第三十一話:奇跡の確率(アベレージ)と肉汁大決壊の極厚鉄板デミグラスハンバーグ
模試の熱気が去った白蘭学園は、週末の夕暮れ時特有の寂寥感に包まれていた。
生徒会室の窓外には、紫色の夜霧がゆっくりと這い上がってきている。カチ、カチと規則正しく鳴り響く柱時計の音の中、生徒会長・西園寺玲王は、一枚のプリントを俺の目の前の机に静かに滑らせた。
それは、先日行われた冬季校内模試の、俺——相沢湊の個人成績表だった。
「相沢くん。君に一つ、数学の確率論に関する質問をしたいんだがね」
西園寺は、細い指先で銀縁眼鏡のブリッジを押し上げながら、射抜くような視線を俺に向けてきた。
「全校生徒が受ける模試において、特定の生徒が『数学』『英語』『国語』のすべての科目で、学年平均点と一の位まで完全に一致する確率。……君は、これがどれほどの奇跡か理解できるかい?」
成績表に印字された俺の点数は、全科目見事に平均点ピッタリ、あるいはコンマ数点のズレを四捨五入した位置に美しく着地していた。
西園寺が仕掛けた大学レベルの数学の超難問を、部分点だけを狙ってわざと間違えるという、あの極限の精密計算。奴はその不自然すぎる「完璧な偶然」に、猛烈な違和感を抱いていた。
「いやあ、西園寺会長。僕、本当に運が良かっただけですよ。マークシートの神様が微笑んでくれたというか……僕みたいな凡人、勘だけが頼りですから」
俺はわざとらしく頭を掻き、いかにも「自分の幸運に驚いているだけの馬鹿なモブ」の笑みを浮かべた。
「勘、か。だがね、私の仕込んだ『数学の最終問題』は、勘やマークシートの選択肢だけで部分点を掠め取れるような構造にはなっていなかった。……君はあの時、私の意図を完全に理解した上で、平均点という安全圏に逃げ込んだのではないかね?」
西園寺が立ち上がり、俺との距離をジリジリと詰めてくる。奴の手には、生徒会が管理する最高機密フォルダ——学園の過去の「不審生徒リスト」の入ったタブレットが握られていた。奴は俺の目の前でその画面を起動し、指先をパスワード入力画面へと滑らせた。
もし俺が、そのフォルダの価値や、奴が入力しようとしているセキュリティコードの脆弱性に一瞬でも目を動かせば、それだけで「裏の人間」としての反応を検知される。
(執念深い男だな。だが、お前の死角はすでに完全にハックされているんだよ)
俺はポケットの中で、特定のキーを三回タップした。
次の瞬間、生徒会室のスピーカーから、鼓膜を震わせるような激しいハウリング音と、校内放送の緊急アラートが鳴り響いた。
『あ、あれ!? マイクのスイッチが入っちゃった!? 誰か止めてぇー!』
放送室から響いてきたのは、九条凛のわざとらしい悲鳴と、それをもみ消そうと大騒ぎする一ノ瀬拓海たちのドタバタ劇の音だった。拓海が放送委員の機材を遠隔で誤作動させ、そこに九条さんが乱入して「ただのドジな生徒のトラブル」を演出したのだ。
西園寺の意識が、一瞬だけ天井のスピーカーへと向く。そのわずかコンマ五秒の隙に、俺の襟裏に仕込まれたインカムを通じて、羽鳥栞のタイピング音が滑り込んできた。
『——チェックメイトよ、西園寺くん。あなたがタブレットを起動した一瞬の電波を拾って、彼の端末内の「相沢湊監視ログ」の全データを、ただの白蘭学園の校歌の歌詞データに上書きしたわ。……せいぜい、自分の端末が壊れたと思って頭を抱えなさい』
西園寺がスピーカーへの警戒を解き、再びタブレットに目を落とした瞬間、奴の美しい眉が不自然に跳ね上がった。画面に表示されていたはずの緻密なプロットは消え去り、そこにはただ『白蘭の誉れ、高き理想を〜』という校歌の一節が無機質に並んでいた。
「……端末の不具合か。すまない、相沢くん。今日の審問——いや、お喋りはここまでにしよう。君はもう帰っていい」
西園寺は、自身の冷徹な論理が再び「ありふれた機械のバグ」によって霧散したことに、激しい屈辱と困惑を滲ませながら、静かに席に戻った。
俺はペコリと頭を下げ、足早に生徒会室を後にした。今日もまた、完璧なルーティンの中に、奴の包囲網を逆ハックしてやったのだ。
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夜十一時。
限界の一歩先を行く心理戦と、学園全体のノイズコントロールを終えてすみれ荘に帰り着いた俺は、リビングのドアを開けた。
そこには、戦いを終えて完全に燃え尽きた三人の姿があった。
「おかえり、相沢くん……。もう、放送室で大声を出すの、顔が真っ赤になっちゃって本当に恥ずかしかったんだから……。私のアイドルとしてのプライドが、別の意味で大決壊よ……」
九条さんが、ソファの上でクッションに顔を埋めながら、足をバタバタとさせて悶絶していた。
「俺も……放送室の配線を弄りながら、西園寺の端末の電波を中継するの、マジで指先が震えたぜ……。湊、今夜はもう、生きる気力が湧いてくるような、圧倒的な肉が食いたい……」
拓海が床の上で大の字になりながら、うわ言のように呟いた。
「……脳のブドウ糖が、完全にマイナスよ」
栞もまた、眼鏡を髪の上に上げたまま、ダイニングテーブルに突っ伏していた。
「西園寺くんの最高機密を瞬時に校歌へ変換するスクリプトなんて、私の脳細胞を半分焼き切ったわ。相沢くん、今夜は私たちのこの渇ききった魂に、濃厚なソースと、溢れ出る肉汁を容赦なく注ぎ込んでちょうだい」
三人の、限界を迎えた共犯者たち。
俺は、制服のブレザーを脱ぎ捨て、黒いエプロンをきつく締め直した。西園寺の包囲網を力技で破り続けた俺の身体もまた、今、圧倒的な肉の塊を求めていた。
「お前ら、最高の仕事だった。西園寺の仕掛けた確実な王手は、今夜もただのバグとして葬り去られた。……今夜は、そのすり減った神経を極上の旨味で満たす、すみれ荘至高のスタミナ飯だ。『特製・肉汁大決壊の極厚鉄板ハンバーグ 〜濃厚赤ワインデミグラスソース&とろける極濁チーズ〜』を作る」
その瞬間、死体のようだった三人の目が、ギラリと肉食獣のように輝いた。
ハンバーグ。それは、肉の配合、捏ねの技術、そしてソースの深み、そのすべてが完璧に調和して初めて、脳を狂わせる贅沢飯へと昇華する。
俺が冷蔵庫から取り出したのは、牛7:豚3の黄金比率で用意した、極上の粗挽き肉。
ボウルに肉を入れ、まずは塩だけを加えて、肉の繊維が完全に一本化し、強烈な粘り気が出るまで手の熱を伝えないよう素早く捏ね上げる。ここに、飴色になるまでじっくり炒めて完全に冷ました玉ねぎ、牛乳に浸したパン粉、卵、そしてナツメグと黒胡椒をたっぷりと投入。
さらに、味の最大のトリックとして、前夜から冷やし固めておいた「特製牛骨コンソメスープのゼラチン」を細かく刻んで肉餡の中に贅沢に練り込んでいく。これが、加熱された瞬間にスープへと戻る『肉汁の爆弾』の仕掛けだ。
両手の中でパン、パンと小気味良い音を立てて空気を抜き、厚さ約五センチの、ラグビーボールのような巨大なパテに成形していく。
熱した極厚の鉄板フライパンに、牛脂を溶かす。そこへ、主役である巨大な肉の塊を静かに滑り込ませた。
——ジャァァァァァァァァッッッ!!!
肉が激しい熱と出会った瞬間の、五感を狂わせるような爆音がキッチンに轟く。
最初は強火で表面を限界まで焼き固め、肉汁を閉じ込めるための美しい褐色のウェルダン・コーティングを施していく。溶け出した牛脂の甘い香りと、焦げた肉の香ばしさが、リビングの三人の鼻腔を容赦なく破壊した。
「うわあああ……! もうダメ、この匂いだけで白米が三杯いける……!」
と、拓海が狂ったように叫ぶ。
両面に完璧な焼き色をつけたら、赤ワインを豪快に回し入れ、即座に重い蓋をして蒸し焼きにする。フライパンの中で赤ワインの蒸気が肉を包み込み、内部のゼラチンをじっくりと、極上のスープへと溶かしていく。
肉に完全に火が通ったところで、仕上げの「特製赤ワインデミグラスソース」だ。
肉を取り出したフライパンに残る、濃厚な牛脂と肉汁の中に、じっくり煮込まれたデミグラスソース、バター、そして隠し味のハチミツと醤油を投入。一気に強火で煮詰め、フライパンの底の旨味をすべてソースへと溶かし込んでいく。
——ジュワジュワジュワッ!!!
ソースが泡立ち、濃密な漆黒のタレへと変化していく。そこへ、別鍋でトロトロに溶かしておいたモッツァレラとチェダーの「極濁ミックスチーズ」を上からこれでもかと豪快に叩きつけた。
「よし、冷めないうちに、ナイフを入れろ」
一人前の鉄板皿に盛られたハンバーグは、まるで熱い溶岩を纏った巨大な岩石のようだった。艶やかなデミグラスソースの海の中心で、とろけるチーズがグツグツと不穏な泡を立てている。
三人は、限界を迎えた胃袋に突き動かされるように、一斉にナイフを肉の真ん中へと滑らせた。
すうっ、と何の抵抗もなく刃が通り、肉が切り裂かれた、その瞬間。
——ドプシャァァァァッッッ!!!
切り口から、透明で美しい肉汁の鉄砲水が、文字通り大決壊して鉄板の上に噴き出した。ジュワァァァ! という激しい音と共に、肉汁がデミグラスソースと混ざり合い、最高のスープへと変貌していく。
九条さんが、チーズとソースをこれでもかと絡めた大きな一切れを、大きな口を開けて頬張った。
彼女の動きが、完全に停止する。あまりの美味さに、脳の全神経がシャットダウンされたかのような表情だ。
「————っっっ!!! んんん〜〜〜〜〜っっっ!!! 決壊したぁぁぁ、お肉の旨味が口の中で大爆発しちゃったよ、相沢くん!」
九条さんが、両頬を抑えて、幸せのあまり身悶えしながら叫んだ。
「お肉を噛んだ瞬間に、閉じ込められていた牛骨スープと肉汁が、じゅわぁぁぁってお口いっぱいに広がるの! 赤身のガツンとした歯ごたえがあるのに、中は信じられないくらいジューシーで……それにこのデミグラスソース! 赤ワインの深い渋みとバターのコクが、とろっとろのチーズと合わさって、もう、悪魔的な美味しさよ! ご飯が、ご飯の生存戦略が完全に崩壊しちゃう!」
「うおーっ、美味すぎる!! 湊、この肉汁の量はマジで犯罪的だろ!」
拓海が、額の汗を拭うのも忘れて、タレと肉汁がダクダクに染みた白米ごとハンバーグを豪快に口に放り込んでいる。
「この濃厚なソースの中に、醤油のキレがあるから、これだけ重厚なのに全然飽きがこねえ。学校での西園寺との化かし合いでヘトヘトだった身体に、このスタミナがガツンと効いてくる!」
「……至高のシナリオね」
栞もまた、とろけるようなハンバーグを口に運び、恍惚とした表情で眼鏡を曇らせていた。
「肉餡の中にスープを仕込むという『計算されたトリック』と、それを赤ワインのソースで包み込むという『完璧な演出』。西園寺くんがどれだけ冷徹な罠を仕掛けようとも、このハンバーグの持つ、圧倒的な温かさと旨味の層の前には、彼の論理思考などただの平坦な文字列に過ぎないわね。この共犯関係は、何があっても揺るがないわ」
深夜のすみれ荘に、ただひたすらに肉を味わい、白米を掻き込む幸福な咀嚼音だけが響き渡る。
俺自身も、自分の分のハンバーグを口に運び、その突き抜けるような美味さに小さく息を吐いた。
濃厚なデミグラスソースと、口の中でジュワリと広がる肉汁の圧倒的なコク。それが脳の隅々にまで染み渡り、張り詰めていた神経が心地よく解きほぐされていく。
西園寺玲王。お前は俺たちの過去や正体を暴き、孤独なシステムの中に囲い込もうとしている。だが、お前がどれだけ網を絞ろうとも、俺たちにはこの食卓がある。同じ飯の美味さに感動し、互いの窮地を笑いながら救い合う、この歪で、けれど絶対に壊れない絆がある。
お前がチェス盤を睨みつけている間に、俺たちはこのキッチンの熱気と共に、お前の想像もしない「外側」から、いつでもその完璧な世界をハックしてやるさ。
「おい、九条さん、ソースをご飯にかけすぎるな。おかわりはまだ厨房にあるからな」
「はーい! でもこのソースが美味しすぎて、ご飯の手が止まらないのよ!」
「あはは、俺もおかわり! 湊、明日の西園寺の顔、今から楽しみだな?」
「……私の小説の第六章は、西園寺くんの完全なる迷宮入りで決定ね」
夜が更けていくすみれ荘。
窓の外では冬の寒風が冷たく吹き荒れているが、このダイニングテーブルを包むハンバーグの熱気と、共犯者たちの暖かな笑い声は、どんな策謀の影をも寄せ付けないほどに、どこまでも熱く、力強く燃え上がっていた。




