第八話:休日のすみれ荘
土曜日の午前十時。
遮光カーテンの隙間から差し込む眩しい太陽の光が、リビングの古びたフローリングを照らしていた。学校のチャイムも、けたたましい目覚ましの音もない、穏やかな週末の朝。
俺——相沢湊は、いつも通り朝六時に起床し、館内の軽い掃除と洗濯を済ませ、エプロン姿でダイニングのソファに腰掛けていた。
(……静かだ。これこそが、俺が追い求めていた理想の平穏だな)
お気に入りの文庫本を開き、淹れたてのコーヒーを一口すする。
だが、元・天才フィクサーとしての俺の直感が、背後から近づいてくる「極めて締まりのない、しかし巨大な気配」を察知した。
ズサ……ズサ……、と床を引きずるような足音。
振り返ると、そこにいたのは、学校でのあの気高き「学園のアイドル」の面影をナノレベルすら残していない、完全な『廃人』と化した九条凛だった。
「おはよ……相沢くん……みず……水分をちょうだい……」
着ているのは、もはやお馴染みとなった膝の抜けた芋ジャージ。しかし今日はそれに加え、頭に巨大な「猫耳付きの着る毛布」をフードのように深く被っている。髪は完全に鳥の巣状態で、眼鏡は相変わらずセロハンテープで補強されたままだ。
彼女はゾンビのように両手を彷徨わせながら、俺の目の前のテーブルへと倒れ込んできた。
「おい、九条さん。一応まだ午前中だぞ。何だその、金曜日の夜を三回くらい徹夜で越してきたような顔は」
「昨日、新作のオープンワールドRPGが発売されたのよ……。共犯者であるあなたに免じて、皿洗いを免除してもらったアドバンテージを全て、深夜のレベリングに注ぎ込んだわ。……今の私は、レベル45の凄腕暗殺者よ。でも、現実世界の肉体は飢餓状態よ……」
九条さんはテーブルに頬を押し付けたまま、恨めしそうな目で俺を見上げてくる。
どうやら、学校で完璧な美少女を演じるための反動が、週末になると限界突破して「超絶ズボラ・廃人ゲーマー」として出力されるらしい。
「はいはい。レベル45の暗殺者様、まずは水を飲め」
俺が冷えた炭酸水をコップに注いで差し出すと、彼女は両手でそれを掴み、ゴクゴクと勢いよく飲み干した。ぷはっ、と小さく息を吐き、ようやく人心地ついたような顔になる。
「生き返ったわ……。ねえ、相沢くん。お腹空いた。今日の朝昼兼用のご飯は何? 私はお肉がいいわ。できれば、ガツンとニンニクが効いてて、でもお肌に悪くないやつ」
「注文が多いな、お嬢様。……まあ、冷蔵庫の整理を兼ねて、何か作ってやるよ」
俺が苦笑しながら立ち上がると、ダイニングのドアが静かに開き、羽鳥栞が姿を現した。彼女は休日らしく、シックな黒のノースリーブワンピースにカーディガンを羽織っている。手には相変わらずの取材ノートだ。
「あら、おはよう、相沢くん。そして……おはようございます、すみれ荘の『野生のUMA(未確認生命体)』」
「誰がUMAよ、羽鳥さん! 私はただ、休日のリラクゼーションスタイルを極めているだけよ!」
九条さんが着る毛布のフードを揺らしながら抗議するが、栞は冷淡な瞳のまま、サラサラとペンを走らせる。
「(……なるほど。『週前半のストレスをゲームという仮想現実で発散した偶像は、土曜日の朝、言語能力を失った野生動物へと退行する。猫耳のフードは、彼女の微かな幼児性の表れ』……素晴らしい休日描写だわ。執筆が進むわね)」
「だから! 私をモデルにして変な小説のプロットを組むのはやめてってば!」
朝から繰り広げられる、美少女二人の噛み合わない応酬。俺はそれをBGM代わりに、キッチンのコンロに火をつけた。
今日の冷蔵庫には、昨日のチャーハンで使い切れなかった鶏モモ肉と、少し古くなったトマト、そして玉ねぎがある。
俺は元フィクサーとしての「無駄のないナイフ捌き」を応用し、一瞬で玉ねぎをみじん切りにし、鶏肉を一口大にカットしていく。
フライパンで鶏肉の皮目をパリッと焼き上げ、ニンニクの香りを移したトマトソースでじっくりと煮込んでいく。
コトコトと小気味良い音が響き、キッチンからイタリアンの名店さながらの、濃厚なトマトとハーブの香りがリビングいっぱいに広がった。
「うわぁ……何これ、めちゃくちゃ良い匂い……」
九条さんが匂いに釣られて、着る毛布を引きずりながらキッチンのカウンターまで這い寄ってきた。カウンターの縁から目を輝かせて鍋を覗き込む姿は、完全に餌を待つ飼い猫だ。
「相沢くん、これ何て料理?」
「鶏肉のチキントマト煮込み——チキンカチャトーラだ。パセリを散らして、少し粉チーズを振って仕上げる。……ほら、羽鳥も、それと二階でまだ寝てるだろう拓海も呼んでこい」
「一ノ瀬くんなら、もう起きてるよ〜〜ん!」
ガチャン、とダイニングの窓が勢いよく開いた。
驚いて見ると、ベランダ側から、寝癖のついた金髪をなびかせた一ノ瀬拓海が顔を出していた。彼はベランダの手すりを軽々と飛び越え、リビングへと侵入してきた。
「いやー、湊の料理の匂いってさ、二階の部屋までダイレクトに届くんだよね! 胃袋をガシッと掴まれて、星の導きのごとく降りてきちゃったわ!」
「お前は玄関から入れ、玄関から。防犯意識をどこに捨ててきたんだ」
俺が呆れ顔で皿を並べると、拓海はへらへらと笑いながら椅子に座った。
これで、週末の「すみれ荘」に4人の住人が勢揃いしたことになる。
「わあ、美味しそう! いただきます!」
九条さんは待ちきれない様子で、スプーンで鶏肉を口に運んだ。その瞬間、「ほふ、ほふ……んん〜〜っ!」と、本日一番の幸せそうな声を上げて身悶えした。
「美味しい……! お肉がすっごく柔らかくて、トマトの酸味とニンニクのコクが完璧に調和してるわ……! 相沢くん、あなた本当にただの高校生? どこの宮廷料理人よ!」
「ただの掃除係兼、パシリだ。喜んでくれて何よりだがな」
俺が自分の分の皿を持って席に着くと、栞も上品にソースをバゲットに付けながら口にし、小さく感嘆のため息をついた。
「見事ね、相沢くん。この味付けの奥深さ、隠し味に少しだけ白ワインと……醤油を使っているかしら? 日本人の味覚に合わせるための『計算』が感じられるわ」
「さすがだな。少しだけコクを出すために足した」
俺と栞が淡々とプロの会話(?)をしていると、隣でバゲットを口いっぱいに頬張っていた拓海が、ニヤニヤとした視線を俺と九条さんに向けてきた。
「それにしてもさぁ……。こうして見ると、湊と九条さんって、マジで『長年連れ添った夫婦』みたいだよねぇ」
ブッ!!!
九条さんが思いきりトマトソースを吹き出しそうになり、大慌てで口元を押さえた。顔がジャージのエンジ色よりも真っ赤に染まっていく。
「な、ななな何言ってるのよ、一ノ瀬くん! 私と相沢くんが夫婦!? 天変地異が起きてもそんなことあり得ないわよ! 彼はただの私の……その、パシ……じゃなくて、同居人よ!」
「え〜? でも九条さん、学校であんなにツンツンしてるのに、湊の前だと完全に素じゃん? その猫耳の毛布姿とか、俺、クラスの奴らに写真売ったら大儲けできる自信あるわ〜」
「撮ったらそのスマホ、私の十徳ナイフで粉砕するからね!」
九条さんがジャージのポケットを探るが、あいにく休日の着る毛布にはナイフは入っていない。
拓海はそれを見てギャハハと笑い、俺の肩をポンポンと叩いた。
「まあまあ。でもさ、湊。君がこうして九条さんの『裏の顔』を完璧に守ってあげて、胃袋まで掴んでるの、占星術的にも『運命の赤い糸』ってやつが出てんだよねぇ。二人の相性、マジで最高だよ?」
お調子者の拓海による、いつもの「二人の仲を煽るお節介」。
学校でのピンチを救ってやった恩など露知らず、彼は完全に俺たちを面白がっている。
だが、俺は冷徹にその煽りを受け流した。
「拓海。お前、そんなところで油断してると、また『星のデータがバグる』ことになるぞ。昨日の荒木の件だって、お前の運気が下がってた証拠だろ」
その言葉に、拓海が一瞬だけピクリと目を見開いた。
「……あ、やっぱり湊、君、昨日のこと何か知って——」
「一ノ瀬くん」
拓海が追及しようとした瞬間、横から栞が冷ややかな声を被せた。
「余計なお喋りをしてる暇があるなら、早くそのチキンを食べ終えなさい。冷めるとトマトの脂が固まって、相沢くんの『計算』が台無しになるわ。……それとも、私の次作のミステリーで、最初の『被害者(一ノ瀬役)』として名前を載せてほしいかしら?」
「う、ウゲッ……羽鳥さんの呪いの原稿は勘弁してよ……」
栞の無表情な脅迫に、拓海はブルッと身震いし、大人しくチキンを口に運んだ。
俺は、さりげなく俺のフォローをしてくれた栞と視線を合わせ、小さく頷いた。
九条さんはまだ顔を赤くしながらチャーハン……ではなく、チキンを黙々と食べている。
完璧超人のズボラアイドル。毒舌の天才小説家。チャラいカリスマ占い師。
そして、元・天才フィクサーの俺。
全員が何かしらの「裏の顔」を持ち、それを隠しながら、しかし胃袋を通じて少しずつ繋がっていく。
このすみれ荘の歪で騒がしい週末は、俺の予想以上に、心地よい平穏の形をとり始めていた。




