第二十四話:遅れてきた筋肉痛と深夜の背徳Wスープ拉麺
白蘭学園を揺るがした体育祭の激闘から、二日が経過した土曜日の深夜。
すみれ荘のリビングは、さながら野戦病院のような惨状を呈していた。
「……あ、あだだだだだっ……! ふくらはぎが……太ももが千切れるぅ……! 回復魔法……誰か、リジェネをかけて……」
床に敷かれたラグマットの上で、九条凛が芋ジャージ姿のまま、生まれたての小鹿のようにプルプルと震えていた。
体育祭の当日、彼女はアドレナリンと持ち前のゲーマー的反射神経で限界を超えた動きを見せていた。しかし、現実は残酷だ。日頃の運動不足が祟り、二日遅れでやってきた絶望的な筋肉痛によって、今はトイレに行くことすら這って進まなければならない有様だった。
「九条さん、マジでうるさい……。俺も、ファンミーティングで三時間立ちっぱなし&笑顔振りまきっぱなしだったせいで、顔の筋肉と腰が崩壊寸前なんだから……。星の巡りも『今日は一歩も動くな』って警告してるし……」
ソファの上では、一ノ瀬拓海が湿布の匂いを漂わせながら、死んだ魚のような目で天井を見つめている。
「あなたたち、少しは静かにできないの? こっちは体育祭のせいで原稿のスケジュールが二日も遅れているのよ。西園寺くんの監視網をハッキングし続けたせいで、眼精疲労からくる偏頭痛も最悪だわ……。ああっ、もう、この殺人鬼のトリック、どうやって成立させればいいのよ!」
ダイニングテーブルでは、羽鳥栞がブルーライトカット眼鏡をかけ、鬼気迫る表情でキーボードを叩き壊さんばかりの勢いでタイピングしている。
三者三様の限界。
生徒会長・西園寺玲王という強敵を退けた代償は、俺が想像していた以上に彼らの心身を深く削り取っていたらしい。
「……お前ら、情けない声を出すな。そんなことだろうと思って、俺は水面下で『最高の特効薬』の仕込みを進めていた」
俺——相沢湊は、腰に巻いた黒いエプロンの紐をキュッと締め直し、コンロの上に鎮座する巨大な寸胴鍋の蓋を開けた。
その瞬間。
——ブワァァァァッ!!!
深夜のすみれ荘に、暴力的なまでの旨味を凝縮した強烈な香りが爆発した。
豚骨と鶏ガラの重厚な動物系の匂い。そして、それに負けじと主張してくる、煮干しと鰹節、昆布の芳醇な魚介系の香り。
床で這いずっていた九条さんの動きが、ピタリと止まった。
「な……なにこれ……。この匂い、まさか……」
「ああ。疲労困憊で胃腸が弱り、しかし脳が強烈な塩分と糖質を求めているお前らのために用意した。相沢特製、自家製麺の『極濃厚・魚介豚骨Wスープ醤油ラーメン』だ」
「「「ラーメンッッッ!!!」」」
満身創痍だったはずの三人が、まるで奇跡の治癒魔法を浴びたかのように、一瞬にしてダイニングテーブルの椅子へと瞬間移動した。九条さんの筋肉痛も、拓海の腰痛も、栞の偏頭痛も、食欲という圧倒的な本能の前に一時的にシャットダウンされたらしい。
「体育祭の二日前から、俺のフィクサーとしての予測は今日のお前らの惨状を予見していた。だから、裏でじっくりと時間をかけてスープを構築しておいたんだ」
俺の調理が、静寂のキッチンで始まった。
ラーメンの味を決定づけるのは「構成力」だ。それは、裏社会で複数の組織の利害を緻密に調整し、一つの完璧なシナリオを作り上げていた俺の得意分野そのものだった。
まずは、二つの寸胴鍋から黄金の液体をブレンドする。
一つは、豚のゲンコツと鶏ガラを強火で丸一日炊き出し、骨の髄まで旨味を抽出した白濁の「動物系スープ」。もう一つは、伊吹島産の白口煮干し、羅臼昆布、厚削りの宗田鰹を、決して沸騰させない絶妙な温度でじっくりと引いた「魚介系スープ」。
この二つを、俺の舌だけが知る『6対4』の黄金比で小鍋に合わせ、熱々に温める。
次に、あらかじめ温めておいた深めのラーメン鉢に、味の土台となる「カエシ(醤油ダレ)」を注ぐ。三種類のたまり醤油をブレンドし、みりんと帆立の貝柱を加えて一週間寝かせた、黒真珠のように輝くタレだ。
そこへ、熱々のWスープを一気に注ぎ込む。
——ジュワァァァッ!!
鉢の中で醤油の香ばしさと魚介豚骨の香りが衝突し、えも言われぬ芳醇な湯気が立ち上る。
同時進行で、隣のコンロではたっぷりの湯がグラグラと沸騰していた。
放り込むのは、強力粉と全粒粉を独自に配合し、製麺機で打ち上げた自家製の「中太ストレート麺」。小麦の香りが最も引き立つ、茹で時間一分十五秒の「バリカタ」指定だ。
タイマーが鳴るより早く、俺の体内時計が完璧なタイミングを告げる。平ザルで麺を一気にすくい上げ、手首のスナップを効かせて空中で激しく湯切りを行う。
チャッ! チャッ!
余分な水分を完全に飛ばした麺をスープの海へ泳がせ、菜箸で美しく麺線を整える。
ここからが最後の仕上げだ。
特製の醤油ダレで三時間煮込み、表面をバーナーで香ばしく炙った「厚切り豚バラチャーシュー」。黄身がゼリー状に輝く「半熟味付け玉子」。ごま油で炒めた「極太メンマ」。そして、彩りと辛味のアクセントとなる「九条ネギ」。
最後に、スープの表面を覆うように、煮干しの香りを移した特製の「香味油」をひと回し。
「完成だ。伸びる前に、無心で食え」
俺が三人の前に鉢を置くと、表面に浮いた黄金色の油膜がキラキラと深夜の照明を反射した。
もはや「いただきます」すら言う余裕のない三人は、一斉に割り箸を割り、スープの海へと麺をくぐらせた。
ズルルッ! ズズズッ!
心地よい麺を啜る音が、深夜のすみれ荘に響き渡る。
「——っっっ!!!! な、なにこれぇぇぇっ!?」
一口食べた瞬間、九条さんが両手で頭を抱えてのけぞった。
「スープが……お口の中で二段階で爆発するわ! 最初は豚骨と鶏のガツンとした濃厚な旨味が来るのに、飲み込む瞬間に魚介の爽やかな香りが鼻を抜けていって、ちっとも重くない! しかもこの麺! 噛むと小麦の甘さがギュッて出てきて、スープと完璧に絡み合ってる……!!」
「ヤバいヤバいヤバい!! 湊、これラーメン屋出せるってレベルじゃないよ! チャーシューが、箸で持とうとしただけで崩れるくらいホロホロなのに、炙った表面の香ばしさが最高すぎる! 筋肉痛の細胞一つ一つに、塩分とアミノ酸が染み渡っていくのが分かる……ッ!!」
拓海が、額に大粒の汗をかきながら、まるで親の仇のように麺を啜り上げている。
「……圧倒的な暴力ね。しかし、その奥にある緻密な計算に私は震えを禁じ得ないわ」
栞もまた、原稿のストレスをすべてスープに溶かすように、一心不乱にレンゲを動かしていた。
「動物系の重厚なトリックと、魚介系の繊細な伏線。二つの異なるジャンルが、丼という一つの密室の中で見事なまでに融合し、カエシの醤油が探偵のようにすべてをまとめ上げている。……悔しいけれど、私の書くどんなミステリーより、この一杯のラーメンの方が完璧なロジックを持っているわ」
深夜一時の、背徳のラーメン。
翌日の顔のむくみやカロリーなど、今の彼らには全く関係ない。ただひたすらに、己の肉体と精神の限界を癒すために、貪るように鉢と向き合っている。
その光景を見ながら、俺はゆっくりと自分の分の麺を啜った。
ガツンとくる動物系のコクと、魚介のキレ。
我ながら、完璧な調整だ。西園寺という強大な敵との神経戦、そして体育祭の裏工作で削られた俺自身の疲労も、この熱いスープがじんわりと溶かしてくれているのがわかる。
「(……俺としたことが、随分と世話焼きになったものだ)」
フィクサー時代には、他人のために丸二日もかけてラーメンのスープを仕込むなど、絶対にあり得ないことだった。利用し、利用されるだけの関係。任務が終わればそれまで。
だが今は、目の前で口の周りをスープまみれにして「相沢くん、味玉のおかわりある!?」と目を輝かせている九条や、チャーシューの美味さに泣きそうになっている拓海たちを見ていると、不思議と悪くない気分になっている自分がいる。
俺が守りたかった「平穏なモブライフ」は、いつの間にか、この騒がしくて歪な共犯者たちと共に囲む、深夜の食卓そのものにすり替わってしまったらしい。
「味玉のおかわりはないが、残ったスープに入れるための『追い飯(白米)』なら炊飯器にある。ただし、明日の朝は顔がパンパンに浮腫む覚悟をしておけよ」
「食べる!! 浮腫みなんて、明日の朝に美顔ローラーを三時間やれば元通りよ!」
「俺も食う! 今夜はデブの星が輝いてるからな!」
「……原稿のカロリー消費を信じて、私も少しだけいただくわ」
どんぶりの底が見えるまで、誰も箸を止めることはなかった。
窓の外では秋の深まりを告げる冷たい風が吹いているが、すみれ荘のキッチンだけは、ラーメンの熱気と三人の狂騒によって、どこまでも暖かかった。
終わらない共犯者たちの夜。学園という名の戦場を生き抜くための、俺たちの「深夜の補給線」は、これからもさらに深く、美味しく進化していくのだろう。




