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すみれ荘には普通の人間がいない 〜元・天才フィクサーの平穏な日常は、深夜のキッチンで崩壊する〜  作者: リリリリス
【第一章:秘密を抱えた共犯者たち】

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第一話:深夜二時のキッチンには、高嶺の花が棲んでいる

 静寂が支配する深夜二時。 


 都心の路地裏、まるで時代のエアポケットに取り残されたかのような場所に、その洋館はひっそりと佇んでいる。


 蔦の絡まる古びた二階建て。それが俺の現在の根城であり、唯一の安息の地——シェアハウス『すみれ荘』だ。


 このすみれ荘には、入居の際に大家から提示される、たった一つの絶対的なルールが存在する。


 ——『住民のプライベートには深く立ち入らないこと』。


 お互いの素性や過去を詮索せず、適度な距離感を保って共同生活を送る。干渉を嫌う人間にとっては、これ以上ないほど理想的な環境だった。


「……よし、これで今週の廊下のワックス掛けは終わり、と」


 俺——相沢湊あいざわ みなとは、誰もいない薄暗い廊下で、手にしていた雑巾をバケツへと放り込んだ。


 額に浮かんだ汗をシャツの袖で拭い、ふう、と深く息を吐く。


 俺のここでの役割は、家賃を全額免除してもらう代わりに引き受けた『住み込みの掃除係兼、臨時の炊事係』だ。昼間はどこにでもいる冴えない、目立たない高校生。それが現在の俺が纏っている「表の顔」だった。


(二度と、あの血生臭い裏社会の揉め事には関わらない)


 バケツを持ち上げながら、俺は心の中で静かに誓いを新たにする。


 かつて裏社会において『神童』だの『天才フィクサー』だのと呼ばれ、大人たちの権力闘争や組織間の抗争を裏からコントロールしていた過去は、すべて捨て去った。あの欺瞞と暴力に満ちた世界に身を置き続ければ、いずれ心が摩耗して消えてしまう。だから俺は、すべての繋がりを断ち切り、このすみれ荘へと逃げ込んできたのだ。


 今の俺の至上命題は、この場所で「平穏なモブ」として、誰の記憶にも残らないような静かな生涯を終えること。


 このすみれ荘の『プライベート不干渉』というルールがある限り、俺のその願いは永久に保障されているはずだった。


 ……そう、本気で思っていたんだ。


 まさかその理想郷が、たった一人の少女の手によって、跡形もなく粉砕されることになるとは夢にも思わずに。


「……ふぅ、少し喉が渇いたな。麦茶でも飲むか」


 掃除用具を片付けた俺は、水分補給のために一階の共有スペースであるダイニングキッチンのドアへと手をかけた。


 時刻は深夜二時を回ったところ。他の住人たちはとっくに自室で眠りについているはずの時間だ。気兼ねなくドアノブを回し、部屋へと足を踏み入れた


——その、瞬間だった。


「しゃおらぁぁぁ! そこでフラッシュは温すぎるんだよ、この雑魚がぁ! 蜂の巣にしてやっからそこ動くんじゃねえぇぇぇ!!」


 鼓膜を激しく震わせる、凄まじい怒号。


 俺の身体は、反射的にその場で硬直した。かつて修羅場をいくつも潜り抜けてきた俺の警戒センサーが、一瞬で最大警戒レベルを弾き出す。


 薄暗いキッチン。換気扇の黄色い灯りだけがぼんやりと照らすその空間で、一人の少女がダイニングテーブルに胡坐あぐらをかいていた。


 彼女は猛烈な、それこそ指先から火花が散るのではないかというほどの勢いでスマホの画面をタップしている。


 着ているのは、いつの時代だよとツっ込みたくなるような、膝の抜けたヨレヨレの芋ジャージ。しかも胸元には何かの調味料のシミがついている。


 髪は本来なら美しいはずの黒髪ロングだが、今は寝癖と静電気で爆発しており、まるで落ち武者のような惨状だ。さらに、鼻の上に引っかけた眼鏡のフレームは、片方が痛々しくセロハンテープで補強されていた。


 テーブルの上には、汁の飛び散ったカップ焼きそばの空き容器と、数本の炭酸飲料の空き缶が乱雑に転がっている。


「あー、クソッ! 芋った上にエイム外すとかマジで脳みそ沸いてんのか!? 引退しろゴミ!!」


 口から吐き出される罵詈雑言の嵐。


 だが、俺が衝撃を受けたのはその汚い言葉遣いでも、凄まじいゲームへの執念でもない。


 薄暗い光の中に浮かび上がった、そのボサボサの髪の隙間から覗く、驚くほど整った顔立ち——。


(見間違い、じゃない。……嘘だろ?)


 俺の脳裏に、昼間の学校での彼女の姿が鮮明にフラッシュバックする。


 九条凛くじょう りん


 俺と同じ高校に通う、誰もが認める学園のトップアイドル。


 日本屈指の大財閥『九条グループ』の令嬢であり、成績は常に学年首席、品行方正で、誰に対しても女神のような優しい微笑みを絶やさない。常に凛とした美しさを崩さず、男子生徒からは近づくことすら許されない「高嶺の花」として神聖視されている、あの九条凛だ。


 学校での彼女の周囲には、常に羨望と畏怖の眼差しが向けられていた。歩くだけで薔薇の花びらが舞い散るかのような錯覚さえ覚えさせる、完璧超人の美少女。


 それが、どうだ。


 今、目の前で芋ジャージを着て、深夜二時にカップ麺を貪りながら画面に向かって発狂している生物は、どこをどう見ても同一人物には思えなかった。


「九条……さん?」


 あまりの衝撃に、俺は自分の気配を消すことすら忘れ、思わずその名前を呟いてしまっていた。


 刹那。猛烈な勢いで動いていた彼女の指が、ピタ、と完全に停止した。


 スマホの画面からは『YOU DIED』の真っ赤な文字が無情にも明滅し、静まり返ったキッチンを虚しく照らす。


 ギギギ、と錆びついた人形のような不自然な動きで、彼女の首がゆっくりとこちらへ回転を始める。


 ボサボサの髪の隙間から、限界まで見開かれた大きな瞳が、俺の姿を完全に捉えた。


「……あ」


 九条さんは、右手に箸を持ったまま、完全に凝固した。


 俺も、動けない。


 換気扇のブーーンという低い回転音だけが、二人の間に流れるシュールな沈黙を強調していた。


 時間にして、およそ十秒。


 先に動いたのは九条さんだった。彼女はゆっくりと、本当にスローモーションのような動きで箸をテーブルへと置いた。そして、鼻の上のテープ補強眼鏡をクイッと指で押し上げる。


 その瞳から、先ほどまでのゲームへの怒気は完全に消え去っていた。代わりに宿ったのは、信じられないほど冷徹で、地を這うような低い、底冷えするような光。


「……見たわね?」


「いや、何も見てない。俺は今、激しい幻覚を見ている。マボロシだ」


「嘘おっしゃい。ばっちり目が合ったわ。……確か、二号室の、相沢湊くん、だったかしら」


 九条さんは胡坐を崩し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。その際、芋ジャージのポケットからカチャリと金属音が響く。彼女が取り出したのは、なぜかドライバーやハサミがついた本格的な十徳ナイフだった。それをカチカチと不器用に弄び始めながら、じりじりと俺との距離を詰めてくる。


 目が、完全に据わっている。学校でのあの聖母のような微笑みは、微塵も、一粒子たりとも残っていなかった。


(やれやれ……とんだ『プライベート』を見ちまったな)


 俺は心の中で天を仰ぎ、深い、深いため息をついた。


 ここで怯えて命乞いをするのは簡単だ。しかし、相手はあの九条財閥の令嬢。ここで主導権を完全に握られ、弱みとして利用されるようなことになれば、俺の望む「平穏なモブライフ」は一瞬で崩壊する。


 ここは元フィクサーとして、冷静に交渉のテーブルにつくしかなさそうだ。俺はバケツをそっと床に置き、スッと背筋を伸ばして彼女の視線を受け止めた。


「安心しろ、九条さん。すみれ荘のルールは知っているだろ? 『住民のプライベートには深く立ち入らないこと』。俺は他人の秘密にこれっぽっちも興味はないし、明日学校で『九条凛の正体は芋ジャージの暴言ゲーム狂いだ』なんて言いふらす趣味もない。お互い、今夜のことは綺麗さっぱり忘れて、見なかったことにする。それがお互いにとって一番の利益メリットだろ?」


「ふうん……? 言いふらす趣味は、ないんだ」


 九条さんは俺の言葉に納得したような素振りを見せ……次の瞬間、手にした十徳ナイフをダイニングテーブルへと、カツン! と激しい音を立てて突き立てた。危ねえな、木製のテーブルに傷がつくだろ。


 そして彼女は、恐るべき俊敏さで俺との距離をゼロにした。


 ぐい、と俺のシャツの胸ぐらを掴み、至近距離から鋭い視線で睨みつけてくる。


 至近距離になったことで、ボロジャージからはジャンクフードの強烈な匂いと、それとは対照的な、女の子特有のほんのり甘いシャンプーの香りが混ざり合って漂ってきた。そのギャップが、妙に現実感を狂わせる。


「口先だけなら、なんとでも言えるわ。人間なんて、いつ裏切るか分からない生き物よ。特に私は、そういう裏切りをたくさん見てきたの」


 大財閥の令嬢ならではの、どこか冷ややかな現実主義。


 だが、俺の胸ぐらを掴む彼女の指先が、微かに震えているのを俺の目は見逃さなかった。


 強がってはいるが、彼女も必死なのだ。もしこの『裏の顔』が世間に露呈すれば、完璧なアイドルとしての九条凛は破滅する。彼女にとって、このすみれ荘のキッチンだけが、唯一息を抜ける解放区だったのだろう。


「だから——あなたが私を裏切らないという、絶対的な保証が欲しいのよ。相沢くん」


「保証、だと? 具体的にどうするつもりだ」


「簡単よ。今日からあなたは、私の『共犯者』になりなさい」


「……は?」


 共犯者。その不穏な響きに、俺の脳裏を最悪な予感がよぎる。


「私がここでこうしてジャンクに、誰にも邪魔されずに過ごすための環境を整えること。私の秘密を命がけで守ること。そして、時には私の手足となって動くこと。……要するに、私の専属パシリ(奴隷)になりなさいってことよ」


「おいおい、それは共犯者じゃなくて、ただの主従関係だろ。誰がそんな不平等条約に——」


「拒否権はないわ」


 九条さんはニヤリと、それこそ悪魔のような不敵な笑みを浮かべた。その顔は、ボサボサの髪と補強眼鏡のせいで、どこか小悪魔というよりは生意気なガキのようにも見えたが、言っている脅迫の内容は一級品だった。


「もし断ったら……あなたが深夜、掃除係という立場を利用して、女子の部屋を覗こうとしたり、キッチンで一人でいた私を襲おうとした不審者だって、明日の一時間目が始まる前に学園中に言いふらしてあげる。大財閥の令嬢である私の言葉と、冴えないモブのあなたの言葉。学園の人間がどちらを信じるか……試してみる?」


「……っ」


 無茶苦茶な、あまりにも凶悪な冤罪のカード。


 だが、彼女が本気でそれを実行すれば、俺の「目立たないモブライフ」は一瞬で終了し、社会的な死を迎える。元フィクサーとしての知識が、この状況での最善手は「これ以上の交渉の決裂を避けること」だと告げていた。


 完璧超人アイドルの裏の顔は、驚くほどガキで、信じられないほどズボラで、そして最高に厄介な女王様だった。


「……分かったよ、お嬢様。その条件、飲んでやる」


 俺が両手を軽く挙げて降伏の意を示すと、九条さんはパッと俺の胸ぐらを離し、満足そうに胸を張った。


「物分かりが良くて助かるわ、相沢くん。……じゃあ早速なんだけど、共犯者としての初仕事よ。ゲームしすぎて喉がカラカラだから、近くのコンビニで炭酸飲料、買ってきて。もちろん、冷え冷えのやつね」


「今さっき条件を飲んだばっかりだろ! 少しは余韻を持たせろ!」


「何言ってるの? 鉄は熱いうちに打て、よ。ほら、早く行ってきて。あ、あとポテトチップスのコンソメ味も追加で」


 九条さんは再び椅子にドカ座りすると、早くもスマホの画面を起動し、次のマッチングを探し始めていた。


 俺は床のバケツを拾い上げ、もう一度、今度は世界の終わりを悟ったかのような深いため息をついた。


 こうして、俺が血に飢えた過去を捨ててまで手に入れたはずの「平穏な日常」は、深夜二時のキッチンであっけなく、文字通り音を立てて崩壊したのだった。


 だが、この時の俺は、まだ本当の意味での絶望を知らなかった。


 この閉鎖的なシェアハウス『すみれ荘』に潜む異常な人間が、目の前のゲーム狂いのお嬢様だけではないということを——。


 そして、そのすべての秘密が、巡り巡って俺の元へと集まってくることになるなど、この時の俺は知る由もなかったのだ。

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