第十話:仮面の共有とフィクサーの指揮権
生ぬるい夕方の風が、リビングの窓を小さくガタガタと揺らしていた。
先ほどまで眠そうに目を擦っていた九条凛は、俺と羽鳥栞のただならぬ気配を察したのか、猫耳付きの着る毛布を握りしめたまま、完全に硬直していた。
「な、何よ……二人とも、そんな怖い顔して。明日の夕食のメニューがどうとかいう雰囲気じゃないじゃない。何があったの?」
俺は無言で、ポケットから先ほどの『白い封筒』を取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。
栞がそれをすくい上げ、九条さんにも見えるように便箋を広げる。
「これを読みなさい、九条さん。私たちの『平穏』は、どうやらここまでみたいよ」
栞の冷徹な声に促され、九条さんが恐る恐る便箋に視線を落とした。
『完璧な偶像の裏の顔』『星を操る欺瞞』『言葉を紡ぐ嘘』、そして『影に潜む調停者』——。
そこに並んだ不穏な文字列をなぞるにつれ、九条さんの顔からみるみる血の気が引いていくのが分かった。
「な……んで……っ。私の、ジャージ姿だけじゃなくて……一ノ瀬くんや羽鳥さんのことまで……!?」
九条さんの身体が微かに震える。学校での彼女は、完璧な偶像として無数の視線に晒され、それに耐えうる強固なメンタルを築いてきたはずだ。だが、それは「私生活という絶対的な安全圏」があるからこそ成立していた張り子の虎に過ぎない。その最後の拠り所である『すみれ荘』が、何者かに完全に覗かれていたのだ。
「落ち着け、九条さん。まだ敵の正体も、目的も分かっていない」
俺は努めて冷静な、しかし普段の冴えないモブのものとは一線を画す、低く通る声で告げた。
「羽鳥。この手紙が届いた時、表の路地には誰もいなかった。防犯カメラ……いや、この古い洋館にそんなものはないな。だが、シーリングワックスの凝固具合から見て、手紙が投函されてから三分と経っていない。敵はまだ、この近くにいるか、あるいは高度な遠隔工作を行っている」
「……相沢くん、あなたの言う通りだわ」
栞が手帳を取り出し、凄まじい速度で状況をプロファイリングし始める。
「差出人は私たちの『裏の顔』を正確に把握している。九条さんのズボラ、一ノ瀬くんの占い師、私の小説家、そしてあなたの……フィクサーとしての正体。これらを同時に掴むためには、この館に盗聴器や盗撮カメラが仕掛けられている可能性が極めて高いわ」
「なっ……盗聴器!? 嘘でしょ!?」
九条さんが大慌てで部屋の四隅を見回し、着る毛布を胸元で固く合わせた。
「ああ、その可能性は高い。だが、安心しろ」
俺はキッチンから一本のピンセットと、小型の精密ドライバーを取り出してきた。
あらゆる潜入や暗殺の危険をくぐり抜けてきた俺にとって、盗聴器の探知など赤子の手をひねるより容易い。
俺はダイニングの照明のスイッチプレート、エアコンの吹き出し口、そして九条さんがいつも座っているソファの裏側を、一切の無駄がない洗練された動きで次々と解体していった。
「(……信じられない。目線の動きだけで、部屋のわずかな『違和感』を特定しているわ。まるで、最初からそこに何があるか知っているみたいに……)」
栞がペンを止め、俺のその「異常な手際」を息を呑んで見つめている。
カチ、とピンセットが小さな金属片を捉えた。
ソファの隙間から引き抜かれたのは、米粒ほどの大きさの超小型集音マイクだった。
「やっぱりな。最新式の超広帯域無線盗聴器だ。電波の出力が極めて微弱だから、通常の検知器では引っかからない。……だが、これがあるということは、敵の『受信機』は、このすみれ荘から半径百メートル以内に設置されているということだ」
俺はそれをテーブルの上のコップの水にドボンと突き落とし、完全に沈黙させた。
「あ、相沢くん……本当に見つけちゃったの……?」
九条さんが涙目で俺を見上げてくる。その瞳には、恐怖と、そして俺に対する明確な「依存」の光が混ざり合っていた。
「これでこの部屋の音声は遮断された。だが、敵の予告は『明日の夜』だ。おそらく、他にも仕掛けがある。……九条さん、羽鳥。ここからは、俺の指示に従ってもらう」
俺はエプロンを完全に脱ぎ捨て、前髪をラフにかき上げた。
その瞬間、リビングの空気が一変した。冴えない掃除係の相沢湊は消え去り、かつて裏社会のパワーバランスをたった一人で支配した『天才フィクサー』の絶対的な覇気が、部屋を満たした。
「私たちは、どうすればいいの? 相沢……いいえ、指揮官」
栞の目が、知的な興奮でギラリと輝いた。彼女は恐怖を超え、この極限の状況を「最高の実録小説」として捉え始めてすらいる。
「まず、一ノ瀬を呼び戻す。あいつの情報網とストリートでの勘は、外の『敵の目』を炙り出すために不可欠だ。羽鳥、お前はネット経由で、この周辺の過去一ヶ月の防犯カメラのログ、あるいは不審なドメインの通信記録をスクリーニングしろ。お前のハッキング紛いの情報収集能力ならできるはずだ」
「ええ、お安い御用よ。私のタイピング、少しうるさくなるわよ?」
「九条さん。お前は……学校通り、完璧な『九条凛』として振る舞え。明日の日中も、普段通りに生活するんだ。敵にお前の『動揺』を悟らせるな。お前が完璧な仮面を被り続けること自体が、最大のデコイ(囮)になる」
俺の的確な指示に、九条さんはコクコクと何度も頷いた。
「分かったわ……! 私、学校での演技力なら誰にも負けないもの。完璧に騙して見せるわ!」
「よし。全員、各自の『裏の顔(手札)』を切れ。……このすみれ荘の平穏を脅かす不届き者には、フィクサーの本当の恐ろしさを教えてやる」
俺が冷徹に言い放ったその時、ガチャンと玄関のドアが開き、息を切らせた拓海が飛び込んできた。彼のスマホの画面には、俺が先ほど送った『緊急招集』のコードが表示されている。
「ハァ、ハァ……! 湊、メッセージ見たよ! マジで『星が完全に反転するレベルのヤバい運気』がこの家に迫ってきてるじゃん! 一体何が起きてるの!?」
「遅いぞ、拓海。……さあ、作戦会議の時間だ」
俺は不敵な笑みを浮かべた。
完璧超人のアイドル、毒舌の天才小説家、チャラいカリスマ占い師、そして元・天才フィクサー。
互いの秘密を隠し合っていた歪な住人たちが、今、一つの「共犯組織」として、見えざる敵を迎え撃つために完璧に噛み合った。




