第二十三話:完全犯罪の体育祭と、勝利を告げる極上カツ丼
抜けるような秋晴れの空の下、白蘭学園のグラウンドには吹奏楽部のファンファーレと、数千人の生徒たちが放つ熱気が渦巻いていた。
学園最大のイベント『体育祭』。
普段なら、俺——相沢湊にとっては、極力体力を温存し、誰の記憶にも残らないようモブとして風景に同化するための退屈な行事だ。しかし今日だけは違う。
グラウンドを見下ろす特等席、白テントで覆われた『本部席』には、学園の最高権力者である生徒会長・西園寺玲王が鎮座し、グラウンドの各所に設置された監視カメラのモニターを鷹のような目で睨みつけているのだから。
「さあ、第一種目、三年生女子による百メートル走です! 注目はなんといっても、我が学園の絶対的ヒロイン、九条凛選手——っ!」
放送委員の実況が響き渡る中、スタートラインに立った九条さんが、応援席に向かって眩しすぎる笑顔で手を振った。その瞬間、グラウンド全体から地鳴りのような歓声が沸き起こる。
昨夜のハンバーグでスタミナを限界まで充填した彼女は、一切の疲労を感じさせない。ピストルの音が鳴った瞬間、彼女は美しいフォームで飛び出し、圧倒的なスピードでトラックを駆け抜け、見事一着でゴールテープを切った。
その直後、俺の耳に仕込んだ超小型のインカムから、一ノ瀬拓海のチャラい、しかし余裕に満ちた声が聞こえてきた。
『(指揮官、こっちの配置は完璧だぜ。本部テントの斜め前、西園寺の視線のど真ん中に、他校から偵察に来た女子高生たちと、うちのクラスの女子を大量に集めて「イケメン占い師・拓海の青空鑑定会」を開催中。これでもう、西園寺はグラウンドを直接目視できない)』
「(了解だ。そのままファンミーティングを継続しろ。絶対に退かすなよ)」
グラウンドの端、用具係として石灰のライン引きを持ったまま、俺は低く呟いた。
拓海が物理的な視界を塞いだことで、西園寺が頼れるのは手元のモニターだけになる。だが、そのデジタルな監視網はすでに俺たちの支配下にあった。
『(相沢くん。西園寺くんのパソコンのネットワーク、完全に掌握したわ)』
今度は、日陰の救護テントの裏で「気分が悪くて休んでいる文学少女」を演じている羽鳥栞からの通信だ。
『(九条さんが少しでも人間離れした動き……例えば疲労を無視した異常な反射神経を見せたり、あなたが影で暗躍する素振りを見せた瞬間、カメラの映像に2・5秒の遅延とブロックノイズを発生させているわ。彼の目には、ただの「機材トラブルで肝心なところが見えない映像」にしか映らないはずよ)』
「(上出来だ。お前は引き続き、カメラの死角になる位置取りを俺たちにナビゲートしろ)」
俺は石灰の粉を撒きながら、本部テントをチラリと盗み見た。
テントの中では、西園寺が忌々しそうにモニターを叩き、インカムで放送委員に怒鳴っている姿が見えた。完璧にコントロールされているはずの学園という箱庭で、彼の視界だけが、まるで見えない手によって黒く塗りつぶされていく。俺たち「すみれ荘の共犯者」による、学園全体を巻き込んだ壮大な完全犯罪だ。
体育祭は中盤戦、そして最終盤の「クラス対抗リレー」へと突入した。
九条さんは、アンカーという最も目立つポジションに配置されていた。ここまで完璧なアイドルを演じきってきた彼女だが、度重なる競技への出場と、実行委員としての裏方仕事の疲労が、ここにきてついにピークに達しようとしていた。
『(……相沢くぅん……。足が……もう、乳酸でパンパンよぉ……。笑顔の筋肉も、引きつってきちゃった……)』
インカムから、九条さんの泣きそうな声が届く。
「(耐えろ。お前は学園の向日葵だ。ここで倒れたら、すべてが水の泡だぞ)」
『(分かってるけどぉ……っ!)』
バトンが、次々と渡されていく。九条さんのクラスは現在二位。トップとは数メートルの差がある。
そして、九条さんの前にバトンを持った走者が現れた。九条さんが走り出す。しかし、疲労からか、バトンを受け取るその瞬間、彼女の足元が微かに縺れたのが見えた。
(……マズい!)
このままでは派手に転倒する。それだけなら「ドジなアイドル」で済むが、彼女の運動神経の良さと疲労のアンバランスさは、西園寺の鋭い目に「何か裏がある」と確信させるのに十分なノイズだ。
俺は、用具係の腕章をつけたまま、誰にも不自然に思われない速度で、しかし最短距離でバトンパスのエリアへと移動した。
『(相沢くん、第4カメラの死角に入るまで、あと1・2秒よ!)』
栞の的確なナビゲート。
俺は歩きながら、手に持っていたライン引きの石灰を、ほんのわずかだけ、だが意図的な角度でグラウンドにこぼした。そして、転倒しかけた九条さんの死角に入るように立ち止まり、背中で彼女の視界をほんの一瞬だけ遮りながら、足元で石灰を蹴り上げた。
舞い上がった白い粉が、九条さんの目に一瞬の目眩しと「風」の錯覚を与える。
その瞬間、九条さんのゲーマーとしての異常な反射神経が、無意識に姿勢を立て直した。
傍目には、強い風で石灰が舞い上がり、九条さんがそれに驚いて体勢を変えたようにしか見えない。見事なバトンパスが完了し、九条さんは最後の力を振り絞って猛然とダッシュを開始した。
『(カメラ映像、ノイズ処理完了。西園寺くんの画面には、砂埃で一瞬見えなくなった映像しか残っていないわ)』
「(よし。完全犯罪成立だ)」
グラウンドを駆け抜けた九条さんは、そのままトップの走者を抜き去り、大歓声の中でゴールテープを切った。
本部テントでは、西園寺が両手を机につき、信じられないという顔でグラウンドを見つめていた。彼の「完璧な監視網」は、ただの女子高生たちの黄色い声援と、機材の不調と、偶然舞い上がった石灰によって、見事に無力化されたのだ。
——そして、日の短い秋の夕暮れ。
体育祭の片付けを終え、誰もいなくなった通学路を、俺たちは四人揃って歩いていた。
「……死ぬ……。今度こそ、本当に死ぬ……。もう一歩も歩けないわ……」
九条さんは、俺と拓海の肩に両腕を回し、完全に足を引きずっていた。学校から一歩出た瞬間にアイドルの仮面は粉々に砕け散り、芋ジャージに着替える気力すらないボロボロの抜け殻になっている。
「九条さん、マジでお疲れ。最後のリレー、めちゃくちゃカッコよかったぜ。俺の星の導きも『今日は完全勝利』って出てるし」
「一ノ瀬くん、あなたのファンミーティングのせいで、私のハッキングのタイミングが何度か狂いそうになったのよ。でも……まあ、今回は全員の連携が完璧だったと認めてあげるわ」
栞もまた、冷たい顔を保ちながらも、その口元には確かな達成感の笑みが浮かんでいた。
「勘違いするな。お前らがポンコツだから、俺が裏から手綱を握ってやっただけだ。……だが、まあ。西園寺の顔は傑作だったな」
俺のその言葉に、四人の間にどっと笑い声が弾けた。
夕日に染まる帰り道、すみれ荘という帰るべき場所へ向かうこの足取りが、今は何よりも心地よかった。
玄関のドアを開け、リビングに倒れ込んだ三人を放置し、俺は真っ先にキッチンへと向かった。
黒いエプロンを締め、冷蔵庫を開ける。
激闘を終え、心身ともに極限まで削られた彼らのために用意すべきメニューは、一つしかない。脳にダイレクトに糖分と塩分を叩き込み、肉体の細胞を強制的に蘇らせる、最強のスタミナ飯。
「お前ら、這ってでもダイニングテーブルにつけ。……今夜は『極上・黄金出汁の特大カツ丼』だ」
その名前が出た瞬間、死体のように転がっていた九条さんが、カッ!と目を見開いて立ち上がった。
俺の調理が始まる。
まずは、厚さ三センチはあろうかという国産の特上豚ロース肉。脂身と赤身の境界にある筋を包丁の刃先で細かく断ち切り、肉叩きで繊維を優しくほぐしていく。塩と粗挽き黒胡椒で下味をつけ、小麦粉、溶き卵、そして粗めの生パン粉を、空気をまとわせるようにふんわりと、しかし隙間なくまぶす。
鍋にたっぷりと注いだ油の温度は、百六十度。やや低めの温度で、肉の芯までじっくりと火を通していく。
——シュワワワワァァァ……。
パン粉が油の中で弾ける小気味良い音が、静かなキッチンに響き渡る。表面が狐色に染まり、箸先から微かな振動が伝わってきたところで、油から引き上げ、余熱で最後の火入れを行う。包丁を入れると、「サクッ! ザクッ!」という、脳の快楽中枢を直接刺激するような極上の音が鳴った。
次は、カツ丼の命である「ツユ」だ。
昆布と血合い抜きの鰹節で引いた、えぐみの一切ない透き通った一番出汁。そこに、熟成された濃口醤油、本みりん、そして少量の三温糖を加え、火にかける。甘辛く、しかし出汁の香りが際立つ黄金の液体だ。
専用の親子鍋にツユを張り、薄切りにした玉ねぎを透き通るまで煮込む。玉ねぎがツユの旨味をたっぷりと吸い込んだところに、先ほど切り分けた特大のトンカツを、崩れないようにそっと並べる。カツの衣の底がツユを吸い、ジュワッと音を立てた。
「……相沢くん。その匂い、私の理性をこれ以上削らないで。原稿の締め切り前よりお腹が空いて狂いそうよ」
カウンターから栞が恨めしそうに覗き込んでいる。
「待て。カツ丼の魔法は、ここからだ」
俺はボウルに、一人当たり二個の新鮮な卵を割り入れた。
かき混ぜるのは、菜箸で十字を切るように、たったの三回だけ。白身のコシを完全に残すのがポイントだ。
沸騰するツユとカツの上へ、卵液の『三分の二』だけを、円を描くように流し入れる。白身が熱で白く固まり始め、カツと玉ねぎをしっかりとホールドしていく。
そして、火を止める直前。残りの『三分の一』の卵液を回し入れ、即座に蓋をして十秒間だけ蒸らす。これで、下はしっかりと火が通って味が染み、上は限界までトロトロの半熟という、完璧な二層構造の卵とじが完成するのだ。
どんぶりに、炊きたての硬めの銀シャリをたっぷりよそい、その上に親子鍋からカツを滑らせる。
——ドスッ、という重みのある音と共に、どんぶりが黄金色の光で満たされた。仕上げに、香り高い三つ葉を中央に高く盛り付ける。
「完成だ。冷める前に食え」
テーブルに並べられた四つのどんぶり。
九条さんたちは、もはや言葉を発する余裕もなく、割り箸を割ってどんぶりに喰らいついた。
サクッ、ジュワァァァッ。
「——っっっ!!! なにこれぇぇぇっ!!!」
九条さんが、口の周りにご飯粒をつけながら絶叫した。
「衣の上の部分はサクサクなのに、下の部分は甘辛いお出汁を限界まで吸ってて、噛んだ瞬間にお肉の旨味と一緒に口の中で爆発したわ!! 豚肉が信じられないくらい柔らかい! そしてこの卵……! トロトロの黄身がご飯に絡みついて、もう飲み物みたいに胃袋に吸い込まれていくの!!」
「ヤバいヤバいヤバい!! 湊、これ俺の人生で食ったカツ丼の中でダントツのナンバーワンだよ! 玉ねぎの甘さと三つ葉の香りが、油の重さを全部リセットしてくれるから、箸が無限に止まらない!!」
拓海が、どんぶりを片手に持ち上げたまま、猛烈な勢いで米を掻き込んでいる。
「……圧倒的ね。西園寺くんの張り巡らせた策謀の糸なんて、このカツの分厚い肉感と出汁の暴力の前に比べれば、細い蜘蛛の糸ほどの価値もないわ。これを食べるために、私は今日一日、日陰でハッキングに徹したと言っても過言ではないわね」
栞もまた、普段の冷静さを失い、熱気で頬を紅潮させながらカツを頬張っている。
三人が無心でどんぶりと向き合う姿を見つめながら、俺も自分のカツ丼に箸を入れた。
サクサクの衣と、出汁を吸ったふんわりとした衣のコントラスト。豚肉の野性味あふれる脂の甘さが、醤油とみりんの深いコクと完璧に調和している。
激しい戦いの後に食べる、温かく、暴力的なまでに美味い飯。
フィクサー時代には、決して味わうことのなかった種類の幸福感が、熱いツユと共に胃の腑へと落ちていった。
「……おかわりはあるから、喉に詰まらせるなよ」
俺の言葉に、三人がどんぶりから顔を上げ、満面の笑みで頷いた。
西園寺という強敵を退け、学園最大のイベントを完璧な裏工作で乗り切った俺たち。明日からはまた、一見平穏で、その実誰よりも騒がしい「偽装の日常」が始まるだろう。
だが、この共犯者たちと囲む極上の食卓がある限り、俺のフィクサーとしての腕が錆び付くことは決してない。
秋の夜長、すみれ荘のリビングには、空になったどんぶりの底から立ち上る出汁の香りと、満たされた笑い声がいつまでも響き続けていた。




