第二十二話:肉汁の防衛線と体育祭前夜の包囲網
西園寺玲王の「兵糧攻め」を完璧に退けた翌日の夕暮れ。すみれ荘のキッチンには、昨日までの張り詰めた空気とは異なる、どこかジャンキーで、しかし抗いようもなく食欲をそそる力強い香りが満ち満ちていた。
俺——相沢湊は、黒いエプロンの紐をきつく締め直し、目の前の大きなボウルに向き合っていた。
今日作るのは、昨日九条さんと約束した「特大チーズインハンバーグ」だ。生徒会室での頭脳戦と、徹夜の書類偽装工作でボロボロになった共犯者たちの心身を完全に癒すには、これ以上ないメニューと言える。
ハンバーグの命は、肉の比率と捏ね、そして徹底的な温度管理だ。
俺が用意したのは、牛肉7に対して豚肉3の割合で特別に挽かせた合挽き肉。牛肉の力強い旨味と赤身の歯ごたえを残しつつ、豚肉の良質な脂でジューシーさを補う、俺が導き出した黄金比率である。ボウルを氷水に当てて肉の温度が上がるのを防ぎながら、あらかじめ飴色になるまで炒めて完全に冷ましておいた玉ねぎ、卵、牛乳に浸したパン粉、そして秘密のスパイスであるナツメグと少量のオールスパイスを投入する。
そこから、一気の手。肉の繊維が完全にちぎれ、全体が白っぽくねっとりとした質感になるまで、手のひらの熱を伝えないよう素早く、しかし力強く捏ね上げていく。かつて裏社会で、複雑に絡み合った利害関係を一つの不可分な契約へとまとめ上げていった、あの冷徹な手際の応用だ。
「ねえ、相沢くん。中に入れるチーズは何にするの? 私はチェダー派なんだけど、モッツァレラのとろける感じも捨てがたいわ……」
キッチンのカウンター越しに、芋ジャージ姿の九条凛が顎を乗せて、物欲しげな目で俺の手元を監視していた。学校での疲れなど、今夜のメニューを聞いた瞬間に吹き飛んだらしく、その瞳は完全に肉食獣のそれへと先祖返りしている。
「安心しろ。お前たちの我が儘な胃袋を満足させるために、今回は三種類のチーズをブレンドした」
俺は冷蔵庫から、あらかじめ成形しておいた特製のチーズの塊を取り出した。コクと鮮やかな黄金色を出すチェダー、圧倒的な伸びとクリーミーさを生むモッツァレラ、そして全体の味を引き締める塩気を持つゴーダ。これを贅沢に合わせ、ラグビーボール型に丸めた肉種の中心へと、一分の隙もなく包み込んでいく。
両手の間でキャッチボールをするようにパチパチと音を立てて肉種の空気を完全に抜き、熱したフライパンへと静かに滑り込ませた。
——チュワァァァァッ!!!
凄まじい音と共に、肉の焼ける香ばしい香りが一気にリビングへと爆発した。
強火で一気に表面を焼き固め、肉汁とチーズの逃げ道を完全に塞ぐ。綺麗な焼き色がついたところでひっくり返し、少量の赤ワインを回し入れて即座に蓋をした。ここからは弱火での蒸し焼きだ。フライパンの中で、肉種が自身の肉汁とワインの蒸気によって、ふっくらと、限界まで丸く膨らんでいく。
「……ただいま。ねえ、玄関を開けた瞬間に、私の脳内にある『美味しいミステリーのプロット』がすべて書き換わるような匂いがしたのだけれど」
リビングのドアが開き、羽鳥栞が帰ってきた。普段のクールな表情はどこへやら、鼻をピクピクと動かしながら、吸い寄せられるようにダイニングテーブルへと向かっていく。その後ろからは、いつになく真剣な表情をした一ノ瀬拓海が、スマートフォンを睨みつけながら入ってきた。
「みんな、取り込み中悪いんだけど……ちょっとマズい情報が入ったわ」
拓海がソファにカバンを放り投げ、俺たちの元へと歩み寄る。その声のトーンに、俺はフライパンの火を止め、振り返った。
「西園寺会長のやつ、やっぱり九条さんのあの完璧な書類に納得してないみたい。俺の占い……じゃなくて、生徒会役員から引っ張ってきた情報だと、明日の体育祭当日、会長は『本部テント』から動かず、特定の生徒の動きをビデオカメラとインカムを使って完全にリアルタイムで監視する特別シフトを組んだらしい」
「特定の生徒って……まさか、私たち?」
九条さんが顔を強張らせた。
「ああ。九条さんはもちろん、俺と羽鳥、そして『なぜか学年平均点ピッタリを維持し続けている』湊のことも、監視対象のリストに入ってる。競技中の動き、応援席での会話、すべてを記録して、前回の『不自然な偶然』の証拠を掴む気だ。あのメガネ、マジで執念深すぎるって」
リビングに、一瞬にして冷たい緊張感が走る。
明日の体育祭は、学園中の生徒が一堂に会する一大イベントだ。そんな衆人環視の中で、生徒会長直属の監視網に捕捉されれば、どんなに小さな綻びも見逃されないだろう。九条さんのボロが出れば、すみれ荘の秘密は一発で崩壊する。
「……なるほどね。西園寺くんは、蜘蛛のように巣を張って、私たちが自ら網に引っかかるのを待っているわけか。……面白いじゃない。私の小説の悪役としても、なかなか噛み応えのあるキャラクターだわ」
栞がノートPCを開き、冷酷な笑みを浮かべる。
「笑い事じゃないだろ、羽鳥。……チッ。あの完璧主義者、どこまで俺の平穏を脅かせば気が済むんだ」
俺はため息をつきながらも、心の中で急速に「防衛シミュレーション」を開始した。相手が完璧な監視網を敷いてくるなら、こちらはそのシステムそのものをハックし、彼が見たいと願う「偽りの現実」を見せてやればいいだけのこと。
「拓海。お前は明日、持ち前のチャラさと情報網を使って、本部テントの周囲に常に『一般生徒の人だかり』を作れ。特に女子生徒を誘導して、西園寺の視線を物理的に遮るブラインド(目隠し)を構築しろ」
「了解。モテ男としての本領発揮だね。本部周辺を常にファンミーティング状態にしてやるよ」
「羽鳥。お前は本部テントに設置される本部PCと、記録用カメラのワイヤレスネットワークに介入しろ。俺たちが映るタイミングの映像だけ、数秒の遅延とノイズを発生させる。西園寺の『観察眼』のテンポを狂わせろ」
「お安い御用よ。彼の網の目を、私のハッキングでズタズタの粗いザルに変えてあげるわ」
「九条さん。お前は明日、一切の裏工作を考えるな。ただひたすらに、学園の誰もが眩むような『完璧な王道アイドル』として、全競技を全力で楽しめ。お前の圧倒的な光は、西園寺の歪んだ猜疑心を焼き尽くす最大のデコイ(デコイ)になる」
「……うん! 任せて、相沢くん! 私、明日は世界で一番輝くアイドルになってみせるわ!」
完璧な役割分担。かつて数々の国家規模の紛争を裏から調停してきた俺の指揮によって、すみれ荘のポンコツ共犯者たちは、一瞬にして洗練された「特殊部隊」へと変貌を遂げていく。
「作戦の詰めは飯の後にするぞ。……冷めたハンバーグほど、俺のプライドを傷つけるものはないからな」
俺はフライパンの蓋を開けた。
立ち上る湯気の向こうで、丸々と膨らんだハンバーグが、今まさに肉汁の限界を迎えていた。
俺は手際よく、前回の残りの特製デミグラスソースに、フライパンに残った濃厚な肉汁と赤ワイン、そして冷たいバターを加えた「究極のグレヴィ・デミグラスソース」を上からたっぷりとかけた。
ダイニングテーブルに、四つの特大ハンバーグが並ぶ。
九条さんは、待ちきれないとばかりにナイフとフォークを握りしめ、ハンバーグの中央に刃を突き立てた。
その瞬間。
——ジュワァァァァッ!!!
肉の表面から、まるで間欠泉のように、透明で濃厚な肉汁が溢れ出してきた。皿のデミグラスソースが、肉汁の濁流によって一瞬で薄まるほどの圧倒的な量だ。そして、その裂け目から、とろっとろに溶けた3種の黄金色のチーズが、溶岩のようにゆっくりと流れ出してくる。
「——っっっ!!! 嘘でしょ、これ、肉汁のプールじゃないの!?」
九条さんが悲鳴に似た歓声を上げ、チーズとデミグラスソースをこれでもかと絡めた肉の塊を、口へと放り込んだ。
彼女の身体が、一瞬でビクッと硬直する。
「……んんん〜〜〜〜〜っっっ!!! 美味しすぎて、頭のてっぺんからビームが出そう……! 牛肉のガツンとした旨味が最初に来るのに、豚肉の脂のおかげで信じられないくらい柔らかくてジューシー! そしてこのチーズ……チェダーのコクとモッツァレラのトロトロ感が、デミグラスの深い味と合わさって、口の中が完全に『全知全能のパラダイス』よ!!」
「ヤバい、これマジで美味すぎる……! 噛むたびに肉汁が口の中で溺れるくらい出てくるんだけど! 湊、お前これ、明日の体育祭のスタミナ補給としても完璧すぎるチョイスだよ!」
拓海が白米をもの凄いスピードでかき込みながら、絶叫している。
「……完璧ね」
栞もまた、ハンバーグを小さく切り分け、至福の表情で咀嚼していた。
「濃厚なデミグラスソースの奥にある、ナツメグの微かな刺激が、明日の決戦に向けて私の闘争本能を心地よく刺激してくれるわ。西園寺くんの包囲網なんて、このハンバーグの肉汁の防衛線に比べれば、あまりにも脆弱で退屈なものね」
三人が狂ったようにスプーンとフォークを動かし、すみれ荘のリビングは、再び美味しい料理による幸福な静寂(と、咀嚼音)に包まれていった。
俺は、自分の分のハンバーグを口に運びながら、窓の外の静かな夜空を見つめた。
生徒会長・西園寺玲王。お前の優秀さと執念は認めてやる。だが、お前が相手にしているのは、ただの高校生ではない。
己のズボラな廃人ライフを守るために命をかけるアイドル、星の巡りを操作する情報屋、世界の心理を言葉で操る小説家……そして、それらすべての歪な怪物たちを胃袋と指揮権で支配する、元・天才フィクサーの俺だ。
お前がどんなに完璧なシステムを構築しようとも、俺たちのこの『歪で騒がしい日常』を壊すことだけは、絶対に許さない。
「おい、九条さん、口の周りがチーズだらけだ。明日の本番でカメラに映る前に、今のうちに全部拭いておけよ」
「ふぇ? ひょっとして、相沢くんが拭いてくれるの?」
「自分で拭け。俺は明日の作戦のために、お前たちのタイムスケジュールをもう一度微調整する仕事があるんだからな」
「あはは、指揮官、冷たい〜! でもそういうところ、嫌いじゃないぜ!」
「私は、明日の西園寺くんの驚く顔を想像しながら、この極上の肉汁を最後まで楽しませてもらうわ」
夜が更けていくすみれ荘。
明日の体育祭という名の「学園最終防衛戦」を前に、共犯者たちの絆は、濃厚なデミグラスソースと溢れ出る肉汁と共に、より深く、より強固に煮詰まっていくのだった。




