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すみれ荘には普通の人間がいない 〜元・天才フィクサーの平穏な日常は、深夜のキッチンで崩壊する〜  作者: リリリリス
【第一章:秘密を抱えた共犯者たち】

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第二話:翌朝の胃もたれと、不敵な同居人

 深夜のドタバタ劇から、わずか数時間後。


 二段ベッドの固いマットレスの上で、俺は浅い睡眠から引きずり出されるように目を覚ました。スマートフォンの画面が示す時刻は午前六時三十分。カーテンの隙間から、都心の狭い路地裏特有の、ビルに遮られた薄暗い朝の光が差し込んでいる。


「……うう、最悪の目覚めだ。胃の奥が変に熱いし、服からジャンクフードの匂いがする気がする……」


 のそのそとベッドから這い出し、制服に着替えながら、俺は昨夜キッチンの換気扇の下で起きた『悪夢』を思い返していた。


 学園の絶対的アイドルであり、高嶺の花と謳われる九条凛の、世間には絶対に見せられない裏の顔。芋ジャージ、爆発頭、そして十徳ナイフをカチつかせながらの脅迫。


 結果として、俺は彼女の秘密を隠蔽するための『共犯者』——という名の、都合のいい専属パシリ(奴隷)に任命されてしまった。現に、昨夜の深夜二時半、俺は近所のコンビニまで律儀に冷えたコーラとコンソメ味のポテトチップスを買いに走らされている。


(とにかく、今日からの学校生活では、徹底的に赤の他人のフリを通す。それしかない。余計な関わりを持たなければ、傷口はこれ以上広がらないはずだ……)


 そう自分に強く言い聞かせ、俺は部屋を出て一階のキッチンへと向かった。


 すみれ荘の掃除係としての仕事は朝も続く。家賃免除の条件には、住人間のトラブル防止を兼ねた「毎日の朝食の準備」も含まれているのだ。料理自体は嫌いじゃない。むしろ、無心で食材を刻んでいる時間は、過去の嫌な記憶を忘れさせてくれる貴重なひとときだった。


 トントン、トントン……。


 静かなキッチンに、まな板の上でキャベツを刻む規則正しい音が小気味よく響く。


 出汁の香りがふわりと立ち上り、味噌汁が程よく温まってきた、その時だった。


「おっ、おはよー湊! 今日も朝からエプロン姿がバシッとキマってるねぇ!」


 背後から、静寂を容赦なくぶち破るような、やたらとハイテンションな男の声が飛んできた。


 振り返るまでもない。このすみれ荘の二号室の住人であり、俺と同じ高校に通う同級生、一ノ瀬拓海いちのせ たくみだ。


 拓海は寝癖混じりの金髪を雑に手で弄りながら、大きなあくびを噛み殺してカウンター席にどかと腰掛けた。


 学校でのこいつは、とにかくノリが軽くてお調子者。クラスの引き立て役であり、お祭り騒ぎが大好きなムードメーカー。それが一ノ瀬拓海の『表の顔』だ。


 だが……俺の目は騙せない。


 こいつはネット上で『顔を隠したカリスマ占い師』として活動し、数万人以上の熱狂的なフォロワーを抱えている。それだけならまだ可愛いものだが、こいつの恐ろしいところは、その「占い」と称する超一級の情報収集能力だ。政財界の大物や、裏社会の人間さえも、こいつの言葉一つで右往左往する。実質的に情報を操るモンスター、それがこのへらへら笑う金髪男の正体だった。


 もちろん、こいつは俺がその正体を見抜いていることには気づいていない。……はずだ。


「おはよう、拓海。朝からうるさい。まだ他の住人も寝てるんだから声を落とせ」


「冷たいな〜、湊は。これでも俺、昨日湊が廊下をピカピカにワックス掛けしてくれたの、ちゃんと気づいて感謝の念を送ってたんだぜ? 心のテレパシー届かなかった?」


「届くわけないだろ。ほら、大人しく座ってろ。今、卵焼き焼くから」


「おっ、湊特製の甘い卵焼き! テンション上がるわ〜」


 拓海はへらへらと笑いながら、スマホの画面を器用にスクロールさせている。その指の動きは、昨夜の九条さんの猛烈なタップを思い出させて、俺の胃を少しキリつかせた。


 俺がフライパンに溶き卵を流し込み、手際よく巻き上げていると、拓海がふとスマホをテーブルに置き、頬杖をつきながらニヤニヤとした視線をこちらに投げかけてきた。


「あーあ、それにしてもさぁ……。昨日の夜は、なんだかこのキッチンの方が『随分と騒がしかった』みたいだけど、何か面白いことでもあったわけ?」


 心臓が、微かに跳ねた。


 だが、俺は長年のフィクサー経験で培った鉄のポーカーフェイスを維持し、フライパンを返す手を一ミリもブレさせなかった。


「……何のことだ。俺はただ、深夜二時頃に予定通り廊下とキッチンの掃除をしていただけだ。不審な点でもあったか?」


「ふーん? 掃除ねぇ……。俺の『占い師の直感パッシブスキル』がさ、ビンビンに告げてるんだよね。昨日の深夜、このキッチンで、これまでにないくらい強力な『星の衝突トラブル』の運気が出てたって。しかも、湊の星と、もう一つ……かなり巨大で、プライドの高〜い星が、ごっつんこしてた気がするんだけど?」


(チッ……相変わらず勘の鋭い野郎だ)


 拓海は「占い」というオカルトを隠れ蓑にしているが、実際はすみれ荘のわずかな空気の変化、例えばゴミ箱に捨てられたカップ焼きそばの容器や、コンビニのレジ袋、そして俺のわずかな寝不足の気配から、状況を正確にプロファイリングしているのだ。


「オカルトの話しなら、学校のオカルト研究会でやってくれ。俺の星はいつでもただのモブだ。トラブルなんて起きるはずがない」


「お、はぐらかすね〜。いいよいいよ、そういう秘密主義なところも湊らしくて最高にミステリアスだよ」


 拓海がさらに追及しようと身を乗り出してきた、その瞬間。


 パタパタと、廊下から軽やかで非の打ち所がない、上品な足音が近づいてきた。


 キッチンのドアが静かに、滑らかに開く。


「——おはようございます、一ノ瀬くん。相沢くん」


 そこに立っていたのは、九条凛だった。

 

 俺は思わず、持っていたフライ返しを落としそうになった。


 お見事、と言うほかない。完璧な、あまりにも完璧なトランスフォームだった。


 昨夜のあの落ち武者のような爆発頭は影も形もなく、艶やかな黒髪ロングが綺麗にまとまって、朝の光を反射している。制服の襟元は一ミリの乱れもなく、鼻の上の眼鏡も消え、そこには澄んだ美しい瞳が輝いていた。


 その微笑みは、まるで絵画から抜け出してきた聖女、あるいは教会の祭壇に飾られた女神のようだった。昨夜の芋ジャージ姿が、本当に俺の見た幻覚だったのではないかと思わせるほどの、完璧な「高嶺の花」がそこにはいた。


「あ、九条さん! おはよう! 今日も一段と美しいね! 朝から目が浄化されるわ〜」


「ふふ、ありがとうございます、一ノ瀬くん。相変わらずお上手ですね」


 拓海の軽い、チャラついた挨拶を、九条さんは至高の上品さをもって優雅にいなす。


 そして彼女は、カウンター席へと向かうため、俺が立っているキッチンのすぐ横を通った。


 拓海からは死角になる、わずか一秒のすれ違いの瞬間。


 九条さんは、学校での彼女なら絶対にしないような素早い動きで、俺の足の甲をローファーのヒールで思いきり踏みつけてきた。


(……っっ!?)


 声にならない悲鳴が喉を突き上げるが、俺は歯を食いしばって耐えた。ここで痛がれば拓海にすべてを察知される。


 悶絶する俺の耳元に、九条さんは学校用の美しい鈴を転がすような声のまま、しかし確実にドスの利いた音量で囁いた。


「(……相沢くん。昨日のこと、忘れてないわよね? あなたが買ってきたコーラ、ちょっと炭酸が抜けてたわよ。次はちゃんと、仕入れてすぐのペットボトルを選びなさい)」


「(……善処します、お嬢様。だから足を退けてください、骨が折れる)」


 一瞬だけの、誰にも聞こえないはずの秘密の会話。


 だが、そのわずかな空気の乱れ、そして俺たちの「距離感」の異常さを、目の前の情報モンスターが見逃すはずがなかった。


「あれれ〜〜? なに二人で、朝から内緒話なんかしてんの? もしかして……俺の知らない深夜の間に、何か『特別な関係』にでもなっちゃった感じ?」


 拓海が目を限界まで皿のようにきらめかせ、獲物を見つけた猛獣のような、最高に愉悦に満ちた笑みを浮かべてこちらを覗き込んできた。


「「そんなわけないでしょ(だろ)!」」

 俺と九条さんの否定の声が、見事なまでに完璧に重なった。


 ハモった声を聞いた拓海は、もう我慢できないといった様子で、パンッと手を叩いて大爆笑し始めた。


「ギャハハハ! 息ピッタリじゃん! いいよいいよ〜、最高に青春だねぇ! 占ってあげようか? 二人の相性。今ならサービスで、将来生まれる子供の数まで予言してあげるよ?」


「一ノ瀬くん、あまり悪ふざけが過ぎると、大家さんに報告しますよ?」


 九条さんが冷ややかな、しかし完璧にコントロールされた『お嬢様の警告』を放つ。だが、その頬が微かにプライドの高さゆえにピキついているのを俺は察知した。ここで拓海がこれ以上踏み込めば、彼女は学校での仮面を脱ぎ捨てて、このキッチンで再び十徳ナイフを抜きかねない。


「余計なお世話だ、拓海。ほら、からかってないで早く朝飯を食え。学校に遅れるぞ」


 俺は半ば強引に、拓海の前に手際よく盛り付けた朝食の皿をガツンと突き出した。


 出汁巻き卵、焼き鮭、そして炊き立ての白米。


「おっ、美味そう! じゃあいただきまーす!」


 飯を前にして、ようやく追及の手を緩めた拓海。その横で、九条さんもまた、お淑やかに箸を手に取り、「いただきます」と小さく呟いて食事を始めた。その所作は美しく、昨夜カップ焼きそばの汁を飛び散らせていた人間とは到底思えない。


 朝食を口にする完璧なアイドルの九条さんと、それを食べながらも、なおもニヤニヤと観察の視線を隠さない情報通の拓海。


(やれやれ……普通の人間がいないとは思ったが、初日の朝からこれかよ)


 俺の望む「平穏なモブライフ」への道のりは、想像以上に、そして絶望的なまでに険しそうだった。


 さらにこの時、俺は気づいていなかった。


 ダイニングの隅、薄暗い廊下へと続くドアの影から、もう一人の住人——毒舌で冷静な図書委員であり、裏では超売れっ子の恋愛小説家である羽鳥栞はとり しおりが、俺たちのやり取りを冷徹な目でじっと見つめ、手帳に何かを書き留めていることに……。

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