第二十話:安堵のオムライスと、終わらない共犯者たちの夜
白蘭学園の最高権力者である生徒会長・西園寺玲王による、息の詰まるような尋問。そこから命からがら(精神的な意味で)生還した俺たちは、すっかり日が暮れた夕方の街を、どこか急ぎ足で歩いていた。
すみれ荘の古びた門扉をくぐり、重い玄関のドアを開けた瞬間、張り詰めていた空気が一一気に霧散する。
「ただいまぁぁぁ……。生きてる、私、まだ生きてるわ……!」
玄関マットの上にカバンを放り投げ、九条凛はその場に崩れ落ちた。学校での「誰もが憧れる清純派アイドル」のオーラは完全に消滅し、お気に入りの芋ジャージをクローゼットから引っ張り出すことすら忘れて、制服のまま床に大の字になっている。
続いて入ってきた一ノ瀬拓海も、ネクタイを乱暴に緩めながらソファへダイブした。
「マジでさ、西園寺会長のあの目、何? 人間の過去の犯罪歴まで透視してそうな鋭さじゃん。俺、途中でマジで星の配置が『東京湾』に固定されるかと思ったよ……」
「大袈裟ね、一ノ瀬くん。彼はただ、自分の思い描く完璧な学園という『箱庭』に、私たちの歪なノイズが混ざり込んでいるのが気に入らないだけよ」
羽鳥栞は、カバンを丁寧に自室へ置きに行き、すでにいつもの黒いワンピース姿に着替えてリビングに戻ってきていた。手には早くもノートPCが握られており、膝の上に広げると同時に、ブラインドタッチの冷たい打鍵音が響き始める。
「それにしても、相沢くん。最後のあの紅茶のフィクシングは見事だったわ。西園寺くんの疲労度と、完璧主義者ゆえの視野狭窄を逆手に取って、脳の防衛システムを一時的にシャットダウンさせるなんて。次作の『第4章:冷徹な支配者を懐柔する心理術』にそのまま使わせていただくわね」
「だから、俺の行動を勝手にプロットに組み込むなと言っているだろう」
俺——相沢湊は、カバンをキッチンの隅に置き、制服の上着を脱いで使い慣れた黒いエプロンを腰に巻いた。
やれやれ、と心の中で深くため息をつく。西園寺を煙に巻いたのは、彼らのためではない。すべては俺自身の「平穏なモブライフ」を守るためだ。もしこいつらの正体がバレて、すみれ荘が家宅捜索でもされれば、元・天才フィクサーである俺の過去まで芋づる式に暴かれかねない。そんな最悪のシナリオを回避するための、当然の自己防衛だ。
「おい、いつまで床で転がっているんだ九条さん。制服が皺になるぞ。さっさと着替えて手を洗ってこい。約束通り、今日はオムライスだ」
その言葉を聞いた瞬間、床に落ちていた九条さんの身体が、まるで特殊なスプリングでも仕込まれているかのように跳ね上がった。
「オムライス!! トロトロの、卵が溢れ出すやつよね!?」
「ああ。文句があるなら作らないが」
「あるわけないじゃない! 秒速で着替えてくるわ!」
凄まじい風圧を残して2階へと駆け上がっていくズボラアイドル。俺は苦笑しながら、キッチンのコンロに向き直った。
生徒会室での緊張感で、こいつらの脳と神経はクタクタに疲弊している。それを癒すには、ダイレクトに脳の多幸感を刺激する、圧倒的に美味い料理が必要だ。
まずは、オムライスの命とも言えるデミグラスソースの仕上げにかかる。
数日前から牛すじ肉と香味野菜を焼き上げ、じっくりと煮込んで漉した特製のデミグラスベース。それを小さめの鍋に移し、弱火にかける。ふつふつと泡立つソースに、今回は少しだけ工夫を加える。西園寺との心理戦で強烈なストレスを感じた彼らの胃を労るため、赤ワインの酸味をしっかりと飛ばし、隠し味にほんの少量の蜂蜜と、バターをひとかけら。
木べらでゆっくりとかき混ぜると、ソースに鏡のような艶が生まれ、深みのあるチョコレート色へと変化していく。香りを嗅ぐだけで、口の中に濃厚なコクが広がるような錯覚を覚える出来栄えだ。
次に、ケチャップライスの調理に入る。
フライパンを強火で熱し、細かめに刻んだ鶏もも肉とマッシュルーム、そして玉ねぎを投入する。パチパチと小気味良い音が響き、鶏肉の脂が玉ねぎの甘みを引き出していく。
ここで、隠し持っていた硬めの冷やご飯を投入。木べらではなく、フライパンを大きく煽ることで、米粒一つひとつに均等に熱を入れていく。
全体がパラリとほぐれたところで、ケチャップを加える。だが、ただケチャップを入れるだけでは素人の味だ。鍋肌に直接ケチャップを注ぎ、ジュワッと焦がすようにして水分を飛ばし、酸味を旨味へと昇華させる。さらに、ほんの一つまみの塩と黒胡椒、そしてチキンブイヨンを加え、全体を鮮やかな茜色に染め上げていく。
「うわぁ……もうこの時点で、ライスだけで三杯は食べられる匂いがするよ、指揮官……」
いつの間にか芋ジャージに着替え終えた九条さんが、キッチンのカウンターから身を乗り出して、らんらんと目を輝かせていた。その隣には、拓海もスプーンを両手に持ってスタンバイしている。
「待て。ここからが本番だ。オムライスという料理は、最後の十秒で全てが決まる」
俺は視線をフライパンの底へと固定した。
コンロの火力を最大に上げる。別の小さめのフライパンに、たっぷりのバターを滑らせる。バターがシュワシュワと細かい泡を立てて溶け、香ばしいナッツのような香りが立ち上った瞬間、ボウルでしっかりと溶きほぐし、生クリームを加えた卵液を、一気に流し込んだ。
——ジュワァァァッ!!!
激しい音が鳴り響くと同時に、俺の左手はフライパンを猛烈な速度で前後に揺らし、右手は菜箸で卵液を大きく、円を描くようにかき混ぜる。外側から固まっていく卵を巻き込み、中心部に絶妙な「半熟の空気の層」を作り出していく。
火を入れてから、わずか五秒。
卵液が理想的なスクランブル状になったところで、箸を止め、フライパンの奥へと卵を寄せる。トントン、とトントン、と、左手の手首をリズミカルに叩き、卵の端を巻き込みながら、綺麗なラグビーボール型へと成形していく。
表面はなめらかな黄色い膜、しかしその内側には、限界まで液体に近いトロトロの卵が閉じ込められている状態。かつて裏社会で「一瞬の狂いも許されない爆弾解体」をこなした時と同等の、極限のプレッシャーと精密なコントロールが、この数秒間に凝縮されていた。
皿に盛られた茜色のケチャップライスの上に、焼き上がった卵をそっと滑らせる。
そして、温めておいた特製デミグラスソースを、皿の周囲にたっぷりと注ぎ入れた。仕上げにパセリを散らせば、完成だ。
「さあ、冷めないうちに席につけ」
ダイニングテーブルに四つの皿が並ぶ。
九条さんは、目の前に置かれた芸術的なオムライスを前にして、ごくりと唾を飲み込んだ。黄色いラグビーボールのような卵は、お皿を少し揺らすだけで、ぷるぷると小刻みに震えている。
「相沢くん……これ、割ってもいいの?」
「ああ。それがそのオムライスの正しい食べ方だ」
九条さんは意を決したように、マイナイフを手に取り、卵の頂点にそっと刃を入れた。
すうっ、と一本の線が描かれた次の瞬間。
——パカッ。
美しい効果音が聞こえるかのように、卵が左右に自重で開いた。中から、黄金色の、輝くような半熟卵が、とろりとケチャップライスを覆い尽くすように溢れ出してくる。
「——っっっ!!! す、すごーーーい!!」
九条さんが歓声を上げ、すぐさまスプーンで卵とライス、そしてデミグラスソースをたっぷりとすくい、口へと運んだ。
彼女の動きが、一瞬で停止する。
あまりの美味さに、言葉を失ったのだ。
「……んんん〜〜〜っっ!!! 美味しい……! 卵が、信じられないくらいふわふわで、お口の中で一瞬でとろけて消えちゃう! それにこのデミグラスソース、すごく濃厚なのに、後味が優しくて、今日の疲れた身体にすっごく染み渡る……!」
「うわ、本当だ! これ、ヤバいって! ライスのケチャップの香ばしさと、デミグラスのコクが合わさって、口の中が完全に『至高の天体観測』状態だよ! 湊、お前マジで何者なの!?」
拓海も大口でオムライスを頬張り、涙目で大絶賛している。
「……素晴らしいわね」
普段は冷静な栞も、スプーンを動かす手を止めず、至福の表情で目を細めていた。
「デミグラスソースの微かな蜂蜜の甘みが、西園寺くんに脅かされた私の脳の防衛本能を完全に狂わせているわ。このオムライスを食べるためなら、私は学園の全ルールを敵に回しても構わないと思えるほどよ」
「大袈裟なことを言うな。お前らは少しは緊張感を持て」
俺は自分の分のオムライスを口に運びながら、呆れたように告げた。
だが、彼らが美味そうに食べる姿を見ていると、俺の胸の奥にあった生徒会室での嫌な緊張感も、不思議と綺麗に消え去っていくのを感じていた。
学校という舞台では、完璧な優等生である西園寺玲王という巨大な壁が、俺たちのすぐ近くまで迫ってきている。今日の紅茶で一時的に誤魔化したとはいえ、彼がこれで引き下がるとは思えない。遠からず、また次の「包囲網」が敷かれるだろう。
しかし、と俺は思う。
目の前で、口の周りにデミグラスソースをつけながら「おかわりある!?」と騒いでいる九条さんや、マッシュルームを美味しそうに咀嚼している拓海、そして密かにソースの配合を分析しようとしている栞の姿を見る。
かつて孤独だけが相棒だった元・フィクサーの俺にとって、この「すみれ荘の騒がしい食卓」は、いつの間にか、何よりも失いたくない『歪な平穏』の象徴になっていた。
どんな強敵が来ようと、どんな包囲網を敷かれようと、俺が裏から全てをコントロールし、この日常を守り抜いてみせる。そのためなら、かつてのフィクサーとしての神技を何度だって使ってやる。
「おかわりなら鍋にある。ただし、九条さん、お前は明日からまたゲームのログイン時間を制限しろ。西園寺にまた目のクマを指摘されたら、次こそ言い訳が立たないからな」
「ええ〜っ!? そんなの殺生よ、相沢くん! 今週はイベントが……!」
「却下だ。平穏を守るためのタイムマネジメントだと思え」
「あはは、九条さんドンマイ〜。あ、湊、俺の分のオムライスには少しタバスコかけてもいい?」
「ダメだ。俺のソースの完成度を汚すな」
夜の静寂がすみれ荘を包み込む中、リビングには変わらない賑やかな笑い声が響き渡っていた。
窓の外、白蘭学園のある方向を見つめながら、俺は静かに決意を新たにする。
終わらない共犯者たちの夜。俺たちの歪な日常を守るための、影のフィクサー活動は、これからさらにスリリングに、そして美味しく加速していくのだ。




