第五話:一秒のフィクサーと、完璧な隠蔽工作
「ただいま〜〜! いや〜、今日の占いは大荒れでさぁ! なんだか星のデータがバグっちゃって、頭がパンクするかと思ったよ〜!」
玄関から響く、一ノ瀬拓海の陽気で、しかし今の俺たちにとっては死神の鎌の如き足音。
ドタドタと廊下を進み、このダイニングキッチンのドアへと近づいてくる。到着まで、あとおよそ五秒。
「げっ、一ノ瀬くん!? なんでこんな早いのよ!」
九条凛は持っていた箸を落とし、完全にパニックに陥っていた。
今の彼女は、膝の抜けたヨレヨレの芋ジャージ姿。髪は爆発頭をヘアピンで止めただけで、鼻の上にはセロハンテープで補強された眼鏡。この世のどこをどう探しても「学園のアイドル」には見えない、完全な干物ゲーマーの姿だ。
プライドの塊である彼女が、クラスの特級陽キャである拓海にこの姿を見られることは、社会的な死を意味していた。
「あ、相沢くん! ど、どうにかしなさいよ! あなた私の共犯者でしょ!?」
涙目で俺のシャツを引っ張ってくる九条さん。しかし、ダイニングから脱出するルートは拓海が歩いてくる廊下しかない。窓から飛び降りるには時間が足りない。万事休す——。
その時、俺の脳内で、かつて裏社会を恐怖させた『天才フィクサー』の冷徹な思考回路がカチリと音を立てて起動した。
(残された時間は、約三秒。……やるしかないか)
俺は深くため息をつき、同時に全身の筋肉を最適化させる。平穏に生きると決めたが、ここで九条さんの秘密が爆発すれば、俺のモブライフも巻き添えで吹き飛ぶ。
「羽鳥。生姜焼きの皿を一つ、俺の前に移動させろ。九条さんはダイニングテーブルの下へ隠れろ。一歩も動くな。……いいな?」
「え? ええ……」
「わ、分かったわ!」
俺の、普段の冴えないモブのものとは思えないほど低く、絶対的な拒絶を許さない声に、二人が反射的に動いた。
栞が素早く九条さんの皿を俺の前へとスライドさせ、九条さんはテーブルの下へと滑り込み、身を縮める。
残りの時間は一秒。
俺はエプロンを脱ぎ捨て、自分の髪をわざとクシャクシャに乱した。そして、テーブルの上に転がっていた九条さんの「テープ補強眼鏡」をひったくり、自分の鼻の上へと装着する。
——ガチャ。
最悪のタイミングで、キッチンのドアが勢いよく開いた。
「いやー、マジで疲れたわ……って、あれ? なんだ、みんな集まって何してんの?」
入ってきた拓海は、ダイニングの光景を見てパチクリと目を丸くした。
そこにあるのは、髪をボサボサに乱し、なぜか片方をセロハンテープで補強した怪しい眼鏡をかけ、生姜焼きの皿を二つ並べてガツガツと貪り食っている俺(相沢湊)。
そして、その対面で冷ややかに文庫本を読んでいる羽鳥栞。
それだけの空間だ。そこにあるべき「学園のアイドル」の姿はどこにもない。
「……なんだ、拓海か。おかえり。ずいぶん早いお着きだな」
俺はわざと口いっぱいに生姜焼きを詰め込み、眼鏡のフレームをクイと上げながら、ボソボソとした暗い声で言った。完全に「ちょっと情緒のおかしい、余裕のない地味男」の演技だ。
「え、ちょっと待って。湊、何その格好? 髪ボサボサだし、その眼鏡……何それ、セロハンテープ?」
拓海が怪訝そうな顔で俺に近づいてくる。その鋭い占い師の目が、部屋の違和感を探ろうと細められた。
だが、俺はこいつが状況をプロファイリングする前に、先手を打って情報を上書き(オーバーライト)する。
「……これか? 悪かったな、見苦しいところを。実はさっき、廊下の掃除中に思いきり転んで、自分の眼鏡を壊しちまったんだ。視界が効かなくて、部屋にあった古い予備の眼鏡を引っ張り出してきたんだが……これも壊れててさ。髪を直す余裕もないくらい腹が減ってたから、羽鳥に笑われながら飯を食ってたところだ」
俺はそう言って、わざと不器用に箸を動かし、視界が悪いフリを演出した。
「え〜? そうなの? でもさ、なんで生姜焼きの皿が二つもあるわけ? 湊、一人で二人前食ってんの?」
拓海の視線が、テーブルの上の二つの皿へと落とされる。鋭い。さすがは情報通だ。
しかし、その程度の追及は想定の範囲内だ。
「私が、相沢くんの分を大盛りにしたのよ」
横から、栞が氷のように冷たい、しかし完璧に自然なトーンで援護射撃を入れた。
「彼は今日、図書室の重い本棚の移動を手伝ってくれたわ。その労働の対価として、私が生姜焼きの肉を多めに買って、彼に二人前提供したの。……何かおかしいかしら、一ノ瀬くん?」
「あ、いや……羽鳥さんがそう言うなら、そうなんだろうけど……」
栞の有無を言わせぬ毒舌気味の正論に、拓海が一歩引く。
だが、拓海のプロファイリングはまだ終わっていない。彼はクンクンと鼻を鳴らした。
「でもさ、なんかこの部屋……女の子のシャンプーの匂いが残ってない? それも、いつもの羽鳥さんの匂いじゃなくて、もっとこう、フルーティーで、どっかで嗅いだことがあるような……」
(相変わらず、犬並みの嗅覚と直感だな……!)
テーブルの下で、九条さんがビクッと身体を硬くした気配が伝わってくる。彼女の使っているシャンプーは超高級品だ。学校で彼女の後ろを通ったことのある拓海なら、記憶の片隅に残っていてもおかしくない。
俺は、眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせた。
これ以上の追及は危険だ。ここからは、拓海の得意分野である「占い」と「関心事」を利用して、彼の脳のキャパシティを強制的に別の方向へ誘導する。
「シャンプーの匂い? ああ……それなら、さっき俺がキッチンの排水口の掃除に使った『特殊な業務用洗剤』の匂いだろう。ほら、これだ」
俺はシンクの下から、事前に用意しておいた柑橘系の強烈な消臭スプレーを取り出し、拓海の足元に向けて容赦なくシュシュッと撒き散らした。
「うわっ!? ちょっと湊、何すんのさ! 匂いが混ざってわけ分かんなくなっちゃうじゃん!」
「うるさい。それより拓海、お前さっき『星のデータがバグった』って言ってただろう」
そのワードを出した瞬間、拓海の目の色が変わった。自分の本職(裏の顔)に関するトラブルだ。食いつかないはずがない。
「そうなんだよ! 聞いてよ湊! いつも使ってる占星術の計算式がさ、夕方くらいから急に変なエラー起こしちゃってさ。俺の勘だと、誰かがネット経由で俺のアカウントのデータサーバーに『ノイズ』を流し込んだとしか思えないんだよねぇ。おかげで今日のストリート占いは大ハズレさ!」
拓海が頭を抱えて悔しがる。その横で、栞が何食わぬ顔で文庫本のページをめくった。犯人は目の前の文学少女なのだが、拓海は夢にも思っていない。
「それは災難だったな。だが、お前の占いが外れるなんて珍しい。もしかして、お前自身の『運気』が下がってるんじゃないか?」
「え、俺の? まさか〜」
「占ってみたらどうだ? 自分のデータをもう一度、自室のパソコンで精査し直した方がいい。データのエラーに見えるものが、実は重大な『星の警告』かもしれないぞ」
俺がもっともらしい口調で揺さぶりをかけると、拓海はハッとしたように目を見開いた。
「じ、重大な星の警告……!? 確かに、俺自身のバイオリズムが狂って、計算をミスった可能性もあるな……! よし、分かった! 俺、部屋に戻って朝までデータのログを解析し直すわ! 飯は後でいい!」
単純、と言えば聞こえはいいが、自分の専門分野に対して異常なまでの執着を持つのが拓海という男だ。彼は完全に生姜焼きの違和感を忘れ、自分の世界へと没頭しながら、階段を駆け上がって自室へと戻っていった。
バタン、と二階のドアが閉まる音が響く。
……完全なる、隠蔽の成功だった。
「……ふぅ。やれやれ、心臓が止まるかと思ったわ」
テーブルの下から、九条さんが泥のように疲弊した様子で這い出てきた。彼女は俺の鼻の上にある自分の眼鏡をひったくると、念入りにジャージの袖で拭いてからかけ直した。
「相沢くん、あなた……ただの掃除係のくせに、なんであんなに冷静に嘘がつけるのよ。一ノ瀬くん、完全に丸め込まれてたじゃない」
「言ったろ、俺は他人の秘密に興味はないし、平穏を守りたいだけだ。お前の秘密を守ることは、俺のモブライフを守ることと同義だからな」
俺は眼鏡を外した自分の前髪を直しながら、冷めた生姜焼きを再び口に運んだ。
「素晴らしいわ、相沢くん。……今の緊迫感、そして息もつかせぬ心理誘導。私の新作小説の第三章、まるまるこのトリックを使わせてもらうわね」
栞が目をきらめかせながら、凄まじい速度で手帳にペンを走らせている。
「おい、羽鳥。お前のバグらせたデータのせいで俺がどれだけ冷や汗をかいたと思ってるんだ。手綱を握れって言ったのは、こういう意味じゃないぞ」
「結果オーライよ。それに、これで私たち三人の『共犯関係』は、より強固なものになったわ。……ねえ、九条さん?」
栞の問いかけに、九条さんは少し気まずそうに芋ジャージの裾を弄りながら、俺の顔をチラリと見た。
「ま、まあ……今回は助かったわ。相沢くん、一応、共犯者として認めてあげる。明日も、放課後のパシリ、期待してるからね」
「調子に乗るな、お嬢様。次は自分でコーラを買いに行け」
「む、無礼者……!」
ぷいっと顔を背ける九条さん。しかし、その耳元が微かに赤くなっているのを、俺と栞は見逃さなかった。
一難去って、また一難。
拓海の疑惑の目は逸らせたものの、この「すみれ荘」の住人たちの関係性は、確実に、そして急速に深まり始めていた。




