入口は電子署名
「でも、署名基盤を先に作るという方向は、いいと思う」
グリフは言った。
「それで、そのアプリを使ってスイス式のレファレンダムをする?」
「いや。最初から法律を拒否する権利まで与えると、政治家の反発が強すぎる」
「また政治家へ気を遣うのか?」
「実現しなければ意味がない」
「国民に拒否権を持たせる制度なんだから、政治家が嫌がるのは当然だろ。嫌がるからやめますでは、何も変わらない」
「やめるとは言ってない。段階を分ける」
「どう分ける?」
グリフは紙へ「第1段階」と書いた。
「一定数の署名が集まったら、法律を止めるのではなく、国会にもう一度審議させる」
三浦は眉を寄せた。
「もう一度考えてください、ってお願いするだけ?」
「お願いではなく、再審議を義務にする」
「でも、もう1回話して、“やっぱり同じです”で終わるだろ」
「そうなる場合は多いと思う」
「弱くないか?」
「例えば、100万人分の署名が集まったとする」
「100万人」
「それだけの反対が可視化された状態で、前と同じ結論を出すなら、国会は理由を説明しなければならない」
「説明して終わりじゃないのか?」
「議員ごとの賛否や審議内容を公開する。次の選挙で、有権者が判断できる」
「次の選挙まで待つのか」
「第1段階ではな」
三浦は納得していない顔だった。
「スイス式の拒否権に比べると、かなり弱い」
「その代わり、憲法上の問題や、国会の立法権との衝突を小さくできる」
「政治家も、“国民に決められるわけじゃないなら”って飲むかもしれない?」
「可能性は上がる」
「とがった主張のほうが、選挙では受けると思うけどな」
「非現実的な案だけを叫べば、今ある新興政党と同じになる」
「俺が埋もれる?」
「そうだ。元芸人が思いつきそうな大胆な案を言う。でも、制度の現実も分かっています。そのほうが、かえって違いを出せる」
「何か、正論を言うようになったな」
「最初から言ってる」
「最初のお前なら、“危険だからやめよう”で終わってた気がする」
グリフは少し黙った。
否定できないところがあった。
自分1人なら、悪用される危険を考え続けた末、制度化は難しいという結論を出していたかもしれない。
三浦と考えることで、危険があっても、どこまでなら始められるかという方向へ思考が向いている。
「とりあえず、第1段階は、公的な電子署名基盤を作る」
三浦が言った。
「その基盤を使って、一定数の署名が集まった法律や政令について、国会や行政に再検討を求める」
「国会で扱う法律だけじゃなく、政令や省令も対象にするのか?」
「そこも考えたほうがいいな」
「地方の条例にも使えるようにできないか?」
「国と地方で共通の仕組みにできれば、自治体ごとに同じシステムを作らずに済む」
「じゃあ、倉沢でも使える」
三浦の声が明るくなった。
「町民の要望を集めたり、住民投票の署名確認に使ったりできる」
「法律上、紙の署名しか認められていない手続きは改正が必要になる。でも、将来を考えれば共通基盤にしたほうがいい」
*
「それ作るのいくらくらいかかる?」
三浦が尋ねた。
「今、分かるわけないだろ」
「だいたいでいいよ」
「国のシステムを、だいたいで見積もるな」
「選挙の演説で聞かれたら、“分かりません”って言うのか?」
「今は演説じゃない」
グリフは、似た規模の行政システムや認証サービスの費用を検索した。
しかし、対象とする機能も運用期間も異なり、単純に比較はできない。
「初期の機能だけなら、10億円前後という置き方はできるかもしれない」
「10億円!」
「乱暴な概算だぞ。全国運用、監視、保守、問い合わせ窓口、自治体との接続、障害対策まで入れれば、もっと増える可能性がある」
「結構するな」
「国の事業としては、極端に大きいとは言えない」
「何かと比べると?」
「高速道路なら、地形にもよるけど、数百メートル分くらいじゃないか」
「そんなものか」
三浦は計算機を開いた。
「10億円を1億人で割れば、1人10円か」
「そういう割り方が正しいとは限らない」
「でも、“国民1人10円で政治に意見を出せる仕組みを作ります”と言ったら、安く聞こえるぞ」
「維持費を無視するな」
「演説ではそこまで言わない」
「言えよ」
三浦は笑った。
「でも、いいと思う。最初から国民投票をしますと言うより、本人確認のできる公的な署名サイトを作りますというほうが、怖くない」
「サイトというより、基盤だな。アプリだけでなく、ウェブでも使えるようにする。スマートフォンを持たない人には、役所や郵便局などで手続きできる窓口も必要だ」
「また増えた」
「全員が使えるようにするなら必要だ」
「じゃあ、まとめよう」
三浦はノートの新しいページに書いた。
――新型民主制 第1段階。
1、公的な電子署名の仕組みを作る。
2、誰でも出来た法律に問題があると思えば提起できる。
3、一定数の署名が集まれば、国会や行政は必ず再検討する。
4、再検討した結果と理由を公開する。
「どうだ?」
「入口としては、それでいい」
「出た。入口」
三浦はペンを置いた。
「やっと1段階目だな」
「ああ」
「疲れた」
「まだ一つしか決まってない」
「今日はここまででいいだろ。次は何だ?」
「倉沢モデルへ近づけるなら、無作為抽出の市民会議と、国民発議。それから、諮問的な国民投票、最終的には拘束力のあるレファレンダムだな」
「先が長すぎる」
「お前が国会議員になる道よりは短いかもしれない」
「それを言うなよ」
三浦は冷蔵庫を開けた。
「ビール飲むか?」
「ああ。今日はもういい」
*
2人は缶ビールを持って、店の客席へ移った。
照明を半分だけ点け、テレビをつける。
スポーツニュースでは、大谷翔平が投手として復帰したあとの映像が流れていた。
ドジャースのユニホームを着た大谷がマウンドに立ち、100マイルを超える速球を投げ込む。
肘の手術を経て、2023年以来となる実戦登板へ戻ったことを、アナウンサーが興奮気味に伝えていた。
「打つだけでも世界一なのに、また投げ始めたのか」
三浦が缶を開けた。
「本当に人間なのかな」
「お前、前にも大谷を例にしてただろ」
「国会議員を目指す話をしたときか」
「大谷だって、二刀流は無理だと言われたって」
「俺と大谷の共通点が、また一つ増えたな」
「どこがだよ」
「一度駄目になったものへ、もう一度挑戦する」
「規模が違いすぎる」
「挑戦する心に規模はない」
「便利な言葉を作るな」
2人はテレビを見ながらビールを飲んだ。
ニュースは、プロ野球の順位へ移った。
しばらく黙っていたグリフが、不意に缶をテーブルへ置いた。
「三浦」
「何だ?」
「さっきの電子署名基盤だけど」
「もう今日は終わりじゃなかったのか」
「思いついた」
「言ってみろ」
「あれがうまくいって、国民が日常的に使うようになれば、残りの制度は、こちらから押しつけなくても生まれてくるかもしれない」
三浦はテレビからグリフへ視線を移した。
「どういうこと?」
「例えば、100万人の署名が集まって、国会が再審議したとする」
「ああ」
「それでも、同じ法律が成立する」
「第1段階では、国会の決定が優先だからな」
「反対していた国民は、次の選挙まで待つと思うか?」
「もう一度署名するんじゃないか?」
「同じ法律へ何度も署名できるようにしたら、永遠に審議が終わらない」
「じゃあ、一つの法律について一度だけにする」
「そうなる可能性が高い。だが、それで納得できない人は、次に何を求める?」
三浦は少し考えた。
「署名だけじゃなくて、国民全員で投票させろ?」
「そうだ」
グリフは身を乗り出した。
「署名は、参加した一部の国民の意思にすぎない。国民全体が選んだ国会の判断が優先されるのは、筋が通っている」
「だから、国会と対等になるには、国民全体の投票が必要になる」
「電子署名基盤がすでに全国へ普及していれば、“ここへ投票機能も付けてくれ”という要望が出るのは自然だ」
「でも、スマートフォンを使えない人は?」
「郵便や投票所と併用する。専用端末を役所へ置く。機器を貸し出す。全員が参加できる補助が必要だ」
「電子投票をやってる国もあるんだろ?」
「エストニアでは、国政選挙でもインターネット投票を使っているはずだ。安全性や秘密投票の問題はあるが、技術的に完全な空想ではない」
「署名が投票になる」
「そうだ」
グリフの頭の中で、これまで別々に考えていた制度がつながり始めていた。
「投票できるようになったら、今度は、国会が決めた法律だけじゃなく、自分たちでテーマを出したいと言う人が出る」
「国民発議か」
「倉沢と同じだ。最初は町長が議題を出した。でも、制度が続くうちに、住民から“この問題を扱ってくれ”という要望が強くなった」
「国でも、同じことが起きる」
「例えば、政治資金の制度や選挙制度だ」
グリフは言った。
「国会議員自身の利害が強く関係する問題は、議員同士ではまとまりにくい」
「自分の給料を自分で決めるようなものだな」
「そういう問題だけでも、国民が直接テーマを決め、投票したらどうかという意見が出るかもしれない」
「国会が当事者になる問題は、国民が決めてあげる」
「そうだ」
「でも、何を選択肢にする?」
三浦が尋ねた。
「政治資金を厳しくします、だけでは投票にならない。いくらまで認めるか、企業献金をどうするか、罰則をどうするか。案を作らないといけない」
「国会に案を作らせたら、今と同じだ」
「そう考える人が出る」
「そこで市民会議か」
「おそらくな」
無作為に選ばれた国民が、専門家や当事者から説明を受け、複数の案を作る。
その案を国民全体の投票へかける。
グリフが最初から完成した制度として提示しようとしていたものを、国民自身が必要として求める。
「電子署名の道具を先に渡す」
三浦が言った。
「使っているうちに、“もっとこうしてくれ”という要望が出る」
「そうだ。制度から入ると、反論や恐怖が先に立つ」
「国民投票なんかしたら国が混乱する。素人に決めさせるな。外国に操作される。そういう話になる」
「でも、“本人確認のできる電子署名の道具を作りましょう”なら、反発は比較的少ない」
「便利な道具として入れる」
「国や自治体への要望、条例制定の直接請求、パブリックコメント、住民投票の手続き。いろいろなところで使える」
「思想に賛成しなくても、役所の仕事が楽になるなら使う人はいる」
「地方自治体にも共通で提供すれば、倉沢の町民会議にも使える」
グリフの声が少しずつ高くなった。
「参加候補者への連絡、出欠の確認、資料の配布、意見の募集。議事録の作成や意見の分類には、AIも使えるかもしれない」
「人間が全部読む必要はない?」
「最終確認は必要だ。でも、似た意見をまとめたり、論点を整理したりする作業は速くなる」
「公開も自動でできる」
「どの資料を誰が提出し、いつ修正されたか記録できる」
「倉沢の役場の人たちが喜ぶな」
「国だけの制度として作る必要はないんだ」
*
グリフは立ち上がった。
事務室からノートを持って戻り、すぐに書き始めた。
「国政で直接民主制を実現するための特殊なシステムと言えば、反対される」
「危ない思想の道具だと思われるかもしれない」
「でも、国と地方が共通で使える、住民参加のための便利な基盤と言えばいい」
「思想は関係ありません。行政手続きが便利になります」
三浦は笑った。
「そういうことだ」
「でも、待てよ」
三浦が表情を変えた。
「自然に国民投票や国民発議まで進む可能性があるなら、政治家は最初の段階で反対するんじゃないか?」
グリフのペンが止まった。
「そうか」
「直接民主制の入口だって、頭のいい人なら分かるだろ」
「じゃあ、将来の話は黙っておくか」
「駄目だよ。あとから、“最初からそのつもりだったのに隠した”って言われる」
「では、最終的な目標も正直に話す。ただし、第1段階では電子署名と再検討請求までだと明確にする」
「でも、政治家は言うぞ」
三浦は右手を自分の頭へ載せた。
「俺だって、馬鹿じゃない」
一瞬の間を置き、白目をむきながら、手のひらを正面へ出す。
グリフは吹き出した。
「政治家全員に、その顔をさせるなよ」
「このギャグを国会で流行らせよう」
「政策が全部飛ぶ」
「久保さんは、場所を選べば使えるって言ってたぞ」
「久保さんを味方にするな」
2人はしばらく笑った。
笑いが収まると、グリフはノートへ、改めて書いた。
――第1段階
公的電子署名基盤の構築。
一定数の署名による再検討請求。
対象、経過、審議結果の全面公開。
その下へ、小さく書き加える。
――道具を先に作る。制度は、使いながら育てる。
三浦が横からのぞき込んだ。
「これ、いいな」
「何が?」
「今までグリフは、完成した制度を作ってから国民に渡そうとしてた」
「不完全な制度を渡したら危ないだろ」
「でも、完成するまで待ってたら、永遠に渡せない」
グリフは反論しなかった。
「まず使える道具を渡す。その道具を使いながら、国民も役所も政治家も、必要なものと危ないところを覚えていく」
「倉沢モデルも、最初から今の形だったわけじゃない」
「失敗するたびに直した」
「決めたあとも、うまくいったか確かめる」
「間違ったら、みんなで直す」
2人は顔を見合わせた。
三浦が缶ビールを持ち上げる。
「第1段階に」
グリフも、自分の缶を手にした。
「まだ久保さんに見せてないぞ」
「反対されたら直せばいい」
「便利に使うな、その言葉」
2つの缶が、軽く触れた。
テレビでは、大谷がマウンドから投げた速球の映像が、もう一度流れていた。
グリフはビールを飲みながら、ノートへ書いた言葉を見た。
道具を先に作る。
制度は、使いながら育てる。
新型民主制を完成した思想として国民へ示すのではない。
まず、国民が政治へ声を届けるための道具を作る。
国民も、行政も、政治家も、その道具を実際に使う。
使って初めて分かる限界がある。
使ったからこそ生まれる要求もある。
その積み重ねの先に、市民会議や国民投票、国民発議が必要とされるのなら、それは三浦やグリフが押しつけた制度ではない。
国民自身が、必要として選んだ制度になる。
*
「三浦」
「何だ?」
「ひょっとしたら、俺たちが新型民主制を作る必要はないのかもしれない」
「今までの勉強は何だったんだよ」
「そういう意味じゃない」
グリフはノートを閉じた。
「最初の道具だけ作れば、その先は国民が作るのかもしれない」
三浦はしばらく考えた。
そして、笑った。
「それなら、“政治を国民に返す”って感じがするな」
「ああ」
「でも、最初の道具を作るには、俺たちが国会へ行かなきゃいけない」
「また、そこへ戻るのか」
「一番大事なところだろ」
2人は残ったビールを飲み干した。
完成した制度には、まだ程遠い。
電子署名基盤の安全性も、署名数の基準も、再検討の対象も決まっていない。
それでもその夜、2人は初めて、新型民主制の入口を見つけた気がしていた。




