第2話:大航海と幻の珍味「蘇」の復活
第2話:大航海と幻の珍味「蘇」の復活
慶長17年(1612年)秋。
東北の三陸沿岸、九州の薩摩、そして瀬戸内の秘密ドックで建造が進められていたガレオン船のうち、先行して完成した10隻の大型南蛮船が、極秘裏に肥前国平戸の沖合に集結していた。
黒塗りの船体に立ち上がる幾重もの帆、側胴から覗く重厚な大砲。
デッキには、秀頼の資金によって借金を帳消しにしてもらい、命を拾ったポルトガル人・スペイン人の熟練航海士たちが、日本の水夫たちに操舵や天体観測の手ほどきをしている姿があった。
「いいか! 目指すは欧州(EU)本国、そして途中のアフリカやインドの港だ! 豊臣の紋章を掲げ、直接貿易を果たすのだ!」
秀頼の命を受けた船団は、黒潮を捉え、大海原へと船出した。
家康率いる徳川幕府が「幕藩体制」の確立と「鎖国」への助走を開始しようとしていたまさにその裏で、豊臣家はすでに世界を相手にした大航海時代へ足を踏み入れていたのである。
海外からの「宝物」とチーズの誕生
航海に出ることおよそ2年。
数々の荒波と海賊の難所を越え、10隻の船団は奇跡的に1隻の脱落もなく、満載の荷を積んで日本へと帰還を果たした。
積荷のメインは金銀財宝やヨーロッパの最新式鉄砲だけではない。
現代人である秀頼が最も命じたのは、「各地の農作物の種」と「その栽培・加工技術」、そして「畜産技術」であった。
「若君! ご命じの通り、アフリカや南蛮、アジア各地より『ジャガイモ』『トウモロコシ』『カボチャ』『トマト』の種、そして珍しい果樹の苗木を持ち帰りました!」
「でかした! すぐに仙台の伊達、薩摩の島津、そして四国・中国の外様大名たちに配れ。栽培方法も伝授し、領内の飢饉に備えさせよ!」
秀頼はこれらの新大陸・海外作物を外様大名たちの領地へ惜しみなく与えた。
「豊臣の若君から送られたこの種は、痩せた土地でも大量に実る夢の作物だ」と、各大名の領民と知行は急速に潤い、大名たちの秀頼に対する忠誠心は決定的なものとなった。
そして、秀頼にはもう一つ、最大の「切り札」があった。
持ち帰らせた欧州の乳牛と、南蛮人の技師から学ばせた「チーズ(酪農)の製法」である。
大坂城の奥深く、極秘に作られた工房で、フレッシュな牛乳が温められ、固められ、熟成されていく。出来上がったのは、芳醇な香りと濃密なコクを持つ、極上のナチュラルチーズであった。
「……ふむ、完璧だ。これなら『あれ』として通用する」
秀頼はフッと口元をほころばせた。
京都御所:伝説の「蘇」を自ら献上
慶長19年(1614年)春。
京都の街は、大坂からやってきた豊臣秀頼の豪華絢爛な行列に沸き立っていた。
秀頼は自ら京都御所へ参内し、後水尾天皇および公家・貴族たちとの謁見の場に臨んだ。
「右大臣・豊臣秀頼にございます。本日は、朝廷の繁栄と帝のお健やかさを祈念し、我が豊臣家が総力を挙げて復活させました『古代の珍味』を献上いたしたく参上いたしました」
恭しく差し出された三方の上には、黄金色に輝く、見たこともない滑らかな塊が鎮座していた。
「……秀頼、これは何であるか?」
後水尾天皇が興味深そうに尋ねる。
「はい。平安の昔、皇室や貴族の方々のみが味わうことを許されながら、いつしか製法が途絶えて久しい伝説の乳製品——『蘇』にございます」
公家たちがどよめいた。
「なに……!? 文献の中だけに名をとどめる、あの『蘇』であるか!?」
「醍醐の味の元となったという、あの幻の珍味……!」
秀頼が提示したチーズは、古代日本の乳製品「蘇」の正統な進化形として差し出されたのだ。
切り分けられた熟成チーズが、天皇と公家たちの口へと運ばれる。
次の瞬間、御所の中に感嘆の溜息が漏れた。
「んん……! な、なんだこの濃密な味わいは……! 舌の上でとろけるようなコクと香ばしさ……!」
「う、うますぎる……! これが古代の帝が食しておられた『蘇』の真の姿か……!」
甘みと塩気、そして深い旨味が一体となったチーズの味に、日常の質素な食生活に耐えていた公家たちは一発でノックアウトされた。
「秀頼……余は感動したぞ。失われた我が朝廷の文化を、そなたがこうして見事に復活させてくれたとは……!」
後水尾天皇は大喜びであった。
勅許獲得と「禁中並公家諸法度」の骨抜き
秀頼は畳み掛けるように、本題へと切り込んだ。
「帝、ならびに諸公卿の皆様。実は我が豊臣家では、南蛮船を率いて海外との直接貿易を行っております。つきましては、『朝廷公認の貿易』として天皇の直許(勅許)を賜りたく存じます」
「南蛮貿易の勅許とな?」
「はい。つきましては……この貿易によって得られました純利益のうち、『一割』を毎年、永久に朝廷へ寄進させていただきたく存じます」
「……な、なんだと!?」
公家たちが目を見開いた。
当時の朝廷は、徳川幕府が制定しようとしていた『禁中並公家諸法度』によって政治権力を奪われ、莫大な財政難に苦しんでいた。御所の修理すらまともにできず、公家たちは貧困にあえいでいたのだ。
そこに、世界を股にかける豊臣の南蛮貿易の「利益の一割」という、想像を絶する巨額の資金が転がり込んでくるというのである。
「秀頼……いや、右大臣! そなたは誠に朝廷の救世主である!」
「徳川などは朝廷を抑圧するばかりで、ロクに金も出さぬというのに……!」
後水尾天皇は即座に南蛮貿易の直許を発布。
さらには、豊臣家と朝廷の絆を盤石なものとするため、皇族の姫君を秀頼の側室として迎え入れることがその場で決定した。
秀頼は朝廷という最強の権威と後ろ楯を手に入れ、獲得した莫大な貿易利益を使って「官位」を次々と買い占めた。豊臣家の官位は徳川家を遥かに凌駕し、政治的・法的に「徳川が豊臣に手を出すこと(大坂の陣)が不可能な状態」を作り上げたのである。
【徳川家康側の反応:駿府城の悶絶】
「なにィィィッ!? 秀頼が帝に『蘇』を献上し、貿易の勅許を得ただとぉ!?」
駿府城で報告を受けた家康は、激怒のあまり持っていた箸をへし折った。
「は、はい……しかも『利益の一割を朝廷に寄進する』と約束し、公家たちは『豊臣様こそ真の忠臣、徳川は朝廷を苦しめる貧乏武士』と大絶賛しております……!」
「ぐぬぬぬ……またしても金か! 豊臣め、どこにそんな莫大な金と南蛮船があったのだ!」
怒り狂う家康であったが、さらなる追い打ちが彼を襲う。
当時、健康オタクであった家康は、長寿のために「玄米や麦飯を食べ、酒は純度の高い高級な澄み酒(清酒)を避け、濁り酒や質素なものを好む」という徹底した食生活を送っていた。
しかし、この質素な食生活が、秀頼の流した噂と結びついて世間に広まってしまったのだ。
京・江戸の町人たちの噂話
「なあ、知ってるか? 駿府の大御所様(家康)の普段の食生活」
「へえ、天下様だから毎日豪華な尾頭付きでも食べてるんだろ?」
「それがよ……毎日パサパサの『麦飯』ばっかり食べてて、酒も上等な澄み酒が買えねえから『安い酒』しか飲んでねえんだとよ!」
「マジかよ!? 大御所様、そこまで貧乏なんか!?」
「御所には一銭も出さねえし、自分の飯も麦飯……やっぱり徳川家って、本当に金がないんだなあ。豊臣の若君は帝に『蘇』とかいう凄いご馳走を献上したってのに、かわいそうにねえ……」
「違う! これは健康のためだ! 長生きするための養生訓なのだ!!」
家康は駿府城でそう叫び続けたが、もはや誰一人として信じなかった。
「貧乏だから苦し紛れに言い訳をしている」としか思われなかったのである。
歴史は「大坂の陣」という凄惨な戦争へ向かうことなく、徳川家康の「貧乏疑惑」と「心理的敗北」の中で、静かに次の時代へと動いていくのだった。




