知名度という現実
翌日、三浦は約束の1時間以上前から、部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。
格好をつけず、普段どおりに久保と会う。
グリフからは、それだけ言われている。
「普通だ。普通にしてりゃいいんだよ」
三浦は、鏡の中の自分へ言い聞かせた。
しかし、普通とは何だろう。
普段着を着ればよいのだろうが、いかにも普通を装った服を選べば、それはそれで格好をつけていることにならないか。
いっそ、芸人時代の衣装を着るか。
明るい色のジャケットを羽織り、髪を以前のように立たせる。
――これが本当の俺です。
そう言って迎えれば、少なくとも嘘はない。
「いや、駄目だ」
三浦は自分で首を振った。
「漫画の天然キャラがやるやつだ」
念のため、スマートフォンで「普通の服装」と検索した。
清潔感のあるシンプルなデザイン。
体に合ったサイズ感。
違和感を与えないベーシックなアイテム。
「だから、それは何なんだよ」
書かれていることは分かる。
だが、具体的に何を着ればよいのかは分からない。
迷った末、三浦は箪笥の前に立ち、目を閉じて上着とズボンを1枚ずつ引っ張り出した。
無地の白いTシャツと、色落ちしたジーンズだった。
昨日とほとんど変わらない。
「1時間悩んで、いつもどおりかよ」
三浦は鏡を見た。
髪も普段のまま。
髭だけは、いつもより丁寧に剃った。
部屋の掃除は前日のうちに済ませている。床には余計な物を置かず、布団も押し入れへ入れた。壁には、これまでの勉強会で使った模造紙が貼られている。
直接民主制。
熟議民主主義。
アイルランド。
スイス。
国民の拒否権。
困りごとを町に伝える。
間違ったら、みんなで直す。
あまりに政治の勉強をしていることを見せつけているようにも思えたが、今さら剥がせば、隠しているようで不自然だった。
「普通、普通」
三浦はもう一度つぶやいた。
そのとき、窓の外に車が止まった。
カーテンの隙間から見ると、グリフの車だった。
助手席から、年配の男が降りてくる。
あれが久保だろう。
三浦は勝手に、久保を昔の政治家のような人物だと想像していた。
白い髭を生やし、つばのある帽子をかぶり、立派なステッキを持っている。歩くたびに周囲の人間が頭を下げる。
だが、車から降りてきた男は、どこにでもいそうな老人だった。
黒いジャンパーに灰色のズボン。髪は白いが、背筋は伸びている。ステッキも帽子もなかった。
そのまま近所のスーパーで買い物をしていても、誰も政治関係者とは思わないだろう。
グリフは久保を車から降ろすと、少し離れた駐車場へ車を置きに行った。
久保はアパートを見上げ、2階の部屋を確認している。
「普通のおじいちゃんじゃないか」
三浦は小声で言った。
もっとも、自分も今、普通の中年男に見えるはずだった。
しばらくしてグリフが戻り、2人で外階段を上ってきた。
呼び鈴が鳴った。
*
三浦は一度深く息を吸い、玄関の扉を開けた。
舞台の袖から、照明の下へ踏み出す瞬間に似ていた。
2人の顔を見た途端、身体が自動的に動いた。
背筋が伸び、口元に笑みが浮かぶ。
「三浦です。本日は、お忙しいところありがとうございます」
久保へ頭を下げる。
「狭いところですが、どうぞ」
「お邪魔します」
久保は靴を脱ぎながら、短く答えた。
三浦は2人を座布団のある場所へ案内した。
「飲み物は何がよろしいですか。お茶、ジュース、ビールもあります」
「お茶をいただけるかな」
「はい。少々お待ちください」
三浦は台所へ移動した。
湯飲みを用意していると、背後から久保の声が聞こえた。
「グリフ」
「はい」
「普通なんだけど」
続いて、グリフの押し殺した笑い声がした。
「ですね」
「何だと思ってたんだ?」
「もしかしたら、芸人時代の衣装で出てくるかもしれないと思いまして」
「お前、私に車の中で、奇抜な格好でも無理に笑ってくれと言ってただろ」
「一応、心の準備をしてもらおうかと」
三浦は湯飲みを持ったまま、しばらく動きを止めた。
自分も数10分前まで、芸人時代の衣装を着ようとしていた。
危なかった。
「聞こえてるぞ」
三浦が台所から言った。
「聞こえるように話したんだ」
グリフが答える。
「やっぱり衣装のほうがよかったですか?」
「いや、それだったら帰ってたかもしれない」
久保が真顔で答えた。
三浦は、それが冗談なのか判断できなかった。
*
お茶を出して間もなく、上村も到着した。
「遅くなりました」
「お前が上村か」
「はい。高校時代から三浦を知っています」
「それは貴重な人材だな」
「本人のためにならない話なら、いくらでもできます」
「おい」
三浦が睨む。
「今日はいい。必要になったら聞く」
「必要にならないでください」
三浦は久保の正面へ座り、改めて自己紹介を始めた。
岩手県内の農家に生まれたこと。
大学進学を機に東京へ出たが、中退したこと。
アルバイトで金をため、お笑いの養成所へ入ったこと。
相方の真壁と《ポコぽんた》を結成し、一時期はテレビへも出演したこと。
話しながら、三浦は久保の反応を探った。
しかし久保は、ほとんど表情を変えない。
内容よりも、三浦の声や話し方を見ているようだった。
声量が大きすぎないか。
言葉が聞き取りやすいか。
話の途中で視線をそらさないか。
手を動かしすぎないか。
笑顔が自然か、作っているのか。
三浦は舞台上で客の反応を読むことには慣れていたが、目の前の1人から採点されているような感覚は久しぶりだった。
一通り話し終わると、久保が言った。
「芸人をしていた頃の映像はあるか?」
「あります」
「見せてくれ」
三浦はノートパソコンを持ってきた。
過去の映像を保存したフォルダを開き、比較的出来のよかった漫才を選ぶ。
画面の中では、派手な髪形をした三浦が、酔っ払いの男を演じていた。
真壁が冷たい目で見つめる。
『何を言ってるんですか』
『俺だって、馬鹿じゃない』
右手を頭に置き、間を取る。
白目をむきながら、手のひらを前へ出す。
『いや、馬鹿だろ』
久保が声を上げて笑った。
「これは面白いな」
その後も、三浦が別の場面を見せるたび、久保は何度か笑った。
愛想笑いではない。
面白いところでは声を出し、弱いところでは無反応だった。
三浦にとって、政治の相談に来た相手に昔の芸を見せている状況は不思議だったが、笑ってもらえるのはやはりうれしかった。
「こっちの人は、今、何をしてる?」
久保が画面の中の真壁を指さした。
「相方の真壁です。もう芸能界を辞めました」
「コンビも解散したのか」
「はい」
「そうか。もったいないな」
久保は画面を見たまま言った。
「私は面白いと思うがな」
「ありがとうございます」
三浦は素直に頭を下げた。
だが、その直後、不安が湧いた。
――政治家になるより、芸人を続けろという意味か。
政治家を諦めさせるために、芸人としての可能性を褒めているのではないか。
しかし、久保はニコニコしながら次の映像を選ぼうとしている。
本当に、純粋にもったいないと思っているだけなのかもしれない。
「久保さん」
グリフが声をかけた。
「そろそろ、本題に戻りませんか」
「もう1本くらいいいだろ」
「今日は三浦の芸人復帰を相談する日じゃありません」
「分かっている」
久保は名残惜しそうにパソコンを閉じた。
「それで、久保さん」
グリフが尋ねる。
「三浦が政治家を目指すにあたって、どこかの政党関係者へつないでもらえそうですか?」
久保は腕を組んだ。
「そうだな」
しばらく考える。
「1人、話を聞いてくれそうな人間を知っている」
三浦は姿勢を正した。
「本当ですか」
「ああ。来週くらいに会ってみるか」
「ありがとうございます」
三浦とグリフは、ほとんど同時に頭を下げた。
「ただし、最初は私とグリフだけで会う」
三浦の顔が少し曇った。
「俺は行かないんですか?」
「本人がいると言いづらいこともある」
「言いづらいこと?」
「知名度はどの程度か。過去に問題を起こしていないか。候補者として使い道があるか。金はあるか。党の方針に従えるか」
久保は淡々と挙げた。
「目の前に本人がいれば、相手も本音を言いにくい」
「なるほど」
三浦は残念だったが、納得するしかなかった。
まずは、話を聞いてもらえる可能性が生まれただけでも大きい。
*
「ところで」
久保は三浦へ身体を向けた。
「看板にするという直接民主制や、熟議民主主義について、君の言葉で説明してくれないか」
「はい」
三浦はすぐにノートを開いた。
「ノートは見るな」
久保が言った。
三浦の手が止まる。
「見ないで、ですか」
「自分の看板にするなら、何も見ずに話せるだろう」
「分かりました」
三浦はノートを閉じた。
一度息を整え、グリフから教わった内容を思い出す。
「直接民主制というのは、選挙で代表者を選ぶだけではなく、国民や住民が政策について直接投票する制度です。例えば、スイスには国民発議とレファレンダムがあって、国民が憲法改正を提案したり、議会が決めた法律に対して――」
途中で、久保の表情がわずかに曇った。
三浦は焦り、説明を足した。
「それだけだと、感情的な多数決になる可能性があるので、熟議民主主義を組み合わせます。無作為抽出された市民が、専門家や当事者の話を聞いて、十分な情報を得たうえで――」
三浦自身、話しながら、だんだん文章がややこしくなっていることに気づいた。
それでも途中で止められず、アイルランドの市民会議、スイスのレファレンダム、国民発議、倉沢モデルについて一通り説明した。
話し終えると、久保は唸った。
「うーん」
三浦の背中に汗が浮かぶ。
「熱意があるのは伝わってくる」
「はい」
「だが、ややこしいな」
三浦は肩を落とした。
「やっぱりですか」
「政治に興味のない人間なら、途中で分からなくなる」
「だったら、もっと短い説明があります」
三浦は顔を上げた。
「倉沢モデルを、普通の町民がすることだけに絞りました」
「聞かせてくれ」
三浦は壁の模造紙を見ず、自分の言葉で話した。
「一つ目。困りごとを町に伝える」
指を1本立てる。
「2つ目。選ばれた町民が、いろんな人の話を聞いて、みんなで考える」
2本目。
「3つ目。できた案を、町民みんなで投票する」
3本目。
「4つ目。決めたあとも、うまくいったか確かめる。間違っていたら、みんなで直す」
久保はゆっくりとうなずいた。
「なるほど」
三浦は、少し安心した。
「これなら、かなり分かりやすい」
「ありがとうございます」
「ただ、それは倉沢モデルの説明なんだろう?」
「はい」
「国の政治でも、そのまま同じ方法を使うのか?」
三浦は言葉に詰まった。
「いえ、そこは、まだ決まっていなくて」
グリフが補足した。
「倉沢のやり方を、そのまま国へ持っていくのは無理があると思っています。市民会議をどう国政につなげるのか、国民発議や国民投票をどの範囲で認めるのか。今は検討している段階です」
「なるほど」
久保はグリフと三浦を交互に見た。
「まだ政策として完成したわけではないが、方向は見えているということだな」
「はい」
「面白いと思う」
三浦の表情が明るくなった。
久保はその変化を見ながら続けた。
「これまで、芸能人やスポーツ選手など、いわゆるタレント候補が国会議員になった例は何度もある」
三浦は黙って聞く。
「そういう候補者は、細かな政策より、その人物自身が売りになることが多かった。知名度、経歴、親しみやすさ、既成政治に染まっていない印象。政党にとっては、票を集められることが重要だからな」
「もちろん、例外はありますよね」
グリフが言った。
久保がグリフを睨んだ。
「だから、全員とは言っていない。話の腰を折るな」
「補足しただけです」
「そういうところだぞ、グリフ」
三浦は思わず笑った。
久保は話を戻した。
*
「三浦君。申し訳ないが、今の君は、タレント候補としては知名度が弱い」
「はい」
三浦は正直にうなずいた。
「昔テレビに出ていたことはある。しかし、名前だけで投票してもらえるほどではない」
「分かっています」
「そこで、直接民主制や熟議民主主義という、ほかの候補者にはない主張を加える。知名度の不足を、政策の珍しさで補う」
久保は指先でテーブルを軽く叩いた。
「戦略としては理解できる」
「本当ですか」
「ただし、その主張は、おそらく賛否が分かれる」
三浦の笑顔が少し消えた。
「プラスに働くとは限らないということですか」
「当然だ。政治家の力を国民へ戻す制度だと好意的に受け取る人もいる。一方で、国民投票ばかりでは政治が混乱する、人気取りに使われる、少数者の権利が危険になると批判する人もいる」
「はい」
「もっと単純な問題もある」
「何ですか?」
「芸人の三浦が好きだから、投票しようと思っていた人間がいたとする」
久保は三浦の顔を指さした。
「その人は、君に政策など求めていないかもしれない。“政界に新しい風を”“普通の感覚を国会へ”くらい言って、明るく手を振っていれば票を入れようと思っていた」
三浦には、その姿が想像できた。
「ところが君が、直接民主制だ、熟議民主主義だと言い始める」
久保はわざと難しそうな顔をした。
「すると、“何だ。こいつも難しいことを言う政治家になったのか”“もう政治に染まっているじゃないか”と離れる人が出るかもしれない」
「そんなことで?」
「そんなことで票は動く」
久保は即答した。
「政治に強い関心を持たない人ほど、政策の細部ではなく、印象で選ぶ。君の主張が、芸人としての親しみやすさを壊す可能性もある」
三浦は少し考えた。
「じゃあ、直接民主制のことは言わないほうがいいですか?」
「それは分からん」
「分からないんですか」
「私は今、答えを教えているんじゃない。君がどちらを選ぶ人間か見ている」
久保は三浦をまっすぐ見た。
「これから活動を続ければ、“君個人は好きだが、その政策は嫌いだ”と言われることがある」
三浦は黙った。
「政党から、“その主張を引っ込めるなら候補にしてもよい”と言われるかもしれない」
部屋の空気が、少し重くなった。
「そのとき、君はその主張を捨てられるか?」
三浦はすぐには答えなかった。
これは試されている。
そう思った。
――捨てません。
そう答えるのが正解だろうか。
信念を貫く人間として評価されるかもしれない。
だが、政治とは妥協するものだとも聞く。
――必要なら捨てます。
そう答えれば、現実的な人間だと思われる可能性もある。
しかし、それでは、ただ国会議員になりたいだけだと思われる。
「三浦君」
「今、考えています」
「考えていることは顔を見れば分かる」
久保は急かさなかった。
三浦は、グリフから話を聞き始めた頃を思い出した。
最初は、倉沢モデルを国でやれば目立つと思った。
国会議員になるための、珍しい看板が欲しかった。
直接民主制そのものに、強い思いがあったわけではない。
だが、アイルランドの市民会議を知った。
スイスの国民発議とレファレンダムを知った。
倉沢では、普通の町民が話し合い、投票し、結果が間違っていれば見直している。
政治家に全部任せるのでもない。
国民が何も知らないまま、多数決だけで決めるのでもない。
三浦は、少しずつ、その考え方が好きになっていた。
「正直に言います」
「うん」
「最初は、手段でした」
三浦は言った。
「元芸人の俺が国会議員を目指すなら、何か目立つものが必要だと思った。倉沢の住民投票を国レベルでやると言えば、珍しいし、テレビにも取り上げられるかもしれない。そう考えました」
久保は黙っている。
「でも、グリフから話を聞いているうちに、このやり方が好きになってきたんです」
「好き?」
「はい」
三浦は言葉を探した。
「俺の推しです」
「推し?」
グリフが口を挟みかけた。
「久保さん、“推し”というのは――」
「それくらい知っている。年寄り扱いするな」
グリフは少し不満そうな顔をした。
親切で説明しようとしたのだろう。
その顔を見た途端、三浦はなぜかうれしくなった。
「そういうところだぞ、グリフ」
「何がだよ」
「話の腰を折るな」
「お前が言うな」
久保が小さく笑った。




