代わりに、しばらくして返信が来た。

 ――直接話すと、また迷いそうなので。すみません。

「迷うなら、辞めるなよ」

 三浦はスマートフォンに向かって言った。

 だが、真壁の決意は変わらなかった。

 所属事務所からは、新しい相方を探してはどうかと言われた。

 しかし、同世代の芸人は、すでに辞めた者が多かった。残っている者には、それぞれ相方がいる。

 若い芸人と組むことも考えた。

 だが、20代の芸人が話す動画配信者や音楽、流行の言葉を、三浦は半分も理解できなかった。相手も、三浦が話す昔のテレビ番組や芸能人の話を知らない。

 仲のよい後輩にも声をかけた。

「1回、俺と組んでみない?」

 後輩は困ったように笑った。

「三浦さんのことは好きですけど、コンビは、さすがに無理っす」

「何でだよ」

「何でと言われても……」

「売れそうにないから?」

「そこまで言ってないです」

「顔に書いてあるよ」

 後輩は最後まで否定しなかった。

 相手だって売れたい。

 三浦と組むことが、売れるための近道だとは誰も思わなかった。

 ――ピン芸人か。

 三浦は、1人でできるネタを考え始めた。

 自宅の鏡の前に立ち、スマートフォンで動画を撮る。

 最初に作ったのは、「何にでもクレームをつける男」というネタだった。

 三浦は架空の店員に向かって、声を張った。

「ちょっと店長呼んでくれる?」

 立ち位置を変え、今度は店員役になる。

「どうされましたか?」

 再び元の位置へ戻る。

「このアイスコーヒー、冷たすぎるんだよ!」

「アイスコーヒーですので」

「じゃあ、ホットコーヒーは熱すぎるんじゃないの?」

「ホットですので」

「ちょうどいいコーヒーはないのか!」

「常温の水ならございます」

「じゃあ、それをくれ!」

 三浦は決め顔をした。

 静まり返った部屋で、冷蔵庫のモーター音が聞こえた。

 録画を止め、自分の演技を再生する。

 途中まで見て、画面を閉じた。

「客が普通に面倒くさいだけだな」


 *


 別のネタも考えた。

 自分を戦国武将の生まれ変わりだと思い込んでいるコンビニ店員。何を聞かれても占いで答えるタクシー運転手。将来の夢が町内会長だという不良少年。

 設定をノートに書いてみたが、どれも途中で先が続かなくなった。

 真壁なら、ここから話を広げられたかもしれない。

 オチをつけ、台詞を削り、三浦が演じやすい形に整えてくれただろう。

 しかし、もう真壁はいない。

 三浦はノートを閉じ、畳の上に仰向けになった。

 天井の染みを見ながら、両腕を広げる。

「俺、1人だと、こんなにつまらないのか」

 これまでも、ネタを書くのは真壁だった。

 だが、自分が演じ、自分が直し、自分が客を笑わせてきたという自負はあった。

 コンビとして売れなかっただけで、自分に力がないわけではない。

 そう思っていた。

 それが今、1人でネタを作ってみると、何も形にならない。

 諦めるべきなのかもしれない。

 真壁のように、どこかで区切りをつけるべきなのかもしれない。

 芸人でなければ、自分には何ができるのだろう。

 飲食店で働くことはできる。人と話すのは得意だ。営業の仕事にも向いているかもしれない。

 だが、それを考えるたび、胸の奥に強い抵抗が生まれた。

 ここで辞めれば、自分の人生は「昔、少しテレビに出ていた人」で終わる。

 それだけは、どうしても受け入れられなかった。

 一度でいい。

 もう一度だけ、自分の名前が世間に広がる瞬間を味わいたい。

 テレビでなくてもいい。舞台でなくてもいい。

 人が振り返り、自分の話を聞き、自分の言葉で笑ったり怒ったりする場所なら、どこでもよかった。

 諦めたくはなかった。

 成功する見込みなどなくてもいい。

 他人から見れば、みっともない悪あがきでも構わない。

 何もせずに終わるよりは、最後に何か一つ、自分から動きたかった。

 三浦は起き上がり、テーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取った。

 連絡先を開き、画面をゆっくりとスクロールする。

 テレビ関係者、芸人仲間、昔の同級生。

 その中で、ある名前に指が止まった。

 上村。

 三浦はしばらくその名前を眺めていた。

 そして、数か月前に倉沢で会った、町議の男のことを思い出した。

 グリフ。

 酔った勢いで、自分は政治家に向いているかもしれないと言った。

 あのときは、ただの冗談だった。

 少なくとも、三浦自身はそのつもりだった。

 だが、笑われるために口にした冗談が、時間を置いてから、別の意味を持って戻ってくることもある。

 三浦は上村の名前を押した。

 呼び出し音が鳴る。

 1度、2度、3度。

 やがて、眠そうな声が聞こえた。

『もしもし』

「よう、上村。久しぶり」

『三浦か。何だよ、急に』

「ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」

『金なら貸さねえぞ』

「そうじゃねえよ」

 三浦は一度息を吸った。

「グリフって、次の選挙にも出るのかな」


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