第二十一話:生徒会長の兵糧攻めと深夜の檸檬ミルフィーユ鍋
西園寺玲王による生徒会室での尋問から一週間。白蘭学園は、目前に迫った秋の一大イベント『体育祭』の準備で熱を帯びていた。
だが、その熱狂の裏で、すみれ荘のリビングにはかつてないほどの重く淀んだ空気が立ち込めていた。
「……もう、無理。私のHP、完全にゼロよ。ポーション……誰か特大の回復ポーションをちょうだい……」
深夜零時。ダイニングテーブルに突っ伏した九条凛が、うわ言のように呟いた。
彼女の目の前にはゲーム機ではなく、学園指定のノートパソコンが置かれている。画面には、体育祭の全競技の進行表、機材の配置図、さらには各クラスの予算配分表という、目が眩むような量のスプレッドシートが並んでいた。
九条さんは体育祭の実行委員だ。本来なら数人で分担するはずの裏方作業が、なぜか今、彼女一人の肩に重くのしかかっている。
「どうやら、西園寺くんの『兵糧攻め』が始まったようね」
向かいの席で自分の原稿を執筆していた羽鳥栞が、冷ややかな視線をパソコンの画面に向けた。
「あの生徒会長、先日の尋問で私たちが尻尾を出さなかったから、今度は物理的に九条さんを追い詰める気だわ。アイドルとしての完璧な仮面を被り続ける彼女に、膨大な実務を押し付ける。疲労困憊になれば、必ずどこかでボロが出る。……ひいては、すみれ荘の秘密にも辿り着けると考えているのよ」
「マジかよ、あのメガネ会長、陰険すぎない!? 九条さん、ここ三日くらい大好きなゲームにも全くログインできてないじゃん!」
一ノ瀬拓海が、九条さんの背中を心配そうにさすりながら声を上げた。
キッチンで翌日の仕込みをしていた俺——相沢湊は、濡れた手をタオルで拭きながらゆっくりとリビングへ歩み寄った。
九条さんの目の下には、コンシーラーでも隠しきれないほどの濃いクマができ始めている。このままでは、明日の学校で西園寺と顔を合わせた瞬間、アイドルスマイルを維持できずに崩れ落ちるだろう。それはすなわち、俺の平穏なモブライフが終了することを意味する。
「……チッ。あのエリート優等生、学園のルールを武器にして合法的に削りに来るとはな。だが、俺たちの平穏な夜を奪うというのなら、容赦はしない」
俺の低く冷たい声に、三人が一斉に顔を上げた。
俺の中で、元・天才フィクサーとしてのスイッチが完全に切り替わる。ターゲットは、西園寺玲王が構築した体育祭のロジックそのものだ。
「羽鳥。今すぐ生徒会のクラウドサーバーにバックドアを作れ。西園寺の監視網を掻い潜り、九条さんのアカウントの作業履歴を偽装しろ」
「……ふふっ。お安い御用よ。学園の貧弱なファイアウォールなんて、私の手にかかれば紙切れ同然だわ。物語の伏線を張るよりずっと簡単ね」
栞の指先が、ノートパソコンのキーボードの上で目にも留まらぬ速さで踊り始める。
「拓海。お前は星の導き(ウラの人脈)を使って、過去三年間分の体育祭のトラブル事例と、備品倉庫の正確な在庫状況を引っ張ってこい」
「オッケー! 先輩たちから集めたゴシップノートと、俺の占いのネットワークをフル稼働させるぜ!」
拓海が即座にスマートフォンを取り出し、異常な速度でメッセージを打ち込み始めた。
「相沢くん……私は、どうすればいいの……?」
九条さんが涙目で俺を見上げる。
「お前はそこで寝ていろ。俺がすべてを『修正』する」
俺は九条さんのパソコンを引き寄せ、画面の前に座った。
そこから先は、俺の独壇場だった。かつて裏社会で、いくつもの巨大組織の資金洗浄ルートや、複雑怪奇なタイムスケジュールの矛盾を瞬時に整えてきた俺の頭脳にとって、一介の高校の体育祭の進行表など、子供のパズルのようなものだ。
拓海が集めた過去のデータを瞬時に分析し、天候不良による遅延リスクを排除した完璧な進行表を再構築。無駄な機材の移動ルートを削り落とし、予算配分表を1円の狂いもなく最適化していく。
キーボードを叩く俺の指は残像を残し、画面上の数字とグラフが、まるで魔法のように美しいシンメトリーへと整えられていった。
一時間後。
俺は「保存」キーを強く叩き、深く息を吐き出した。
「終わったぞ。羽鳥、ファイルをサーバーに戻せ。もちろん、九条さんが三日かけて少しずつ作業を進めていたように、タイムスタンプの偽装も忘れるな」
「完了しているわ。西園寺くんが見ても、九条さんが自力で完璧な仕事を成し遂げたとしか思えないはずよ」
栞が満足げにエンターキーをッターンと叩いた。
「うおおお……マジで終わった……。相沢、お前本当に高校生かよ。仕事の処理速度がスーパーコンピューターじゃん……」
拓海がドン引きしたような顔で俺を見つめている。
「これで明日の朝、西園寺の鼻を明かしてやれる。……だが、その前に」
俺は立ち上がり、キッチンへと向かった。
九条さんの仕事は終わったが、彼女の蓄積された肉体的な疲労が消えたわけではない。明日の学校で完璧なアイドルを演じ切るためには、細胞の隅々まで行き渡るような強烈な「回復」が必要だった。
冷蔵庫を開け、俺が取り出したのは、たっぷりの白菜と、美しいピンク色をした豚バラ肉の薄切り。そして、国産の無農薬レモンだ。
「お前ら、よく頑張ったな。今夜は、疲労を限界突破で回復させる『特製・深夜のレモン豚バラミルフィーユ鍋』だ。すぐに用意するから、胃袋を空けて待ってろ」
その言葉を聞いた瞬間、死にかけていた九条さんの目に、カッと光が宿った。
俺はまな板に向かい、神速の包丁捌きで調理を開始する。
白菜の葉と豚バラ肉を交互に重ね、美しい層を作り出していく。それを五センチ幅に切り揃え、土鍋の縁から中心に向かって、隙間なくぎっしりと詰め込む。まるで見事な大輪の薔薇が咲いたような芸術的な配置だ。
そこに注ぎ込むのは、昆布と鰹節で引いた濃厚な一番出汁に、少量の薄口醤油とみりん、そして日本酒を加えた特製の和風スープ。
土鍋をコンロの火にかけ、蓋をする。
数分後、ふつふつと湧き上がる音が聞こえ、豚肉の甘い脂と和風出汁の香りがキッチンを満たし始めた。
だが、これで完成ではない。
俺は蓋を開け、輪切りにした薄切りのレモンを、鍋の表面を覆い尽くすようにたっぷりと並べた。仕上げに、粗挽きの黒胡椒を全体に散らす。
熱い出汁に触れた瞬間、レモンの爽やかな柑橘の香りが爆発的に立ち上り、深夜のすみれ荘のリビングを包み込んだ。
「完成だ。レモンは煮込みすぎると苦味が出るから、すぐに食べるぞ」
俺が土鍋をダイニングテーブルの中央に置くと、三人はすでに小鉢と箸を持って臨戦態勢に入っていた。
土鍋の中では、黄金色の出汁の中で豚肉と白菜がくつろぎ、その上で黄色いレモンが美しく踊っている。
「いただきますっ!!」
九条さんが真っ先に箸を伸ばし、豚肉と白菜を一緒に挟んで、口へと運んだ。
ハフッ、と熱い息を吐きながら咀嚼した瞬間。
「——っっっ!!! な、何これぇぇぇっ!?」
九条さんが両手で頬を押さえ、目を見開いた。
「豚バラ肉の濃厚な旨味と脂が、白菜の甘みと完全に一体化してる……! なのに、レモンの強烈な酸味と香りが、お肉の重さを全部打ち消して、信じられないくらいサッパリしてるの! 噛めば噛むほど、疲れた身体の細胞がジュワァァァって蘇っていくのが分かるわ!!」
「ヤッバ!! これ無限に食えるやつだ!! 黒胡椒のピリッとした刺激が最高にアクセントになってて、出汁の旨味が五臓六腑に染み渡る〜〜ッ!!」
拓海も額に汗を滲ませながら、猛烈な勢いで鍋をつついている。
「……計算し尽くされた味ね。豚肉のビタミンB1と、レモンのクエン酸。疲労回復における化学的な最適解を、これほど芸術的な味覚のミステリーに昇華させるなんて。相沢くん、あなたは本当に恐ろしい男だわ」
栞もフーフーと息を吹きかけながら、上品に、しかし確実なペースで箸を進めていた。
レモンの酸味が出汁に溶け出すことで、ポン酢などのつけダレは一切不要。素材そのものの暴力的なまでの旨味と、柑橘の爽やかさだけで、箸が止まらなくなるのだ。
俺は、土鍋の底から白菜の芯の部分を引き上げながら、小さく息を吐いた。
誰とも関わらないモブライフ。それが俺の望みのはずだった。だが、こうして一つの鍋をつつき合い、翌日の戦いに向けて英気を養うこの共犯者たちとの夜が、今では俺の中で確かな熱を帯びている。
「出汁が余ったら、締めにうどんを入れる。だからペース配分は考えて食えよ」
「うどん!! 絶対食べる! 私、明日からまたゲームのデイリーミッション消化できる気がしてきたわ!」
「お前はまず、明日の生徒会への報告を乗り切れ。そこでボロを出したら、明日の夕飯は具なしの塩おにぎりだからな」
「そんなの絶対嫌ぁぁぁっ!!」
翌日の放課後。生徒会室。
西園寺玲王は、九条さんが提出したフラッシュメモリのデータを自身のパソコンで開き、その画面を前にして完全に言葉を失っていた。
「……これは……君が、一人でやったのかい?」
西園寺の声には、隠しきれない動揺が混じっていた。
完璧に最適化されたタイムスケジュール。1円の矛盾もない予算表。考えうるすべてのトラブルを網羅した危機管理マニュアル。それは、大企業のプロジェクトチームが作り上げたと言われても信じてしまうほどの、異次元のクオリティだった。
「はいっ。実行委員として、学園の皆様に最高の体育祭をお届けしたくて、少しだけ頑張っちゃいました!」
九条さんは、顔に微かな疲労の色を滲ませながらも、一分の隙もない「完璧な学園のアイドル」の微笑みを浮かべてみせた。昨夜のレモン鍋のクエン酸効果で、彼女の肌のツヤはむしろ普段より増しているほどだ。
「……そうか。見事だ、九条さん。君の有能さを、少し甘く見ていたようだ。下がっていいよ」
「失礼いたします」
九条さんが優雅に一礼し、生徒会室を後にする。
西園寺は、バタンと閉まった扉を見つめたまま、微かに眉間を揉みほぐした。彼の脳裏には、九条の背後にうっすらと見え隠れする「得体の知れない影」の存在が、より一層濃く焼き付いていた。
一方、廊下に出た九条さんは、角を曲がって西園寺の視界から完全に消えた瞬間、壁に寄りかかってズルズルと座り込んだ。
「(相沢くぅん……ミッション、コンプリートしたわよ……。今日の夕飯は、ハンバーグにしてぇ……)」
スマートフォンのインカム越しに聞こえてくる九条さんの涙声に、中庭の木陰で清掃員のフリをして落ち葉を掃いていた俺は、誰にも見えないように微かに口角を上げた。
「(了解した。よくやったな、九条さん。……特大のチーズインハンバーグを焼いて待ってる)」
生徒会長という強大な敵との水面下の暗闘は、こうして俺たち「すみれ荘の共犯者」の完全勝利で幕を閉じた。
だが、秋の風が吹き抜ける白蘭学園には、まだまだ波乱の種が眠っている。俺の平穏なモブライフを守るための裏工作と、深夜のキッチンの熱気は、とどまることを知らないのだった。




