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すみれ荘には普通の人間がいない 〜元・天才フィクサーの平穏な日常は、深夜のキッチンで崩壊する〜  作者: リリリリス
【第一章:秘密を抱えた共犯者たち】

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第九話:午後の微睡みと平穏を脅かす影

賑やかすぎる朝昼兼用のランチが終わり、時計の針が午後二時を回る頃。


 「すみれ荘」のリビングには、先ほどまでの喧騒が嘘のような、穏やかで気怠い空気が流れていた。


「ふぁ……お腹がいっぱいになったら、急に眠気が……」


 ソファの上で、猫耳付きの着る毛布に包まれた九条凛が、大きなあくびを漏らした。


 彼女はスマホを握りしめたまま、ゴロゴロと身体を横たえ、やがて規則正しい小さな寝息を立て始めた。学校でのあの張り詰めたような「完璧な偶像」のオーラは完全に霧散し、今はただの無防備な女子高生の姿がそこにある。


「あーあ、九条さんマジで寝ちゃったよ。本当に警戒心ゼロだよねぇ」


 拓海はそんな九条さんの姿を呆れ半分、面白がり半分で眺めながら、自分のカバンを肩にかけた。


「さてと、俺はこれから夕方のストリート占いの仕込みがあるから、ちょっと出かけてくるわ。湊、今日の夜ご飯も期待してるからね〜!」


 拓海はいつものチャラい調子で手を振ると、今度はちゃんと玄関から(俺の無言の圧力に負けて)出ていった。


 バタン、と重い玄関ドアが閉まり、リビングに残されたのは、俺と、ソファで熟睡する九条さん、そして対面の椅子で静かに文庫本をめくる羽鳥栞の三人だけになった。


 シャカ、シャカ……。 


 俺はキッチンで、4人分の食器を洗う。泡立った洗剤を水で流し、皿を丁寧に拭き上げていく。その規則正しい音だけが、静かな空間に響いていた。


「……相沢くん」


 不意に、背後から声をかけられた。


 振り返ると、栞が本を閉じ、感情の読めない冷徹な瞳で俺を見つめていた。


「何だ、羽鳥。コーヒーの代わりなら、今淹れてやるが」


「いいえ、そうじゃないわ。……少し、あなたと『二人だけ』で話がしたくてね」


 栞はソファで眠る九条さんを一瞥し、さらに声を潜めた。


「昨日の、一ノ瀬くんの件よ。あなたのあの『腕章のスリ』の手際、あれは一朝一夕で身につく技術ではないわ。……かつて裏社会で、あらゆる利害関係を影から調整し、国家規模の破滅さえ防いだと言われる伝説の存在——『フィクサー』。相沢くん、それがあなたの本当の肩書きね?」


 図書室で「元・天才」と言いかけた彼女だったが、今回は確信を持った口調だった。


 俺は手を止めることなく、冷めたトーンで返した。


「小説家というのは、想像力が豊かで羨ましいな。俺はただの、手先が少し器用な高校生だ。お前の言う『フィクサー』なんて大層な人間なら、今頃こんなところで芋ジャージの少女にパシリにされてるわけがないだろ」


「カモフラージュとしては完璧よ。でも、私の目は誤魔化せないわ」


 栞は椅子から立ち上がり、音もなく俺の隣へと歩み寄ってきた。


「私は恋愛小説家として、人間の『本質』を観察し続けてきた。あなたの目……それは、数々の修羅場をくぐり抜け、全てを見通した人間の目よ。……なぜ、それほどの力を持つ人間が、この古びた『すみれ荘』で、ただの掃除係として燻っているの?」


 鋭い追及だった。


 だが、俺の心に動揺はなかった。かつて数多の権力者や犯罪者を相手に張り巡らせたポーカーフェイスが、自然と発動する。


「……平穏、だよ」


 俺は引き出しに皿を仕舞いながら、ぽつりと呟いた。


「裏の世界は、どれだけ完璧に仕事をこなしても、常に次の泥沼が待っている。誰かを救えば、別の誰かから恨まれる。そんな果てのない連鎖に、俺は疲れ果てたんだ。だから、すべてを捨てて、このすみれ荘に来た。ただのモブとして、静かに飯を作り、静かに眠る。それ以上の望みはない」


 俺の本音だった。


 それを聞いた栞は、一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがてフッと柔らかく微笑んだ。


「そう……。本当に、ただの平穏を望んでいるのね。……安心しなさい、相沢くん。私はあなたのその秘密を、誰かに売るつもりはないわ。むしろ、あなたのその『過去』と、現在の『日常』のギャップは、私の次作の素晴らしいスパイスになる」


「結局、ネタにするんじゃないか」


「作家のさがよ。その代わり、私もあなたの平穏を守るために、私の『情報操作』の技術を提供するわ。……私たちは、お互いの目的のために手を取り合う『最高の共犯者』でしょう?」


 栞はそう言って、悪戯っぽくウインクしてみせた。


 毒舌で冷徹な文学少女だと思っていたが、彼女もまた、このすみれ荘の風変わりな居心地の良さを気に入っている一人なのだろう。


 その時だった。


 ——コン、コン、コン。


 玄関のドアを叩く、小さく、しかし妙に重々しい音が響いた。


 拓海が戻ってきたにしては早すぎるし、何より彼は鍵を持っている。


「……誰かしら。宅配便なら、インターホンを鳴らすはずだけど」


 栞が不審そうに眉をひそめる。


 俺は「俺が見てくる」とエプロンを外し、気配を殺しながら玄関へと向かった。


 ドアスコープを覗くが、そこには誰もいない。


 警戒しながらゆっくりとドアを開けると、足元に、一枚の『白い封筒』が落ちていた。


「手紙……?」


 拾い上げて周囲を見渡すが、路地裏には人影一つない。ただ、遠くのビルの隙間から、生ぬるい夕方の風が吹き抜けていくだけだった。


 俺は封筒を持ってリビングへと戻った。


 封筒の表面には、宛名も差出人の名前もない。ただ、古風な赤いシーリングワックス(封蝋)で密閉されているだけだった。


「相沢くん、それ……」


 栞がその封筒を見るなり、息を呑んだ。


 俺は無言で封を破り、中から一枚の厚手の便箋を取り出した。そこに書かれていたのは、印刷された文字ではなく、万年筆で美しく、しかしどこか歪に書かれた一文だった。


『すみれ荘の住人たちへ。

 あなた方の「偽りの日常」は、非常に興味深い。

 完璧な偶像の裏の顔、星を操る欺瞞、言葉を紡ぐ嘘……そして、影に潜む調停者。

 近々、その仮面を剥ぎ取りに伺います。

 ——最初のゲームは、明日の夜に』


 それは、紛れもない『脅迫状』だった。


 しかも、このすみれ荘の住人全員の『裏の顔』を完全に把握している人物からの、宣戦布告。


「……全員の秘密が、漏れている?」


 栞の声が、初めて微かに震えた。


 その緊張感の伝播を察知したのか、ソファで寝ていた九条さんが、むにゃむにゃと目を擦りながら起き上がった。


「ん……? 何、二人で難しい顔して……。相沢くん、おやつの時間?」


 まだ状況を理解していない、無防備な九条さん。


 俺は手紙をポケットに仕舞い、眼鏡の奥の瞳を、かつて裏社会を震え上がらせた『天才フィクサー』の冷徹な輝きへと戻した。


(俺の平穏なモブライフを……この静かな日常を、邪魔する奴は——)


「何でもないよ、九条さん。ちょっと、明日の夕食のメニューについて考えていただけだ」


 俺はいつもの冴えない掃除係の笑みを浮かべた。だが、俺の脳内ではすでに、見えざる敵を迎え撃つための『完璧な迎撃プロット』が動き始めていた。

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