答えのない勉強会
次の勉強会で、三浦は宿題のノートを2人の前へ差し出した。
スイスの3つの制度を、アパートの住民会に置き換えて説明したものだった。
ペット禁止という基本規則を変えたい住民が、一定数の署名を集めて投票を求める。これが国民発議。
住民会の役員が駐車場料金の値上げを決めたあと、住民が署名を集めて全員の投票を求める。これが任意的レファレンダム。
アパートを取り壊して全員が移転するような重大な問題は、反対署名がなくても必ず住民全員に聞く。これが義務的レファレンダム。
グリフはノートを読み終えると、小さくつぶやいた。
「なるほど」
三浦は、その一言を聞き逃さなかった。
「何だよ。その“なるほど”は」
「いや、ちゃんと考えてきたんだなと思って」
「最初から、ちゃんと考えてるよ」
「アパートの規則と国の憲法を同じように扱うのは、少し乱暴だけどな」
「ほら、すぐそうやって細かいところを言う」
「でも、3つの違いは分かりやすい」
「今、褒めたよな?」
「分かりやすいとは言った」
「上村、聞いたか?」
「聞いた。グリフにしては、かなり褒めてるぞ」
「お前ら、俺を何だと思ってるんだ」
グリフは呆れながらも、もう一度三浦のノートを見た。
三浦の説明は正確ではない。
実際のスイスでは、国民発議の対象や、国民投票へ至る手続きはもっと複雑である。アパートの住民会と国家の制度を同じように扱えば、誤解も生じる。
しかし、制度を初めて聞く人間に、3つの違いをイメージさせるという目的には十分だった。
「問題点のほうは?」
グリフが尋ねた。
三浦は別のページを開いた。
「直接民主制になっても、みんなが自分で考えるとは限らない」
「どういうことだ?」
「投票が多すぎたら、面倒になって説明を読まなくなるだろ。結局、自分が好きな政党とか、テレビに出てる人とか、ネットで声の大きい人の言うとおりに投票する」
「それはあり得るな」
「それに、普通の人は関心のない投票には行かない。でも、絶対に通したいやつや、絶対に止めたいやつは必ず行く」
三浦は自分を指さした。
「俺みたいに、人前で話すのが得意な人間や、組織を持ってる連中が強くなるかもしれない」
上村が笑った。
「自分で声の大きいやつだと認めてるのか」
「俺は自分を客観的に見られる男だからな」
「その言い方が、すでに客観的じゃない」
三浦は気にせず続けた。
「だから、国民が直接決めれば全部うまくいくわけじゃない。投票の前に、賛成と反対の話を同じように聞ける仕組みが必要だと思った」
「そこでアイルランドの市民会議か」
グリフが言った。
「ああ。スイスの決める仕組みと、アイルランドの考える仕組みを合わせる」
「倉沢でやってることに戻ってきたな」
「自分で考えてみて、やっと分かったよ。グリフが面倒な仕組みをたくさん付けた理由が」
「面倒な仕組みと言うな」
「実際、面倒だろ」
「面倒だけど、必要だからやってるんだ」
「だから、それが少し分かったと言ってるんだよ」
グリフは黙った。
最初の頃なら、三浦の説明の不正確な部分を一つずつ指摘しただろう。
しかし、三浦の考え方や、その良さが、少しずつ分かってきていた。
グリフと同じように考えさせる必要はない。
むしろ、同じように考えるよう矯正すれば、三浦の持ち味を消してしまうかもしれない。
制度を正確に作る人間は必要である。
だが、その制度を普通の人へ伝える人間も必要だった。
三浦までグリフと同じ言葉で話せば、政治に関心のある一部の人間にしか届かない。無名の元芸人が、政治学者や官僚のような説明を始めても、世間の中に埋もれてしまうだけだろう。
どうせ、正攻法だけで三浦が国会議員へ届く可能性は低い。
今から政治家としての経歴を積み、地方議員を何期か務め、政党の中で実績をつくる。
その道を進んだとしても、一生を費やして国会へ届くかどうか分からない。
それなら、三浦にしかできないやり方を探すほうがよい。
*
「グリフ、どうした?」
三浦が尋ねた。
「いや。問題点も、それでいいと思う」
「また褒めた」
「ただし、“賛成と反対を同じように聞く”だけでは不十分な場合もある」
「やっぱり始まった」
「そこは今後勉強すればいい。今は、自分で問題を考えたことのほうが大事だ」
三浦は満足そうにうなずいた。
上村が2人を見比べる。
「お前ら、だいぶ先生と生徒っぽくなってきたな」
「俺は先生じゃない」
「じゃあ、政策担当?」
三浦が言った。
「勝手に役職を決めるな」
*
直接民主制については、ほかにも調べるべき国があった。
イタリアでは、一定数の署名によって法律を国民投票で廃止できる制度が使われてきた。アメリカの一部の州では、住民発議や住民投票が盛んに行われている。台湾でも、市民参加やデジタル技術を取り入れた政治的な試みが進んでいた。
しかしグリフは、三浦に説明する外国の例を、アイルランドとスイスの2つにとどめることにした。
制度の事例を増やせば増やすほど、三浦の頭の中で違いが混ざる可能性がある。
何より、外国の制度を知ることそのものが目的ではない。
アイルランドからは、普通の市民が情報を得て話し合う仕組みを学ぶ。
スイスからは、国民が政治へ提案し、議会の決定を止め、最後に直接決める仕組みを学ぶ。
その2つを理解できれば、倉沢モデルが何を目指しているのかも説明できる。
「外国の例は、いったんここまでにする」
グリフが言った。
「ほかの国はやらないのか?」
「必要になったら調べる。今のお前に10か国分説明しても混乱するだろ」
「俺を馬鹿にしてるな」
「スイスとアイルランドを混同しなくなってから言え」
三浦は何か言い返そうとしたが、上村に先を越された。
「グリフの言うとおりだ。俺もそろそろ混ざってきた」
「お前まで分からなくなってるのかよ」
「俺は見学者だからいいんだ」
「よくないだろ」
「次からは、日本の政治課題をやる」
グリフが話を戻した。
三浦が少し嫌そうな顔をする。
「また難しくなるのか?」
「国会議員を目指すんだろ。直接民主制のことしか知りませんでは困る」
「看板政策が1個あればいいんじゃないのか?」
「記者に年金について聞かれたらどうする?」
「専門家に聞きます」
「外国人政策は?」
「グリフに聞きます」
「安全保障は?」
「よく話し合います」
「それで国会議員になれると思うか?」
「……ならないな」
三浦は素直に認めた。
グリフは用意してきた紙をテーブルへ置いた。
「今の日本が抱えている問題は、いくらでもある。ただ、最初から全部やろうとしても無理だから、大きく5つに絞る」
三浦がノートを開く。
グリフは一つずつ読み上げた。
「一つ目。人口減少と少子高齢化」
「子供が減って、年寄りが増える」
三浦が言い換える。
「そうだ。ただ、それだけじゃない。働く人も減る。町や村を維持できなくなる。病院や介護を支える人も足りなくなる」
三浦は書き込んだ。
「2つ目。経済成長と財政」
「景気と国の借金か?」
「それだけではない。賃金、物価、税金、社会保障、企業の成長、地方の産業。国民の暮らしをどう支え、その金をどう用意するかだ」
「急に範囲が広くなったな」
「だから一つずつやる」
「3つ目。外国人の受け入れ」
三浦のペンが止まった。
「働きに来る外国人の話?」
「労働者だけじゃない。留学生、難民、国際結婚で来る人もいる。人口が減る中で受け入れを増やすのか。増やすなら、言葉、教育、医療、地域との関係をどうするのか」
「受け入れるか、追い返すかの2択じゃない」
「そうだ」
グリフは続けた。
「4つ目。安全保障と外交」
「国を守る話だな」
「軍備を増やすかどうかだけじゃない。どの国と協力するか。戦争へ巻き込まれないために何をするか。攻撃を受けたとき、どう国民を守るか」
「難しそうだな」
「難しいよ」
「先生にも答えはあるのか?」
「ない」
三浦が顔を上げた。
「ないのかよ」
「簡単な答えがあるなら、もう解決してる。俺も一緒に考える」
「それなら少し安心した」
「何で?」
「グリフが正解を全部知ってて、それを覚えろと言われるのかと思ってた」
「そんな勉強会じゃない」
グリフは最後の項目を読み上げた。
「5つ目。エネルギーと食料安全保障」
「電気と食べ物?」
「そうだ。電気や燃料を、どこから安定して手に入れるか。食料を国内でどこまで作るか。海外から入らなくなったときに、どれくらい耐えられるか」
「去年の米不足も入るか」
「入る。異常気象、戦争、輸入価格の上昇、農家の減少。食料は、店の棚に並んでいて当然というものじゃない」
三浦は5つの項目を眺めた。
どれも言葉が硬かった。
「これ、このまま人に言っても分かりづらいな」
「そう思って、言い換えも考えた」
グリフは別の紙を出した。
「一つ目。人口が減ること」
「分かりやすい」
「2つ目。暮らしと財政を支えること」
「財政がまだ硬い」
「国や自治体のお金のことだ」
「じゃあ、“暮らしと国のお金を支える”では?」
「国だけじゃないし、少し意味が違う」
「また正確さが始まった」
上村が笑った。
「続けろよ」
グリフは3つ目を読んだ。
「外国人と共に暮らすこと」
三浦がうなずく。
「これはいいな」
「4つ目。国を守り、戦争を避けること」
「これも分かる」
「5つ目。エネルギーと食料を確保すること」
「次回から、これを一つずつ扱う」
グリフは言った。
「グリフが教えるのか?」
「まず俺が整理する。そのうえで、お前たちに説明する」
「答えがないのに?」
「だから、説明しながら自分でも考えるんだ」
上村が感心したように言った。
「お前、政治家を辞めてからのほうが勉強してないか?」
「町議のときは、目の前の課題に追われてたからな。国全体の問題を体系的に考える時間はなかった」
「じゃあ、グリフにも勉強会なんだな」
三浦が言う。
「そう思っていい」
「俺だけ試されてるんじゃないなら、やる気が出てきた」
「お前は、お前で試すけどな」
「やっぱりか」
*
その日の勉強が一段落すると、三浦はノートを閉じなかった。
次のページを開き、少し姿勢を正した。
グリフは、その様子を見て、別の話が始まることを察した。
「それでさ」
三浦が言った。
「そろそろ、どうすれば俺が政治家になれるかを話したいんだけど」
「やっぱり来たか」
「何だよ。その反応」
「そろそろ言い出すと思ってた」
三浦は不満そうだったが、グリフは意外には思わなかった。
勉強を始めてから、まだそれほど長くはない。
しかし、三浦にとって勉強は、政治家になるための手段である。目的へ近づいている実感がなければ、やる気を保つのは難しいだろう。
「俺も聞きたい」
上村が身を乗り出した。
「政策の話より、こっちのほうが面白そうだ」
「お前は何のために勉強会へ来てるんだ」
「三浦がどうやって国会議員になろうとするのか、見届けるため」
「応援じゃないのか?」
「半分は見物だ」
「正直すぎるだろ」
グリフは三浦へ尋ねた。
「お前は、どうしたいんだ?」
「できれば新しい政党を作りたい」
「やっぱり、そこからか」
三浦は自分の構想を話した。
直接民主制を看板にした新しい政党を作る。
自分が代表になり、グリフが政策を担当する。上村には地元や支援者をまとめてもらう。
法律に詳しい弁護士や、医療政策を担当する医師、経済に詳しい大学教授にも加わってもらう。
「俺が記者会見の真ん中に座る」
「そこが一番大事なのか?」
グリフが尋ねる。
「代表だからな」
「誰が、お前を代表に選んだ?」
「立ち上げた人間が代表でいいだろ」
「グリフが考えた倉沢モデルを使うんだぞ」
上村が言った。
「発案は俺だよ。国でやろうと言ったのは俺だから」
「お前ら、まだ何も始めてないからな」
グリフが釘を刺した。
三浦は気にせず続けた。
「もちろん、俺は偉そうにはしない。専門家にはきちんと頭を下げる。グリフや上村にも、命令じゃなくてお願いする」
「でも、立場は上なんだろ?」
上村が尋ねた。
「党首だから、最後は俺が決める」
「一番面倒な上司になるやつだな」
「偉そうにしないと言ってるだろ」
「丁寧な言葉で無茶を言う上司が、一番断りづらいんだよ」
グリフは2人の言い合いを止めた。
「結論から言えば、今すぐ新党を作るのは無理だ」
三浦の顔が曇った。




