第三十話:盤上のサンプリングと脳を焦がす極上スパイス焼きカレー
凍てつくような冬の朝、白蘭学園の教室は、全校生徒が挑む「冬季校内模試」の独特な緊張感に包まれていた。
暖房の唸り声だけが響く静寂の中、生徒たちは一言も発さず、ただ目の前の問題冊子とマークシートに向き合っている。
俺——相沢湊は、窓際の席でシャーペンを規則正しく動かしながら、心の中で冷徹なカウントダウンを行っていた。
今回の模試は、生徒会長・西園寺玲王が俺を完全に仕留めるために用意した、文字通りの「処刑台」だった。
俺が過去のテストで常に学年平均点ピッタリを維持していることに気づいた西園寺は、今回、俺の席の冊子にだけ、不正スレスレの恐るべき罠を仕込んでいたのだ。
「(相沢くん、聞こえる? 事前に対策した通り、あなたの冊子の数学の最終問題だけ、大学入試レベルの『未履修の超難問』に差し替えられているわ)」
試験開始前、耳裏の極小インカムから聞こえてきた羽鳥栞の警告。
西園寺の狙いは極めてシンプルかつ残忍だった。もし俺がその難問を解けば、普通の高校生には不可能な知識を持っている=「天才フィクサー」としての正体が証明される。逆に、解けずに白紙で出せば、他の問題がどれだけ完璧でも点数が大幅に下がり、俺の「常に平均点」という不気味な統計データが崩壊する。どちらに転んでも、俺の「平穏なモブライフ」は終わるというわけだ。
(相変わらず、容赦のない男だな……。だが、お前は俺の『共犯者たち』の優秀さを完全に見くびっている)
キィィィン、と校庭から拡声器のハウリングのような高周波のノイズが微かに響いた。
それは、一ノ瀬拓海が仕掛けた「周波数ハッキング」の合図だった。拓海は今日、試験会場の周囲に配置した情報屋たちを使い、リアルタイムで各教室の優秀層の「鉛筆の進み具合」と「退室者の数」をサンプリングしていた。そのデータを集約し、栞が超高速で「現在の学年予想平均点」を弾き出しているのだ。
そして、俺の視線の先。廊下側の席に座る九条凛が、わざとらしく大きく伸びをした。
彼女のブレザーの袖が動く回数、そしてシャーペンを机にコツンと叩くリズム。それこそが、栞から送られてきた「現在のリアルタイム平均点:64・2点」という暗号データだった。
「……フゥ」
俺は小さく息を吐き、問題冊子の最終ページを開いた。そこには、西園寺がほくそ笑みながら印刷させたであろう、悪魔のような数式が並んでいる。
元・天才フィクサーの俺にとって、この程度の大学レベルの数式を解くこと自体は造作もない。問題なのは、この難問を「自力で完璧に解き明かしながら」、全体の平均点である『64点』に自分の合計点数がぴったり着地するよう、「わざと部分点だけを狙って間違える」という、極限の精密計算を行うことだった。
カリカリカリカリ……!
俺の指先が、残像を残すほどの速度で計算式を紡ぎ出していく。脳の全細胞がフル回転し、熱を帯びていくのが分かる。
この公式は展開するが、あえて最後の計算で単純な符号ミスを装う。この設問は正解させるが、記述の日本語を不自然に省略して2点だけ減点させる——。
西園寺が敷いた完璧な論理の檻の中で、俺はその檻のパーツを一つずつ弄び、彼が最も予想し得ない「完璧な凡人」の点数へと、力技で引き戻していく。
試験終了のチャイムが鳴り響いたとき、俺の額からは一筋の汗が流れ落ちていた。
数日後、職員室のパソコンの前で、西園寺玲王は我が目を疑うことになるだろう。相沢湊の数学の点数:64点。学年平均点:64点。奴が仕掛けた絶対的な罠すらも、ただの「奇妙な偶然」の濁流の中に押し流され、消え去ったのだ。
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夜十時。
極限の脳内サンプリングと、神経を極限まで摩耗させる暗算を終えてすみれ荘に帰り着いた俺は、リビングのドアを開けた瞬間に、その場にへたり込みそうになった。
リビングの惨状は、俺以上に深刻だった。
「……あうぅ……。頭が……頭が割れるように痛いよ、相沢くん……。試験中に、周囲の音を気にしながら相沢くんに暗号を送るの、心臓がバクバクして死ぬかと思ったんだから……」
九条さんが、ソファの上で毛布にくるまりながら、涙目で頭を抱えていた。
「俺も……極寒の校庭で、試験の邪魔にならないようにギリギリの電波ノイズを調整し続けて、指の感覚が完全にねえよ……。星の巡りも『今夜は燃え尽きる』って出てるし……」
拓海がストーブの真ん前で、完全に灰のようになって転がっている。
「……私の脳のシナプスも、完全に焼き切れたわ」
栞もまた、ブルーライトカット眼鏡を外したまま、ダイニングテーブルに突っ伏していた。
「学園中の生徒の解答速度からリアルタイムで平均点を予測するプログラミングなんて、国家機関のハッキングより疲れるわ。相沢くん……今夜は、私たちのこの限界を迎えた脳と、凍えきった肉体を、強烈な刺激と脂で強制覚醒させてちょうだい……」
三者三様の、限界を超えた共犯者たち。
俺は、制服のネクタイを緩め、黒いエプロンをきつく締め直した。西園寺とのチェスゲームの最終盤、俺の脳もまた、強烈な糖分と、それを爆発させるスパイスを欲していた。
「お前ら、よくやった。西園寺の仕掛けた処刑台は、今度こそ木っ端微塵に砕け散った。……今夜は、そのすり減った脳細胞を、一瞬で至福の頂へと引き上げる究極のスタミナ飯だ。『極上トロトロ牛すじ煮込みの本格スパイス焼きカレー』を作る」
そのメニュー名が響いた瞬間、死体のようだった三人の身体が、ピクリと反応した。
焼きカレー。それは、何時間もかけて煮込んだ肉の旨味と、数十種類のスパイス、そしてとろけるチーズがオーブンの中で一体となる、冬の夜に許された最高の背徳飯だ。
俺は、前日から極秘裏に仕込んでおいた大鍋の蓋を開けた。
中に入っているのは、厳選された国産牛のすね肉と、プルプルの牛すじ肉だ。ネギの青い部分と生姜、そして大量の酒で三回にわたって丁寧に下茹でし、余分な脂と臭みを完全にシャットアウトしたものだ。
それを、飴色になるまで丸一日炒め続けた大量の玉ねぎ、すりおろしたリンゴ、そしてトマトペーストと共に、さらに数時間煮込んである。肉の繊維はすでに原型を留めないほどに解け、スープ全体が濃厚な肉の絨毯のようになっている。
そこへ、俺が独自に調合した12種類のスパイスを投入する。
気付け薬となるクミンとコリアンダー、鮮やかな色を出すターメリック、ガツンとした辛味のチリペッパー、そして脳の血流を一気に促進させるカルダモンとガラムマサラ。
——シュワワワワァァァッッッ!!!
鍋にスパイスが加わった瞬間、深夜のキッチンに、脳を直接殴りつけるような、強烈で芳醇なエキゾチックの香りが爆発した。香りを嗅いだだけで、頭の芯がカッと熱くなるような、圧倒的な熱量を持った匂いだ。
「……すごい。この匂いだけで、私の頭痛が消えていくみたい……」
栞が、吸い寄せられるようにカウンターの向こう側から覗き込んできた。
「ここからが本番だ。焼きカレーの真髄を見せてやる」
俺は、耐熱性の深皿に、あらかじめ硬めに炊き上げておいた、バターとほんの少しのコンソメを纏わせた「特製ライス」を敷き詰めた。
その上から、牛すじの旨味がドロドロに溶け込んだ熱々のカレーソースを、溢れんばかりにたっぷりと注ぎ入れる。中央にスプーンで小さなくぼみを作り、そこへ新鮮な生卵を静かに落とした。
仕上げに、全体を覆い隠すように、2種類のチーズをこれでもかと贅沢にトッピングする。コクと香ばしさを出すチェダーチーズと、圧倒的な伸びを生むモッツァレラチーズだ。
それを、あらかじめ250度に予熱しておいたオーブンへと滑り込ませた。
——チチチチチ……ゴォォォォッ。
オーブンのガラス窓の向こうで、チーズが熱によってまたたく間に溶け、グツグツと泡立ち始める。カレーのスパイスと、チーズの焦げる香ばしい匂いが混ざり合い、リビングの食欲を最高潮へと煽り立てる。
表面に美しいきつね色の焼き目が刻まれた瞬間、俺はミトンをはめて、その灼熱の皿を取り出した。
——グツグツグツグツ……!!!
「完成だ。火傷しないように、スプーンで豪快にかき混ぜて食え」
ダイニングテーブルに並べられた四つの焼きカレーは、まるで小さな火山のようだった。香ばしく焦げたチーズの海の中心で、半熟の卵黄がトロリと輝いている。
三人は、限界を迎えた胃袋に突き動かされるように、一斉にスプーンを突き立てた。
サクッ、と焦げたチーズの層が破れ、中から熱々のスパイスの湯気と、濃厚な牛すじカレーが姿を現す。九条さんが、卵黄とチーズをこれでもかと絡めた大盛りの一口を、ふうふうと必死に息を吹きかけてから、口へと放り込んだ。
次の瞬間、彼女の身体がビクッと硬直した。
「————っっっ!!! んんん〜〜〜〜〜っっっ!!! 脳みそが、脳みそがとろけちゃうよ、相沢くん!」
九条さんが、あまりの美味さに両目を固く閉じ、幸せのあまり涙を浮かべながら絶叫した。
「お口に入れた瞬間に、スパイスの爽快な辛さがシャキーンって脳を突き抜けるのに、そのあとすぐに、何時間も煮込まれた牛すじのコラーゲンと、お肉の濃厚な甘みがじゅわぁぁぁって追いかけてくるの! そしてこのチーズ……! 焦げたところがカリカリで香ばしくて、半熟の卵と合わさると、信じられないくらいマイルドになって……もう、スプーンを動かす手が止められないわ!」
「うおーっ、熱い! でも美味すぎる!! 湊、このカレー、マジで反則だって!」
拓海が、額から滝のような汗を流しながら、もの凄いスピードで焼きカレーを口に掻き込んでいる。
「スパイスの刺激で、凍えてた身体の芯からドバドバ汗が出てくるぜ! 牛すじが口の中で噛まなくても解けていくから、いくらでも胃袋に吸い込まれていく!」
「……至高のアンサー(解決編)ね」
栞もまた、熱気の向こうで、至福の表情でスプーンを動かしていた。
「西園寺くんが仕掛けてきた、冷徹で緻密な暗号。それを解き明かした私たちの脳に、このスパイスの刺激と、圧倒的な肉の糖分がこれ以上ない形で染み渡っていくわ。複雑なロジックをすべて力技でひれ伏させるような、圧倒的な旨味の暴力。これを食べるためなら、私は明日から何度でも、彼のシステムをハックしてみせるわ」
深夜のすみれ荘に、ただひたすらに熱いカレーを味わい、汗をかきながらスプーンを動かす幸福な咀嚼音だけが響き渡る。
俺自身も、自分の分の焼きカレーを口に運び、その突き抜けるような美味さに、小さく満足の笑みをこぼした。
ガツンとくるスパイスのキレと、牛すじの濃厚なコク。それが焦げたチーズの香ばしさと完璧に調和して、一日中超人並みの暗算を続けた俺の脳を、最高に心地よく癒していく。
生徒会長・西園寺玲王。お前は俺たちを暴くために、あらゆる手段を講じてくる。だが、お前がどれだけ完璧な罠を仕掛けようとも、俺にはこの食卓がある。同じ飯の美味さに感動し、互いの窮地を笑いながら救い合う、この歪で、けれど絶対に壊れない絆がある。
お前が孤独にチェス盤を睨みつけている間に、俺たちはこのキッチンの熱気と共に、お前の想像もしない「外側」から、いつでもその完璧な世界をハックしてやるさ。
「おい、九条さん、皿の底まで綺麗に食べろよ。おかわりはまだ大鍋にたっぷりあるからな」
「はーい! 浮腫みなんて気にしない! あと三杯はおかわりできるわ!」
「あはは、俺も! 湊、明日の西園寺の採点結果の顔、今から楽しみだな?」
「……私の小説の第五章は、西園寺くんの完全なる絶望で幕を開けることにするわ」
夜が更けていくすみれ荘。
窓の外では冬の寒風が冷たく吹き荒れているが、このダイニングテーブルを包む焼きカレーの熱気と、共犯者たちの暖かな笑い声は、どんな策謀の影をも寄せ付けないほどに、どこまでも熱く、力強く燃え上がっていた。




