第三話:図書室の観察者と、歪な距離感
すみれ荘の慌ただしい朝食の時間を終え、俺たちはそれぞれのタイミングで家を出た。
シェアハウスのルールである『住民のプライベートには深く立ち入らないこと』は、一歩外に出ても基本的には適用される。特に俺たちの通う私立白蘭学園の敷地内においては、そのルールはさらに厳格な「暗黙の了解」へと形を変えていた。
何せ、住人の顔ぶれが学園内での階級において極端すぎるのだ。
カーストの頂点に君臨する、大財閥の令嬢にして学園のアイドル・九条凛。
クラスの中心人物であり、誰からも好かれる圧倒的陽キャのムードメーカー・一ノ瀬拓海。
それに対して俺——相沢湊は、教室の隅で息を潜めている、出席番号以外で目立つことのない極小のモブキャラクター。
そんな住人たちが、朝一緒に並んで登校する姿など世間に晒してみろ。
「なぜあの冴えない地味男が九条さんや一ノ瀬と一緒にいるんだ?」と、翌朝には学園中の噂の的になり、俺の望む平穏なモブライフは文字通り灰燼に帰す。だから俺たちは、あえて時間をずらし、学校では「ただの同級生」として、目も合わせずに過ごすのが鉄則だった。
(……だったはずなんだがな)
二時間目の休み時間。俺は自席でノートを見返しながら、小さくため息をついた。
廊下の方から、黄色い歓声と男子生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。チラリと視線を向ければ、そこには女子生徒たちに囲まれてへらへらと笑っている拓海と、その少し先を、取り巻きの女子を引き連れて優雅に歩いていく九条さんの姿があった。
学校での九条さんは、やはりどこからどう見ても完璧な聖女だった。
背筋をピンと伸ばし、すれ違う生徒一人一人に慈愛に満ちた微笑みを返す。昨夜、深夜のキッチンで「ポテトチップスのコンソメ味買ってこい!」と俺の胸ぐらを掴んだ猛獣と同一人物だとは、逆立ちしても誰も信じないだろう。
すると、九条さんがふと足を止め、視線を教室の中へと向けた。
一瞬、彼女の美しい瞳が、窓際に座る俺を真っ直ぐに捉える。
彼女は取り巻きたちに気づかれない絶妙な角度で、俺に向けてスッと人差し指を立ててみせた。そして、自分の喉元を指差すジェスチャーをする。
(……『放課後、購買で冷えた炭酸水を買って待機せよ』、か。やれやれ、さっそくパシリの命令だな)
一瞬のアイコンタクト。かつて裏社会で暗号を読み解いてきた俺にとって、彼女の稚拙なジェスチャーの意図を察するのは容易だった。俺が小さく首を縦に振ると、九条さんは満足したように、また上品な笑みを浮かべて廊下の奥へと消えていった。
周りの生徒たちは誰も気づいていない。これぞ、完璧な隠蔽——。
「——随分と、熱烈な視線を交わし合っているのね。相沢くん」
突如、背後から鼓膜に滑り込んできたのは、氷の刃のように冷徹で、しかしどこか鈴の音のように透き通った少女の声だった。
心臓がドクリと跳ねる。だが、俺は元フィクサーの鉄面皮を崩さない。ゆっくりと振り返ると、そこにはいつの間にか俺の席の真後ろに立ち、文庫本を片手に持った少女が佇んでいた。
彼女の名前は、羽鳥栞。
すみれ荘の四号室の住人であり、俺たちの隣のクラスに在籍する図書委員だ。
学校での彼女は、常に感情の起伏を見せず、誰とも群れず、ただ黙々と本を読み続けている「物静かでクールな文学少女」。それが彼女の『表の顔』。
だが、俺は知っている。
こいつの正体は、女子中高生を中心に社会現象を巻き起こしている、現役覆面女子高生作家の『シオリ』。人間のドロドロとした恋愛感情や心理戦を描かせたら右に出る者はいない、超売れっ子の天才恋愛小説家だ。
こいつの書くセリフは鋭い毒針のようで、読者の心を抉り取ることで有名だったが、今のその冷ややかな視線は、まさにその小説の描写そのものだった。
「羽鳥か。……熱烈な視線って、何のことだ? 俺はただ、廊下が騒がしいなと思って見ていただけだ。モブの網膜に、学園のアイドルがたまたま映り込んだに過ぎないよ」
「そう。相変わらず、あなたのポーカーフェイスは一級品ね」
栞は感情の読めない瞳で俺をじっと見つめると、手にしていた文庫本をパタンと閉じた。
「でも、私の目は誤魔化せないわ。人間の視線の機微、呼吸の乱れ、筋肉の微微な緊張。それらを観察して言葉に紡ぐのが、私の『仕事』だから」
(チッ……この女、やっぱり気づいてやがるな)
拓海が直感と情報収集で攻めてくるタイプなら、この羽鳥栞は純粋な「観察眼」と「心理分析」で獲物を追い詰めるタイプだ。昨日の朝、すみれ荘のキッチンで俺と九条さん、そして拓海が繰り広げたおかしな空気感を、こいつは特等席からじっと観察していた。
「学校ではお互いに他人のフリ、それがすみれ荘の暗黙のルールのはずだろ、羽鳥」
「ええ。だから私も、あなたにこうして話しかけるのは、細心の注意を払っているわ。今、周囲の生徒たちは、私があなたに『図書室の貸出期限が切れている本』の催促をしているとしか思っていないはずよ」
栞はそう言って、文庫本の間に挟んでいた図書室の督促状を、わざとらしく俺の机に置いた。用意周到なカモフラージュだ。
「今日の放課後、図書室へ来なさい。相沢くん。あなたに、少し『取材』したいことがあるの」
「取材? 断ると言ったら?」
「断ってもいいけれど……私の次作のプロット、タイトルが『完璧なアイドルが深夜に芋ジャージで発狂する話』になりかねないわよ? もちろん、モデルはすべてノンフィクションで」
栞の口元が、微かに、本当に微かに歪んで意地悪な弧を描いた。
(どいつもこいつも、脅迫のバリエーションが豊富すぎるだろ……!)
九条さんに続き、この文学少女までもが俺の平穏を脅かしてくる。元フィクサーとしてのプライドが「これ以上の情報漏洩を防ぐために、相手の懐に飛び込んで口を封じる(言いくるめる)べきだ」とアラートを鳴らしていた。
「……分かった。放課後、図書室に行くよ」
「賢い選択ね。待っているわ、共犯者の相沢くん」
栞はそう言い残すと、足音もなく、幽霊のように教室から去っていった。
そして放課後。夕日が赤々と染め上げる放課後の図書室は、利用する生徒もまばらで、静まり返っていた。
古い本特有の、少し酸っぱいような落ち着く香りが漂う空間。その一番奥にある、周囲から死角になった閲覧席に、羽鳥栞は座っていた。
「待たせたな」
俺が対面の席に座ると、栞はノートパソコンを開いたまま、視線だけをこちらに向けた。
「律儀ね、相沢くん。まずは、これを差し上げるわ。あなたの今日の『労働』の対価よ」
栞が机の上に滑らせてきたのは、缶入りの冷えたブラックコーヒーだった。
「労働? 俺はまだ何もしていないが」
「これからしてもらうのよ。……単刀直入に聞くわ。あなたと九条さん、いつからあんな『歪な関係』になったの?」
栞の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。彼女はキーボードを叩く手を止め、完全に俺を「観察対象」としてロックオンしていた。
「歪な関係も何も、ただの同居人だ。昨日の朝、拓海が言っていたことは全部ただのからかいだよ」
「嘘ね。あなたの声のトーンは一定だけれど、九条さんの名前を出した瞬間、右手の指先がわずかに動いた。……相沢くん、あなたは彼女の『重大な秘密』を握っている。そして彼女は、それを隠すためにあなたを強引に縛り付けた。違うかしら?」
さすがは売れっ子の恋愛小説家。男女の心理や駆け引きを扱い慣れているだけあって、核心を突く精度が恐ろしいほどに高い。
「……羽鳥、お前は小説のネタのために、他人のプライベートを暴くつもりか? すみれ荘のルールを破るなら、俺だって黙っていないぞ」
俺は少しだけ、声のトーンを落とした。かつて裏社会の交渉の場で使っていた、相手に無言の圧力をかけるための技術だ。普通の高校生なら、この空気に耐えかねて気圧されるはずだった。
しかし、羽鳥栞は眉一つ動かさず、むしろ興味深そうに目を細めた。
「あら、面白い目をするのね。……やっぱり、あなたはただの掃除係じゃない。その冷徹な視線、修羅場を何度も潜り抜けてきた人間のそれよ。一ノ瀬くんがあなたを『ただ者じゃない』と確信している理由が、今、はっきりと分かったわ」
(しまっ……! 鎌をかけられたか!)
俺がわずかに漏らした「気配」を、彼女はあえて引き出し、分析したのだ。この女、想像以上にキレる。
「私の目的は、他人のプライベートを世間に暴露して破滅させることじゃないわ。私はただ……『リアルな人間の関係性』が欲しいだけ。完璧な人間たちが、秘密を共有することで生まれる歪な絆、ドタバタとした共犯関係。それって、最高に小説のモチベーション(ネタ)になると思わない?」
栞はそう言うと、ノートパソコンの画面を俺の方へと向けた。
そこには、新しく書き始められた小説のプロットが表示されていた。タイトルはまだ未定のようだが、登場人物の設定には、明らかに俺や九条さん、そして拓海をモデルにしたキャラクターたちが並んでいた。
「私はこのすみれ荘で起きるドタバタを、一番近くで観察したいの。だから、相沢くん。あなたたちの『共犯関係』に、私をも巻き込みなさい。あなたが九条さんのパシリをさせられているように、私の小説の執筆のための『壁打ち相手』になってもらうわ」
「壁打ち相手?」
「ええ。プロットの相談に乗ったり、男心が分からない時のアドバイスをしたり。……もし協力してくれるなら、私も九条さんの秘密を守る側に回ってあげる。一ノ瀬くんがこれ以上踏み込んでこないように、私が裏で情報操作をして、彼を牽制してあげるわ。どう? 悪くない提案でしょう?」
俺はブラックコーヒーの缶を手に取り、冷たい液体を喉に流し込んだ。
苦味が口いっぱいに広がる。
羽鳥栞を敵に回せば、彼女の鋭い観察眼によって、九条さんの秘密だけでなく、俺の『元フィクサー』としての過去まで暴かれかねない。しかし、ここで彼女を味方——いや、『第二の共犯者』として引き込めば、勘の鋭い拓海に対する強力な防壁になってくれる。
(やれやれ……毒を以て毒を制す、か)
フィクサーとしての合理的な思考が、この契約を結ぶべきだと判断を下していた。
「分かったよ、羽鳥。お前の小説のネタ作りに協力してやる。その代わり、拓海の奴がこれ以上俺たちの周りを嗅ぎ回らないように、お前が上手く手綱を握れよ」
「交渉成立ね、相沢くん。……ふふ、これで私の新作は素晴らしいものになりそうだわ」
栞は満足そうに、本日初めての、年相応の小さな微笑みを浮かべた。その顔はどこか嬉しそうで、少しだけ可愛いと思ってしまったのは秘密だ。
「じゃあ、さっそく最初の取材よ。……男の子って、好きな女の子から深夜にどんな風に罵倒されたら一番『興奮』するのかしら? ディープな意見を聞かせて」
「そんなニッチな取材があるか! あと俺は興奮してない、ただ理不尽に怒鳴られただけだ!」
放課後の静かな図書室に、俺の小さく抑えたツッコミが虚しく響く。
こうして、すみれ荘の住人4人のうち、3人が『秘密の共犯関係』という奇妙な蜘蛛の巣で結ばれることになった。
完璧超人アイドルの九条さん。
すべてを面白がる占い師の拓海。
そして、二人の関係をネタにする小説家の羽鳥。
普通の人間が一人もいないこのシェアハウスで、俺の「平穏なモブライフ」は、ますます遠ざかっていくのだった。




