政治家の家の呼び鈴
三浦とグリフは、電子署名基盤を中心とした第1段階の案を、できるだけ早く久保へ報告するつもりでいた。
しかし、久保はしばらく東京へ行っており、なかなか予定が合わなかった。
電話をしても、
『今、永田町の近くだ』
と言ったかと思えば、数日後には、
『今日は杉並を歩いている』
と答える。
「何をしてるんですか?」
グリフが尋ねても、
『東京見物だ』
としか言わない。
「久保さんが、今さら東京見物するわけないだろ」
三浦が言った。
「たぶん、お前の出馬に関係する人へ会ってる」
「だったら、そう言ってくれればいいのに」
「確実になる前に話すと、お前が期待するからだろ」
「もう期待してるよ」
「だから言わないんだよ」
久保が東京で何をしているのか、詳しいことは分からなかった。
だが、国会議員の秘書との面談が不調に終わったあとも、久保は三浦の国政挑戦を諦めてはいないらしかった。
*
久保を待つ間、グリフと三浦は、第2段階以降の制度について考えていた。
第1段階は決まった。
公的な電子署名基盤を作る。
成立した法律や政令、省令、条例などについて、国民や住民が問題を提起できるようにする。
一定数の電子署名が集まれば、国会や行政に再検討を義務づける。
再検討の過程と結論、採用しなかった場合の理由を公開する。
ここまでは、2人とも納得していた。
問題は、その次だった。
「第2段階で、国民投票まで行くか」
グリフは何度も紙へ書いた。
「いや、その前に市民会議を入れたほうがいいか」
「署名が集まったら、まず国民会議で検討するとか?」
「でも、どんな問題でも国民会議を開いたら、費用も人手もかかりすぎる」
「100万人集まったときだけ?」
「人口の少ない地方自治体なら、基準を変えないといけない」
「国と地方で別にする?」
「共通基盤にする意味が薄れる」
紙に矢印を書いては消す。
電子署名から国民投票へ進む道。
電子署名から市民会議へ進む道。
国会での公開再審議を何度か経験してから、国民発議へ広げる道。
重要な問題に限って諮問的国民投票を行う道。
どれを先にしても、それなりの理由があった。
同時に、それぞれに問題があった。
グリフは、電子署名基盤が実際に導入されたあとの国民の行動を、何通りも想像してみた。
署名が集まらず、ほとんど使われない可能性。
逆に、小さな問題まで大量に提起され、国会や行政が対応し切れなくなる可能性。
国民が国民投票を求める可能性。
投票より先に、市民会議や専門家による検証を求める可能性。
大きな企業や団体ばかりが使い、一般の国民には広まらない可能性。
「分からないな」
グリフは、何度目かの議論の途中で言った。
「何が?」
「国民が、どう使うかだ」
「使わせてみなきゃ分からないだろ」
「それでは政策にならない。国民へ、次に何をするのか説明できない」
「第1段階をやってみてから考えます、じゃ駄目なのか?」
「政治家がそれを言ったら、何も考えてないと思われる」
「でも、考えても分からないんだろ?」
「そうなんだよ」
グリフは椅子の背にもたれた。
経済学者が、金利を下げれば企業が投資し、経済が活性化すると予測した時代があった。
理屈としては正しく思えた。
しかし現実には、企業が必ずしも投資を増やすとは限らず、家計も予想どおりには動かなかった。
金を借りやすくしても、将来に不安があれば借りない。
消費を促しても、人は貯蓄を選ぶ。
優秀な学者や専門家ですら、人間の集団が将来どう行動するかを、正確に予測することはできない。
「専門家でも外すんだから、俺に分かるはずがないか」
グリフが言う。
「何だよ。急に諦めるな」
「諦めたんじゃない。自分を慰めてる」
「元町議でも、そういうことするんだな」
「元町議だから何でも分かるわけじゃない」
「安心した」
「お前は、もう少し不安になれ」
グリフは何度も図を描いた。
だが、第2段階から先を一本の道として示そうとすると、どうしても無理が生じた。
状況によって、国民が求めるものは変わる。
ならば、順番まで今決めてしまうこと自体が、新型民主制の考え方に反しているのではないか。
そんな疑問が、少しずつ大きくなっていった。
***
暦の上では秋に入っていたが、倉沢にはまだ夏の暑さが残っていた。
ようやく久保が東京から戻り、4人が集まれる日が決まった。
会場は、いつもの三浦のアパートである。
久保は部屋へ入るなり、ノートパソコンの置かれている机を見た。
「今日は何を見せてくれる?」
「久保さん、今日は政策の話です」
グリフが先に釘を刺した。
「政策の話を聞いてからでも、映像は見られるだろ」
「先に見始めたら、止まらないじゃないですか」
「年寄りの楽しみを奪うな」
「年寄り扱いするなと言ってたでしょう」
「都合よく覚えてるな」
三浦は笑いながら、久保の前へ資料を置いた。
「まず、これを聞いてください。俺から説明します」
「グリフではなく、君が?」
「自分たちの政策ですから。自分の言葉で話せないと駄目だと思って」
久保は少し表情を改めた。
「分かった。聞こう」
三浦は資料を見ずに話し始めた。
「新型民主制の第1段階です」
「1つ目。国が、公的な電子署名の仕組みを作る」
「2つ目。すでに作られた法律や、役所が決めたルールに問題があると思った人は、その仕組みを使って再検討を求める提案ができる」
「3つ目。一定数の署名が集まったら、国会や行政は必ず、もう一度その内容を検討する」
「4つ目。もう一度考えた結果と、その理由を全部公開する」
三浦は一度言葉を切った。
「今の政治でも、請願や陳情はできます。でも、普通の人が始めるには難しい。紙の署名なら、住所や生年月日を、知らない団体の人へ渡すのが怖い人もいます」
久保は黙って聞いている。
「そこで、マイナンバーカードなどを使って、国が本人確認だけをします。署名を呼びかける人には、住所や生年月日は渡しません」
「署名の内容は公開するのか?」
「何人集まっているか、どんな理由で提起されたかは公開します。でも、誰が署名したかは、原則として他人には見せません」
「会社が従業員に署名を強制していないか、確認できるのか?」
「そこは、まだルールを作らないといけません」
三浦は正直に答えた。
「ただ、紙の名簿を上司へ回すより、個人の端末から秘密で署名できるほうが、圧力は受けにくいと思います」
久保が小さくうなずいた。
三浦は、そこへ至った経緯も説明した。
最初は、スイスのようなレファレンダムを導入しようと考えたこと。
だが、署名を集めるには大きな団体が有利であり、組織を持たない人は参加しにくいと気づいたこと。
紙の署名では、個人情報への不安があること。
それなら、制度を先に作るのではなく、安全に政治参加できる道具を先に整えるべきではないかと考えたこと。
「例えばですね」
三浦は、自分らしい例を考えていた。
「大きなマンションで、住民が管理会社へ文句を言いたいとします」
グリフがわずかに顔をしかめた。
またアパートの例か、と言いたそうだった。
「管理会社の電話番号を知ってる人しか、意見を言えない。電話しても、担当者がいないと言われる。管理組合の役員と仲がいい人の意見だけは通る」
「よくある話だな」
上村が言った。
「そこで、住民全員が使える意見受付のボタンを作るんです。誰かが、“駐輪場が暗くて危ない”と書く。ほかの住民が、それは確かに危ないと思ったら正式に賛成する」
「一定数集まったら、管理会社が調べて回答する」
久保が言った。
「そうです」
「そのあと、住民投票までできるようにするか、専門家を呼んで考えるかは、使ってみてから決める」
「はい。最初から全部の機能を付けるんじゃなくて、まずは全員が押せる呼び鈴を付けます」
三浦は人差し指で、見えないボタンを押した。
「政治家の家に、大きな呼び鈴を付ける感じです」
「国民が100万人で押したら、相当うるさいな」
上村が言った。
「だから、無視できない」
三浦が答える。
久保はしばらく資料を見つめた。
最初は、提案の意外さに驚いたようだった。
新型民主制の第一歩が、国民投票でも市民会議でもなく、システム開発なのである。
政治制度の改革を掲げながら、政策の一丁目一番地に置かれているのは、本人確認機能を備えた電子署名基盤だった。
「つまり」
久保はゆっくり言った。
「君たちの主張の中心は、国会に再検討を義務づけることではないんだな」
グリフが答える。
「もちろん、それも重要です」
「だが、主役は道具のほうだ」
「そう考えています」
「再検討の義務は、その道具を最初に使うための制度にすぎない」
「はい」
久保は腕を組んだ。
「手段を目的にするのか」
「目的ではありません」
グリフが訂正する。
「最終的な目的は、国民が政治へ参加できる道を増やすことです」
「分かっている」
久保は笑った。
「だが、選挙で最初に訴えるのは、制度の完成形ではなく、道具を作ることだ。普通の発想ではない」
「駄目ですか?」
三浦が聞く。
「いや」
久保は資料を机へ置いた。
「また奇襲だな」
「奇襲?」
三浦が首をかしげる。
「以前にも、グリフは似たことをした」
久保は、倉沢町で太陽光発電所の建設計画が問題になったときの話をした。
当時、村田町長は議会にも有力者にも十分な支援基盤を持っていなかった。
計画へ賛成しても反対しても、町を二分しかねない。
政治的には追い詰められていた。
「そこでグリフが、住民投票を提案した」
「俺が決めるんじゃなくて、町民で決めましょうって?」
「単純な責任逃れにも見える。失敗すれば、村田は町長としての決断を放棄したと批判された」
久保はグリフを見る。
「だが、住民が考える場を作り、最後に投票させることで、逆に村田は町民を信じる町長として求心力を得た」
「結果論ですよ」
グリフが言った。
「政治は大半が結果論だ」
久保は三浦へ向き直った。
「正面から議会を説得する力がなかったから、別の道を作った。今回も同じだ」
「直接民主制を正面から入れようとしたら、政治家が反対する」
「だから先に、便利な電子署名の道具を入れる」
「道具が広まれば、あとから制度を増やしたいという声が国民から出る」
「そういう狙いだな」
「狙いというより、可能性です」
グリフは訂正した。
「必ずそうなるとは限りません」
「そういうところだぞ、グリフ」
久保は笑った。
「でも、これだからお前は面白い」
グリフは褒められたのか、注意されたのか分からない顔をした。
*
「それで」
久保は資料をめくった。
「第2段階は?」
グリフが答えた。
「ありません」
久保の手が止まった。
「何?」
「第2段階以降は、なしです」
「なしとは、どういう意味だ」
「考えていないわけではありません」
グリフは、自分のノートを開いた。
「電子署名基盤の次に、諮問的国民投票を置く案。無作為抽出の国民会議を置く案。国民発議を先に導入する案。いくつか考えました」
「なら、その中から一つ選べばいい」
「選べませんでした」
「なぜだ」
「どの流れが自然なのか、実際に使われる前には分からないからです」
久保は黙ってグリフを見る。
「一度は、電子署名による再検討請求の次には、国民投票を求める声が出ると思いました」
「私も、その流れは理解できる」
「でも、署名をきっかけに社会の対立が激しくなれば、投票より先に、普通の国民が情報を聞いて話し合う国民会議を求める声が出るかもしれない」
「その可能性もあるな」
「逆に、国会が署名を受けて柔軟に法案を修正するようになれば、すぐには国民投票を求めないかもしれない」
「つまり、状況によって枝分かれする」
「はい」
「それで、どうするつもりだ?」
「一本の道にまとめる必要はないのではないかと思いました」
久保の眉が動く。
「続けろ」
「倉沢モデル、アイルランドの市民会議、スイスの国民発議やレファレンダム。それぞれを、将来考えられるモデルとして提示します」
「どれを採用するかは決めない?」
「はい」
「国民に考えてくれと言うのか」
「そのための仕組みですから」
三浦が口を挟んだ。
「普通の人が政治に参加できるようにしたいんです。だったら、俺たちが最初から完成した形を決めて、“これを使ってください”と渡すのも、少し違う気がします」
「第1段階だけ作る」
「きっかけと道具だけです」
「その先は国民に考えてもらう」
「使ってみて、もっと投票したいと思うのか、先に話し合う場所が欲しいと思うのか、それは使った人たちが決めればいい」
久保は難しい顔をした。
「理屈は分からなくもない」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
「ですよね」
「選挙戦をどう組み立てればいいのか、また分からなくなったと言っている」
久保は資料を指で叩いた。
「候補者には、普通、将来像を語らせる。“第1段階の次は、これをします。その次は、これです”とな」
「そのほうが分かりやすいと思います」
グリフが言う。
「なら、なぜやらない」
「説得力を持って順番を説明できないからです」
「仮の案でもいいだろ」
「仮の案を、確実な計画のように語りたくありません」
「真面目だな」
「それに、国民発議や国民会議には、いろいろな問題があります」
グリフは続けた。
「すでに導入している国で起きた問題を指摘されたら、なぜ日本では起きないのか、どう防ぐのか説明する必要がある」
「三浦には荷が重い?」
「現段階では」
三浦が顔を上げた。
「久保さん、俺も勉強してますよ」
「分かっている」
「テレビに出てる芸能人コメンテーターくらいなら、もう話せます」
「基準が低いのか高いのか分からんな」
「少なくとも、何も知らずに勢いだけで話してるわけじゃありません」
「グリフと同じ意見ではない?」
「はい。俺は第2段階の例を話してもいいと思います」
三浦はグリフを見た。
「例えば、電子署名で国民の声が見えるようになったら、次は重要な問題について国民投票をする。その前に、無作為に選ばれた国民が専門家の話を聞く。そういう将来像は説明できます」
「それを決定済みの政策とは言わない?」
「俺たちが考えている一例だと言います」
「質問されたら?」
「分からないところは、分からないと言います」
久保は三浦を見つめた。
以前なら、その答えを無責任だと判断したかもしれない。
しかし、今の三浦は、分からないから考えていないわけではない。考えた結果、分からない部分が残っていることを理解している。
「そうか」
久保は腕を組み直した。
「そうだな……」
しばらく考える。
「この件は、いったん保留にしよう」
「保留ですか」
「第1段階は使える。第2段階以降の見せ方は、私も考える」
「ありがとうございます」
「ただし、第1段階だけでは演説の時間が余るぞ」
「ほかの政策もあります」
グリフが答える。
「人口減少や外交の話を、三浦に長くさせるのか?」
「俺だって話せますよ」
「街頭で30分、財政の話をしたら、3人しか残らんぞ」
「残った3人を大事にします」
「選挙では、去った100人も大事にしろ」
上村が笑った。
「余った時間に漫才をやるわけにもいかないですからね」
「場所によっては、やってもいい」
久保が言った。
グリフがすぐ反応する。
「政策が飛びます」
「また始まった」
三浦と上村が同時に言った。




