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すみれ荘には普通の人間がいない 〜元・天才フィクサーの平穏な日常は、深夜のキッチンで崩壊する〜  作者: リリリリス
【第一章:秘密を抱えた共犯者たち】

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第四話:夕暮れのすみれ荘と、奇妙な包囲網

 放課後の図書室で、天才覆面小説家である羽鳥栞と『第二の共犯契約』を結ばされてから数時間後。


 夕日が都心のビル群の隙間に沈み、路地裏が濃い藍色の夜に包まれる頃、俺は両手にずっしりと重いレジ袋を下げて「すみれ荘」の門をくぐった。


 レジ袋の中身は、九条凛から放課後に(あの稚拙なジェスチャーで)発注された冷えた炭酸水数本、そして夕食用の食材だ。さらに、図書室で栞から追加発注された「小説の資料になりそうな海外のミステリー雑誌」まで混ざっている。


(……おかしい。俺は平穏なモブとして生きるためにここへ来たはずなのに、なぜ初日から二人の美少女のパシリを掛け持ちしているんだ?)


 そんな哲学的な疑問が脳裏をよぎるが、考えても虚しくなるだけだ。俺はため息を夜風に逃がし、古びた洋館の重い玄関ドアを開けた。


「ただいま戻りました……」


 誰に言うでもなく呟き、靴を脱いで廊下に上がる。


 すると、トタトタと二階から小走りで階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。


「遅いわよ、相沢くん! 共犯者としての初日から、私をどれだけ待たせるつもり?」


 現れたのは、九条凛だった。


 ……が、その姿を見て、俺は思わず玄関口で一歩後ずさった。


 彼女はすでに、学校でのあの完璧な「高嶺の花」の制服姿を脱ぎ捨てていた。着ているのは、昨夜俺の精神を粉砕した、あの膝の抜けたヨレヨレの芋ジャージだ。髪はすでにヘアピンで適当に前髪を上げられており、鼻の上にはあのセロハンテープで補強された眼鏡が鎮座している。


「おい、九条さん。まだ他の住人がいつ帰ってくるか分からないだろ。せめてリビングに降りる時はその格好をやめろ」


「大丈夫よ。一ノ瀬くんはさっき『今日は占いの仕事ストリートのインスピレーションを得るために遅くなる』ってメッセージが来てたわ。羽鳥さんは……あの人、いつも部屋に引きこもって本を読んでるから、滅多に降りてこないもの」


 九条さんはふんす、と鼻を鳴らし、俺の手からひったくるようにレジ袋を奪い取った。中から冷えた炭酸水を見つけると、嬉しそうに目を輝かせる。学校での冷徹な大財閥の令嬢の面影はどこへやら、完全に獲物を見つけた小動物のそれだった。


「よし、合格ね。ちゃんとキンキンに冷えてるわ。……あ、それとこれ、今日の分の『お給料』よ」


 九条さんがジャージのポケットから取り出し、俺の手に押し付けてきたのは、一枚の千円札……ではなく、どこかの高級洋菓子店の金色の包み紙に包まれたチョコレートだった。


「お給料って……お菓子かよ」


「な、何よ! それ、我が家の専属パティシエが作った、一般には流通してない最高級のトリュフチョコなんだからね! 一粒であなたの月のお小遣いくらいの価値はあるんだから、有り難く受け取りなさい!」


 九条さんは少し顔を赤くしながら、ぷいっと顔を背けた。どうやら彼女なりに、無理やりパシリにしている俺に対して「対価」を払おうというプライドはあるらしい。


「はいはい、ありがとうございます、お嬢様。じゃあ俺は夕食の準備に入るから、九条さんはリビングでゲームでもしててくれ」


「言われなくてもそうするわ。今日は昨日負けたチームにリベンジしなきゃいけないんだから」


 九条さんは炭酸水を抱え、我が物顔でダイニングのソファへと移動し、速攻でスマホの画面を開いて胡坐をかいた。その姿は、もはや実家のような安心感に満ち溢れている。


 俺は苦笑しながらエプロンを身に付け、キッチンへと向かった。


 今日の献立は、買ってきた新鮮な豚肉を使った生姜焼きだ。キャベツの千切りを作り、特製のタレに肉を漬け込んでいく。


 ジューーーッ……。


 フライパンから食欲をそそる甘辛い香りと音が立ち上り始めた、その時だった。


 ガチャリ、とキッチンの勝手口のドアが開き、一人の少女が音もなく滑り込んできた。


「良い香りね。相沢くんの料理の腕は、プロット通り確かみたい」


「うおっ……羽鳥か。驚かせるな」


 現れたのは羽鳥栞だった。彼女も制服から、ゆったりとした白いサマーセーターとロングスカートに着替えている。手には、放課後に俺が渡したミステリー雑誌が開かれていた。


「羽鳥さん!? な、なんでここに……」


 ソファでゲームをしていた九条さんが、栞の登場にガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。その顔は、自分の「芋ジャージ姿」を完全に見られたことで、心なしか引きつっている。


「あら、九条さん。お気になさらず。私はただ、相沢くんに『本の督促』をしに降りてきただけだから」


 栞は感情の読めない瞳で、九条さんの芋ジャージと爆発頭を上から下までじっと見つめた。そして、手にした手帳にサラサラと何かを書き留める。


「(……なるほど。『完璧な偶像は、私生活において極端な退行を見せる。芋ジャージのシミは、彼女の抑圧された承認欲求の裏返し』……素晴らしいディテールだわ)」


「ちょっと! 今、私のこと見て何か不穏なメモしなかった!?」


 九条さんが顔を真っ赤にして抗議する。秘密がバレるのを恐れて、ジャージのポケットからまた十徳ナイフをカチつかせようとする九条さんに対し、栞は冷淡な声で遮った。


「安心しなさい、九条さん。私はあなたのその……大変、独創的な私生活を、誰かに言いふらすつもりは毛頭ないわ。私と相沢くんの間には、すでに『別の契約』が結ばれているから」


「別の、契約……?」


 九条さんの視線が、鋭く俺へと向けられる。その瞳には「あんた、私の秘密をこの女に売ったの?」という明確な疑惑の光が宿っていた。


「誤解するな、九条さん」


 俺は生姜焼きをお皿に盛り付けながら、冷静に介入した。


「羽鳥はお前の秘密をバラさない。その代わり、俺が羽鳥の趣味……いや、仕事の手伝いをすることで話がついている。つまり、羽鳥も俺たちの『共犯者』の輪に加わったってことだ」


「そうなの……?」


 九条さんはまだ疑わしそうな目で栞を見ていたが、栞は小さく息を吐くと、眼鏡の位置を直しながら言った。


「ええ。それに、私を味方に引き入れたのは、あなたにとっても利益メリットのはずよ。九条さん。……さっき、学校のグループチャットで、一ノ瀬くんがあなたたちの『深夜の密会』について、オカルト研究会のメンバーに占いのネタとして話そうとしていたわ」


「なっ……!? あの金髪男、やっぱり気づいて……!」


「だから、私が裏で手を回しておいたの。一ノ瀬くんがネット上で運営している匿名アカウントの『占い用データ(星の運行表)』に、少しだけノイズを混ぜておいたわ。今頃彼は、自分の占いの計算が合わなくて、自室で頭を抱えているはずよ。明日には、あなたたちのことなんて綺麗に忘れて別のオカルトに没頭しているわ」


 栞の淡々とした言葉に、俺は背筋が少し寒くなった。


 さすがは売れっ子作家であり、情報の扱い方に長けた人間だ。あの勘の鋭い拓海を、自分の手を汚さずに「占いのエラー」という形で完璧にコントロールしてみせたのだ。


「す、すごいのね、羽鳥さん……」


 九条さんも、栞の底知れない有能さに圧倒されたのか、十徳ナイフをそっとポケットに仕舞い込んだ。


「これで分かっただろ、九条さん。このすみれ荘で平穏に生きるためには、お互いの力を利用し合うのが一番なんだ。お前は秘密を守りたい。羽鳥はネタが欲しい。俺は平穏が欲しい。利害は一致している」


 俺がそう言って、ダイニングテーブルに人数分の生姜焼きの皿を並べると、栞はフッと満足そうに微笑んだ。


「その通りよ。さすがは元・天才……いいえ、ただの掃除係の相沢くんね。素晴らしい采配だわ」


「ちょっと、今『元・天才』って言いかけた?」


 九条さんが首を傾げるが、俺はそれを無視して「ほら、冷めないうちに食え」と箸を促した。


「わあ、美味しそう! いただきます!」


 九条さんは芋ジャージの袖をまくり、豪快に生姜焼きを口に運んだ。その瞬間、「んん〜〜!」と幸せそうに頬を緩める。学校での彼女しか知らない人間が見れば、卒倒しかねないほどの無防備な姿だ。


「……美味しいわね。相沢くん、この味付けの隠し味は、蜂蜜かしら?」


 栞も上品に肉を口に運び、鋭い味覚で俺の調理法を分析してくる。


 完璧超人アイドルの芋ジャージ少女と、毒舌天才小説家の文学少女。


 二人の美少女に挟まれながら、俺は静かに白米を口に運んだ。


 確かに、一ノ瀬拓海という脅威は栞の手によって一時的に退けられた。だが、俺たちの『共犯関係』が濃くなればなるほど、このすみれ荘の歪な空気感は増していく。


 全員が何かしらの「裏の顔」を持ち、それを隠すために協力し合う、ドタバタのシェアハウス生活。


(まあ……当面の危機は去った、と思いたいがな)

 俺がそう思った、まさにその時。

 

「ただいま〜〜! いや〜、今日の占いは大荒れでさぁ! なんだか星のデータがバグっちゃって、頭がパンクするかと思ったよ〜!」


 玄関から、これ以上ないほどタイミングよく、ドタドタと賑やかな足音が近づいてきた。


 一ノ瀬拓海が、予定よりも遥かに早く帰ってきたのだ。


「げっ、一ノ瀬くん!? なんでこんな早いのよ!」


 九条さんが大慌てで箸を落とし、ジャージ姿のままダイニングの陰に隠れようとする。


 俺と栞は顔を見合わせ、同時に小さくため息をついた。


 やはり、このすみれ荘に、平穏な夜が訪れるのはまだまだ先の話になりそうだった。

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