28,335票
投票日の翌朝。
三浦たち3人は、誰一人として朝には起きなかった。
前夜、ビールを1本ずつ飲み、ほとんど会話もせずに布団へ入った。
そのまま、全員が深く眠った。
最初に目を覚ましたのは上村だった。
スマートフォンを見る。
「……12時半」
もう一度、目を閉じた。
次に起きたのはグリフだった。
「何時?」
「1時過ぎ」
「まだいいか」
「何がいいんだよ」
「開票は夜だろ」
三浦に至っては、2時近くまで眠っていた。
起こされた三浦は、布団の中から顔だけを出した。
「今日、選挙だっけ?」
「昨日だよ」
「ああ……そうか」
「候補者が一番分かってないじゃないか」
3人とも、長かった選挙戦が終わったという解放感より、単純な疲労が勝っていた。
*
午後3時近くになって、3人は選挙事務所へ入った。
事務所には誰もいない。
公示日の朝と同じ、小さなテナントだった。
違うのは、壁一面に貼られた地図に、選挙期間中の書き込みが増えていることだった。
何時にどの駅へ行った。
どの商店街で反応がよかった。
どこで何人くらい集まった。
ポスターを貼った場所。
足場台を置いた駅前。
十数日の記録が、色の違うペンで書き込まれていた。
上村が椅子へ座る。
「静かだな」
「当選しそうな候補の事務所なら、今頃大変なんだろうな」
三浦が言う。
「テレビのカメラとか来て」
「支持者が100人くらい集まって」
グリフも続けた。
三浦は事務所を見回した。
「うち、3人」
「久保さん来るだろ」
「4人か」
「倍に増えたじゃないか」
グリフが言うと、三浦が笑った。
「3から4は倍じゃないぞ」
「分かってる」
「俺だって馬鹿じゃ――」
「今日はまだやらなくていい」
上村が止めた。
*
久保が来たのは、2時間ほどあとだった。
「おう」
いつもの調子で入ってくる。
「遅いですよ」
三浦が言った。
「開票はまだだろ」
「普通、候補者の事務所にはもっと早く来るもんじゃないですか?」
「普通の候補者じゃないからいいんだ」
「それ便利に使ってません?」
久保は紙袋を置いた。
中にはペットボトルの茶と、簡単な食べ物が入っていた。
「酒は?」
三浦が聞く。
「結果が出るまでなし」
「当選したら?」
「そのとき考える」
「落選したら?」
「それも考える」
「結局飲むんじゃないですか」
*
ポスター貼りやビラ配りを手伝ってくれた上村の友人たちは、それぞれ自宅で開票を見ることになっていた。
『もし当選したら、すぐ行くから』
そう言ってくれた者もいた。
ただ、誰も本当にその可能性が高いと思ってはいなかった。
三浦自身もそうだった。
目標は当選ではない。
1割。
有効投票の1割を超える。
供託金を取り戻す。
その数字を取れれば、次がある。
久保が最初に示した目標だった。
夕方になると、少しずつ人が来た。
毎日のように駅前へ三浦の話を聞きに来ていた男性。
高校生とのやり取りがあった日にもいた女性。
何度か足場台へ上がった会社員。
全部で数人だった。
「来ていいのか分からなかったんですけど」
1人が言った。
「もちろんですよ」
三浦はうれしそうに答えた。
「むしろ来てくれて助かりました。俺たちだけだと寂しすぎるんで」
候補者。
スタッフ。
支持者。
人数は少ない。
それでもようやく、普通の選挙事務所らしい光景になった。
*
開票が始まった。
事務所には、何とかレンタルできた40型のモニターが1台置かれている。
ノートパソコンを接続し、テレビの選挙速報と、開票状況を確認できる画面を切り替えながら見る。
最初のうちは、三浦の選挙区の票はほとんど出てこなかった。
「こういうの、いつ分かるんです?」
支持者の1人が聞く。
「自治体によって違うんですけど、途中経過が出始めれば、ある程度は見えてきます」
グリフが答えた。
三浦はテレビを見ながら、落ち着かなかった。
全国では、次々に当選確実の文字が出る。
名前を知っている大物議員。
選挙期間中に何度もテレビで見た候補。
そのたびに、事務所では特に反応もなく、
「あ、この人通った」
「強いな」
と他人事のように話していた。
*
三浦の選挙区で当確が出たのは、開票開始から3時間ほどたった頃だった。
テレビ画面へ赤い文字が出る。
――当選確実 自由共和党 ○○○○氏。
「ああー……」
誰からともなく声が漏れた。
予想していた。
現職で、知名度も組織もある。
街宣車もスタッフも、三浦とは比べものにならなかった。
それでも実際に、
――三浦は当選しない。
という結果を画面で突きつけられると、少しだけ空気が落ちた。
三浦は数秒、画面を見ていた。
それから立ち上がった。
「えー」
皆が三浦を見る。
「応援していただいたにもかかわらず、当選することはできませんでした」
三浦は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
支持者たちも頭を下げた。
「いやいや、こっちが頭下げることじゃないですよ」
三浦が慌てる。
「ありがとうございます」
一瞬だけ、落選した候補者の選挙事務所らしい空気になった。
ただし、それで帰る者はいなかった。
1人の男性が言った。
「で、三浦さん、何票なんです?」
三浦は顔を上げた。
「そうなんですよ」
久保もすぐに言う。
「ここからだ」
全員が、またモニターへ向き直った。
*
当落よりも、今は得票率だった。
三浦の票は、少しずつ積み上がっていく。
1万票。
1万5千。
「1万5千いった」
上村が言った。
三浦は黙っている。
グリフも何も言わない。
1万6千。
1万8千。
途中から、久保が計算機を出していた。
「有効投票総数がこのくらいなら……」
「どうです?」
「まだ分からん」
「10パーいきそうですか?」
「黙って見ろ」
三浦が言う。
「久保さんのほうが緊張してるじゃないですか」
「うるさい」
23時を過ぎた頃。
数字の更新が止まり始めた。
三浦。
28,335票。
グリフが画面を確認する。
もう一度、有効投票総数を見る。
計算する。
久保も同じことをしている。
数秒後。
「超えた」
グリフが言った。
三浦が振り向く。
「何が?」
「10%」
「本当に?」
「超えてる」
三浦はモニターへ近づいた。
「何パー?」
「10%は超えてる」
久保も確認した。
「供託金没収ラインを超えた」
一瞬。
誰も声を出さなかった。
意味を理解するのに、ほんの少し時間がかかった。
「……戻る?」
三浦が聞いた。
「供託金?」
「戻る」
久保が答えた。
「300万?」
「そうだ」
「本当に?」
「何度聞く」
次の瞬間。
「よっしゃあ!」
三浦が叫んだ。
小さな選挙事務所に、拍手と歓声が響いた。
「やった!」
「10パーいった!」
「三浦さん!」
誰かが三浦の背中を叩いた。
当選していない。
順位も上位ではない。
国会議員になれるわけでもない。
それなのに、事務所はまるで当選した候補者のような騒ぎになった。
たった7人ほどの選挙事務所だった。
*
「だるまないの?」
誰かが言った。
「買ってない」
上村が答える。
「当選する予定じゃなかったからな」
「ひどいな」
三浦が笑う。
1人の支持者が、突然ホワイトボードを引き寄せた。
「じゃあ、描きましょう」
黒いマーカーで、丸いだるまを描き始めた。
「うまいですね」
「子供の絵をよく描くんで」
あっという間にだるまが完成する。
「では」
男が両目を黒く塗った。
三浦が慌てた。
「いやいや!」
「何です?」
「両目はまずいでしょ。当選してないから」
「あ」
男も気づいた。
しばらく考えたあと、片方の目をティッシュで消した。
少し跡が残った。
さらに、その目の周囲を点線で囲む。
「何ですか、これ」
「仮の目」
「仮?」
「10%達成分です」
笑いが起きた。
「本当の当選したら、太く塗りましょう」
三浦はホワイトボードを見た。
片目だけが、薄く点線で囲まれた妙なだるま。
「これ、次の選挙まで置いとくの?」
「当然です」
「何年あるか分からないですよ」
「そのくらい持つでしょ、ホワイトボード」
*
グリフは、少し離れたところで俯いていた。
誰にも見られないようにしているつもりだった。
三浦は最初、気づかなかった。
上村はスマートフォンを耳へ当てている。
「うん。10パー超えた」
相手は妻らしい。
「だから、供託金戻るって」
少し間がある。
「うん」
上村の顔が急に明るくなった。
「旅行、行けるかもしれない」
三浦がそれを聞いて笑った。
「上村、そこ?」
「大事だろ!」
「俺の選挙だぞ」
「俺の50万も入ってるんだよ!」
「返すよ!」
「だから旅行行けるかもしれないって言ってるんだろ」
支持者たちが笑った。
実際、供託金が返ってくれば状況は大きく変わる。
選挙期間中に予定を超えて出ていった費用もある。
それでも、三浦の貯金で何とか処理できる見通しが立つ。
グリフと上村から一時的に出してもらった金も、返せる可能性が高い。
*
久保が三浦の前へ来た。
「まずは祝着」
「しゅうちゃく?」
「めでたい、という意味だ」
「普通に言ってくださいよ」
久保が右手を出した。
「よくやった」
三浦の顔は、すでに涙でぐしゃぐしゃだった。
鼻水まで出ている。
「久保さん……」
三浦は袖で鼻を拭った。
そのまま久保の手を握ろうとする。
久保が瞬時に手を引いた。
「待て」
「何です?」
「まず手を拭け」
事務所が爆笑した。
「今、感動のところですよ!」
「感動と衛生は別だ」
ティッシュを渡される。
三浦は鼻をかみ、手を拭いてから、改めて久保の手を握った。
「ありがとうございました」
「まだ礼を言うのは早い」
そう言いながら、久保も笑っていた。
*
三浦は、その場に来てくれた支持者一人一人へ頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「いや、楽しかったですよ」
「また駅前やってください」
「落選したのに?」
「選挙なくても、やればいいじゃないですか」
三浦は一瞬、言葉に詰まった。
選挙が終わったら駅前へ行かなくなる。
そんなふうに、どこかで思っていた。
「……そうですね」
「《話せる国》なんだから」
「確かに」
三浦はもう一度頭を下げた。
*
上村にも声をかけた。
「上村」
「ん?」
「ありがとう」
2人は握手ではなく、拳を合わせた。
「よかったなあ」
上村は笑った。
「ほんと、ほっとした」
「1年、長かったな」
「長かった」
上村は少しだけ真面目な顔になった。
「最初、お前が政治家になるって言ったとき、本当にやめさせようと思ってたからな」
「知ってるよ」
「途中で逃げると思ってた」
「それも知ってる」
「でも、ここまで来た」
「まだ落選だけどな」
「今日は言わなくていいだろ」
再び拳を合わせた。
*
三浦は、最後にグリフを見た。
グリフはまだ少し俯いていた。
「グリフ」
「何?」
「ありがとう」
「俺は何も」
「一番やってるだろ」
「まだまだだよ」
グリフは顔を上げた。
「国会議員になってない」
「分かってる」
「2万8千票は取った。でも、当選には全然足りない」
「うん」
「今日は予選を突破しただけだ」
三浦は笑った。
「それでも、うれしいよ」
そう言うと、突然グリフへ抱きついた。
「うわ」
グリフの身体が固まる。
「何だよ」
「いや……こういうの苦手なんだよ」
「少しくらいいいだろ」
「鼻水つけるなよ」
「拭いたって」
上村が横から言う。
「グリフ、顔すごいぞ」
「うるさい」
三浦はようやく離れた。
そこで気づいた。
「お前、泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてるじゃん」
「疲れてるだけだ」
「目から疲れが出るの?」
「うるさい」
あのBS番組で、三浦が、
――倉沢を馬鹿にすんなよ。
と言った夜とは逆だった。
今度は三浦が、グリフが泣いているのを見つけた。
だが、それ以上は何も言わなかった。
*
支持者たちが帰ったあと。
小さな事務所には、また4人だけが残った。
久保は椅子へ座り、腕を組んだ。
「皆、よくやった」
三浦たちが久保を見る。
「ただし」
「出た」
三浦が言う。
「明日から、もう次へ向けて動く」
「明日?」
「当たり前だ」
「1日くらい休みません?」
「今日寝ただろ」
「昼までですけど」
「十分だ」
久保はグリフと上村を見る。
「2人は倉沢へ戻るんだろ」
「はい」
「俺も仕事がありますから」
「三浦は、もう少し東京へ残れ」
「何で?」
「取材が来る」
「来ます?」
「来る」
久保は断言した。
「2万8千票は、当選する数字ではない」
「はい」
「だが、ほとんど組織のない無所属新人が、短期間で取った数字としては、少なくとも話題にはなる」
「しかも元芸人」
「それもある」
「《馬鹿にすんなよ》もある」
「それもある」
「やっぱり芸人じゃないですか」
「入口は何でもいい」
久保は続けた。
「選挙が終わった今のほうが、お前の活動内容を扱いやすい媒体も出てくる」
選挙期間中でも候補者に関する報道そのものが禁止されていたわけではない。
ただ、放送局や新聞社は候補者間の公平性を強く意識する。
1人の無所属新人だけを長時間取り上げれば、他候補との扱いの差が問題になりかねない。
そのため、三浦の駅前での活動やネット上の広がりを把握していた媒体も、選挙中は大きな特集を控えていた。
投票が終われば事情は変わる。
「明日から来るぞ」
久保がもう一度言った。
*
そして久保自身も、しばらく東京へ残るつもりだった。
三浦だけが理由ではない。
今回の衆議院選挙は、自由共和党を中心とする与党の圧勝に終わった。
久保には、もう一つ考えていることがあった。
村田知事の国政進出である。
現職議員が強い選挙区へ、無理やり村田を割り込ませることはできない。
まして今回、与党の現職が多く生き残った。
空いている選挙区は少ない。
一方で、この結果なら、次の総選挙まである程度期間が空く可能性もある。
その間に村田の知事任期は進む。
任期後に国政へ転じるなら、それは自然な流れではある。
しかし時間がたてば、今度は候補者の席が埋まってしまう可能性もある。
どの選挙区なら空く可能性があるのか。
比例との組み合わせはどうなるのか。
党本部や県連は村田をどう見ているのか。
久保は、昔の政治関係者を回り、その感触を探るつもりだった。
三浦と村田。
まったく違う2人の国政への道が、同じ時期に少しずつ動き始めていた。
*
翌朝。
グリフと上村は倉沢へ戻ることになった。
マンションの玄関で、三浦が言う。
「供託金が戻ったら、借りた金、返すからな」
グリフは靴を履きながら答えた。
「いつでもいいよ」
「よくない」
上村が即座に言った。
「できるだけ早く頼む」
「お前、昨日旅行って言ってたもんな」
「家族との約束は政治より重い」
「分かったよ」
グリフが笑った。
「ちゃんと会計が全部確定してからにしろよ。先に返して、あとで足りませんでは困る」
「分かってる」
「久保さんにも確認しろ」
「分かってるって」
「あと――」
「グリフ」
「何?」
「もう帰れ」
上村が笑った。
「東京でも倉沢でも同じだな、お前ら」
玄関を出る前、グリフが振り返った。
「三浦」
「何?」
「28,335票」
「覚えたよ」
「忘れるなよ」
「何で?」
「その人数がお前の名前を書いたんだから」
三浦は少し黙った。
「……うん」
グリフはそれ以上何も言わず、廊下へ出た。
*
2人が帰ったその日から、三浦の電話が鳴り始めた。
新聞。
地方テレビ局。
ネットメディア。
政治系ではない情報番組。
以前出演したBS番組からも、
――選挙を終えてどう感じているか。
という取材依頼が来た。
駅前の高校生とのやり取り。
《馬鹿にすんなよ》の動画。
アルミの足場台に人を上げる独特の街頭活動。
毎晩、聴衆と対話したこと。
選挙カーを自分で運転したこと。
そして、無所属新人で2万8千票を超えたこと。
それぞれが記事になる材料だった。
三浦は、すべてに飛びつこうとした。
「全部出ればいいんじゃないですか?」
「駄目だ」
久保に止められた。
「何で?」
「何を言わせたい取材なのか見ろ」
「取材は取材でしょう」
「“元芸人の面白候補”だけで終わる記事もある。“異色候補が大健闘”で終わる記事もある。政策を聞こうとしているところもある」
「選べと」
「今からは、それができる」
選挙前は、三浦が選ばれる側だった。
出演依頼が1件来れば、出るか出ないかを真剣に悩んだ。
今は違う。
複数の依頼を並べ、
――これは受ける。
――これは少し待つ。
――これは断る。
そんな判断が必要になった。
三浦は、自分のスマートフォンを見た。
知らない番号から、また着信が来ている。
そのとき、昔、芸人仲間から聞いた話を思い出した。
M-1で優勝した翌日。
昨日まで自分たちを知らなかった人が、急に名前を知っている。
会ったこともないテレビ局から電話が来る。
呼ばれる番組が変わる。
楽屋が変わる。
扱われ方が変わる。
世界そのものが変わったのではない。
自分を見る周囲の目が、一晩で変わった。
その芸人は、
――翌朝起きたら、立っているステージが一段上がっていた。
と言っていた。
三浦は、あのとき半分冗談だと思って聞いていた。
今なら、少し分かる。
自分は落選した。
国会議員ではない。
肩書きは昨日と同じ、政治団体《話せる国》代表。
それなのに。
昨日まで、
――元芸人が政治家を目指している。
だった。
今日からは、
――28,335票を取った男。
になっていた。
スマートフォンが、また震えた。
三浦は画面を見ながら、小さく笑った。
「ステージ、変わったかもしれないな」
ただし、M-1優勝とは違う。
三浦は負けたのだ。
負けたのに、一段上へ上がった。
それが何とも、自分らしい気がした。




