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すみれ荘には普通の人間がいない 〜元・天才フィクサーの平穏な日常は、深夜のキッチンで崩壊する〜  作者: リリリリス
【第二章:共犯者たちの学園狂騒曲】

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第十九話:生徒会長の包囲網と完璧すぎるモブの紅茶

 三日間煮込んだ漆黒のカレーによる狂乱の週末から、数日が過ぎた。


 すみれ荘の朝は、相も変わらず騒がしく、そして俺の平穏を削り取るようなルーティンで幕を開ける。


 朝六時半。キッチンの換気扇が低いモーター音を響かせる中、俺——相沢湊は、まな板の上で小気味良い包丁の音を立てていた。


 今日の朝食は、和食の基本を徹底的に叩き込んだ一汁三菜だ。前日の夜から昆布と薄削りの鰹節でじっくりと引いた一番出汁。その黄金色の液体をベースに、豆腐とワカメ、そして香り高い長ネギを散らした味噌汁が鍋の中で静かに湯気を立てている。


 隣のコンロでは、絶妙な火加減で熱した卵焼き器の上で、たっぷりの出汁を含ませた卵液がジュワッと音を立てて巻き上げられていく。焦げ目は一切つけず、菜箸の先端から伝わる振動だけを頼りに、空気を含ませて層を作っていく。フィクサー時代、ターゲットの心理の壁を一枚ずつ剥がしていくかのような、繊細極まりない作業だ。


 最後に、皮の表面にうっすらと脂が滲み出るまで遠火で焼き上げた銀鮭を皿に盛り付ければ、完璧な日本の朝食の完成である。


「ふわぁあ……相沢くん、おはよぉ……。あ、お味噌汁のいい匂い……」


 リビングのドアが力なく開き、九条凛が幽鬼のような足取りで現れた。学校で見せる「白蘭学園の向日葵」という完璧なアイドルの面影は微塵もなく、膝の抜けたお馴染みの芋ジャージ姿で、金糸の髪は寝癖で爆発している。昨夜も深夜三時まで、新作のオンラインRPGでギルド戦を繰り広げていた結果だ。


 続いて、大きなあくびをしながら一ノ瀬拓海が、そして文庫本から目を離さないまま羽鳥栞が、それぞれの定位置であるダイニングテーブルの椅子へと滑り込んだ。


「相沢、今日の鮭、身がふっくらしてて最高じゃん。星の巡りも『塩分控えめが吉』って言ってたし」


「拓海くん、占いと食事の感想を混ぜないでちょうだい。……それにしても相沢くん、この出汁巻き卵、素晴らしいわね。出汁の比率が限界まで高められているのに、形が一切崩れていない。あなたの技術は、まるで精巧に計算されたミステリー小説の伏線のようだわ」


 俺は三人の前に温かいほうじ茶の入った湯呑みを置きながら、深くため息をついた。


「お前ら、味わって食べるのは勝手だが、あと二十分で家を出ないと遅刻するぞ。特に九条さん、その爆発した髪を学校用のストレートヘアに偽装するのに、最低でも十五分はかかるだろうが」


「ひゃっ!? も、もうそんな時間!? 嘘でしょ、まだ鮭の皮しか食べてないのに!」

 

途端に慌てふためき、口いっぱいに白米を頬張り始める共犯者たち。


 誰も彼もが裏の顔を持ちながら、日常生活においては致命的なまでにルーズだ。俺がこうして毎朝、徹底したタイムマネジメントと栄養管理を行わなければ、こいつらの「学園での完璧な偽装」など三日と持たずに崩壊するだろう。


 俺は冷めた自分用の味噌汁をすすりながら、今日の学園生活が何事もなく、ただ息を潜めるだけの「モブとしての平穏な一日」であることを静かに祈った。


 だが、そのささやかな祈りは、放課後のチャイムが鳴ると同時に無惨にも打ち砕かれることとなる。


 ——キーンコーンカーンコーン。


 六時間目のホームルームが終わり、生徒たちが部活動や帰宅の準備でざわめき始めた教室。俺がいち早くカバンに教科書を詰め込み、誰とも目を合わせずに教室の裏口から抜け出そうとした、その瞬間だった。


「三年生、九条凛さん。一ノ瀬拓海くん。羽鳥栞さん。並びに、相沢湊くん。至急、旧校舎三階の『生徒会室』まで出向くように」


 教室のスピーカーから、氷のように冷たく、それでいて有無を言わせない絶対的な威厳を持った声が響き渡った。


 クラス中の視線が、一斉に九条さんや拓海、そしてなぜか名前を呼ばれた俺へと集まる。


(……チッ。最悪だ。よりによって、学園の最高権力機関からの名指しか)


 俺はカバンの持ち手を握る手に、微かに力を込めた。


 放送の主は、白蘭学園生徒会長、西園寺玲王さいおんじ・れお


 学業成績は常にトップ、全国模試でも一桁の順位を叩き出し、さらには財界の重鎮を父に持つという、文字通り絵に描いたようなエリートだ。だが、俺が警戒しているのは彼のスペックではない。彼が持つ、異常なまでの「観察眼」と「完璧主義」だ。


 学園内のあらゆる風紀と秩序をコントロールしようとする西園寺の目に、俺たち四人が留まった。それはすなわち、俺たちが必死に隠してきた「裏の顔」に繋がる何らかの尻尾を掴まれた可能性が高いということを意味していた。


 旧校舎の最上階。


 重厚なマホガニーの扉を開けると、そこにはアンティークの家具で統一された広々とした生徒会室があった。西日がステンドグラスを通して差し込み、部屋全体をセピア色に染め上げている。


 部屋の中央にある巨大な執務机の奥で、西園寺玲王は両手を組み、鋭い猛禽類のような瞳で俺たち四人を待ち受けていた。銀縁の眼鏡の奥で光るその目は、一切の感情を排した冷徹な光を放っている。


「よく来てくれたね。掛けたまえ」


 西園寺が顎で応接用の革張りのソファを示す。九条さんは「アイドルの微笑み」を顔に貼り付けているが、その引きつった口元から激しい動揺が読み取れた。拓海も普段のチャラい態度はどこへやら、冷や汗を流して俺の背中に隠れようとしている。唯一、栞だけがいつも通りの無表情でソファに腰を下ろしたが、彼女の指先は無意識にスカートの裾を強く握りしめていた。


 俺は三人の背後を守るように立ち、あくまで「巻き込まれただけの冴えない男子生徒」というスタンスを崩さずに首を垂れた。


「さて。今日君たちを呼んだのは他でもない。最近、この学園で起きている『いくつかの不自然な現象』について、君たちに心当たりがないか聞きたくてね」


 西園寺は机の引き出しから、分厚いファイルの束を取り出し、バンッと音を立てて机の上に置いた。


「一つ。先日の全校一斉持ち物検査における、第二学年フロアでの不自然な死角の発生。そして特定の生徒たちの私物が、まるでマジックのように消失したという風紀委員からの報告」


「二つ。学園の裏庭で発生した、サッカー部主将・神城修二の公開告白における、スプリンクラーの異常作動。メンテナンス業者の調査では、機械に一切の故障は見られなかった」


「三つ。家庭科の調理実習における、第四班の不可解な調理プロセス。用意された食材と手順からは到底導き出せないはずの、プロ顔負けのカレーの完成」


 西園寺の声が、静かな生徒会室に重く響く。


 俺の心拍数が、わずかに跳ね上がった。

こいつ、ただの優等生じゃない。個別の事象としては「偶然」や「ちょっとしたトラブル」で済まされるはずの事柄を、たった数日で一つの線に繋ぎ合わせ、俺たち四人という共通項を炙り出してきたのだ。


「九条凛。君は学園のアイドルとして振る舞っているが、時折、極度の睡眠不足によるものと思われる集中力の欠如が見られる。一ノ瀬拓海。君の持つ情報網は、一介の高校生の域を逸脱している。そして羽鳥栞。君の紡ぐ言葉には、大衆の心理を誘導するための高度なプロファイリング技術が隠されている」


 西園寺が立ち上がり、革靴の音を響かせながら俺たちの前へと歩み寄ってきた。九条さんがビクッと肩を震わせる。


「君たちは、この学園の秩序ルールを裏から乱している。違うかい?」


 完全にチェックメイトだ。これ以上追及されれば、九条さんの廃人ゲーマーぶりも、拓海の裏情報屋としての活動も、栞の猟奇小説家としての素顔も、すべて白日の下に晒される。


 三人が絶望的な表情で黙り込んだその時。


「……あの、生徒会長」


 俺は、おずおずと、いかにも気弱で凡庸な男子生徒の声を装って口を開いた。


 西園寺の鋭い視線が、俺を射抜く。


「なんだい、相沢湊くん。君の成績は全教科見事なまでに学年平均点。部活動にも未所属。君のような『無個性』な生徒が、なぜこの三人と常に行動を共にしているのか、私にはそれが一番の謎なのだがね」


「いえ、あの……会長、お疲れのようでしたので。もしよろしければ、紅茶を淹れさせていただいてもよろしいでしょうか」


 俺の突拍子もない提案に、西園寺は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。九条たちも「相沢くん、こんな時に何言ってんの!?」という顔で俺を見上げている。


 だが、俺の目は、西園寺の執務机の端に置かれた、冷めきって色が濁ったティーカップを正確に捉えていた。


「……君が、紅茶を?」


「はい。僕、目立つことは苦手なんですが、お茶を淹れるのだけは昔から得意でして。生徒会室の隅に、立派なティーセットと茶葉があるのが見えたものですから。……お話は、その後でゆっくり伺います」


 俺は西園寺の返事を待たずに、部屋の隅にある給湯スペースへと歩を進めた。


 これは、フィクサー時代の交渉術の一つだ。相手が構築した完璧なロジックと緊張の糸を、全く無関係な行動で一度強制的に断ち切る。相手のペースを崩し、こちらの土俵へと引きずり込むための初手。


 棚には、最高級のダージリンの茶葉が置かれていた。俺は電気ケトルで正確な温度のお湯を沸かしながら、ポットとカップを温める。茶葉の量は、通常の規定量よりもほんのわずかに少なく。抽出時間は、マニュアルより十秒短く。


 なぜなら、西園寺の目の下には、薄化粧でも隠しきれない微かなクマがあり、彼の呼吸は通常よりも浅かった。完璧主義者ゆえの、極度の慢性疲労とストレス。今の彼の胃と神経は、渋みの強い正統派の紅茶を受け付けない状態になっている。


 三分後。俺は琥珀色に輝く紅茶を注いだカップを、西園寺の机に静かに置いた。


「どうぞ。ダージリンのセカンドフラッシュです。少しだけ温度を下げて、香りを引き立たせました」


 西園寺は訝しげに俺を見つめた後、ため息をつきながらカップを手に取った。


 そして、一口。

その瞬間、西園寺の肩から、目に見えて力が抜けたのがわかった。


「……っ。これは……」


 彼の見開かれた瞳が、信じられないものを見るようにカップの中の液体を見つめる。


 渋みを極限まで抑え、マスカットのようなフルーティーな香りだけを前面に押し出した一杯。疲労しきった彼の脳と神経に、温かい液体が優しく浸透していくのが、手にとるようにわかった。


「会長。先ほどのお話ですが……すべては『偶然の重なり』に過ぎません」


 俺は西園寺が紅茶の香りに意識を奪われている隙を突き、極めて平坦な、しかし暗示をかけるような低い声で言葉を紡ぎ始めた。


「持ち物検査の件は、生徒たちがパニックを起こしたことによる風紀委員の連携ミスです。スプリンクラーの誤作動は、古い配管内の空気圧の変化によるもの。そしてカレーの実習は……早乙女先生が、生徒の自主性を評価するためにあえて高い点数をつけただけでしょう」


「しかし……君たちの不自然な行動は……」


 西園寺の声から、先ほどの鋭い覇気が消え失せていた。極上の紅茶によって副交感神経が優位になり、脳の攻撃的アグレッシブな思考回路が鈍っているのだ。


「九条さんが疲れているのは、間近に迫った体育祭の実行委員としてのプレッシャーからです。一ノ瀬くんはただ顔が広いだけ。羽鳥さんは、読書家ゆえに言葉の選び方が少し大人びているだけです。僕たちは、どこにでもいるただの高校生ですよ」


 俺は西園寺の目を見据え、ゆっくりと、念を押すように言った。


 西園寺は手元のファイルをしばらく見つめていたが、やがてふっと息を吐き出し、眼鏡の位置を直した。


「……君の言う通りかもしれないな。最近、少し神経質になりすぎていたようだ。次期生徒会選挙の準備で、どうやら私自身が一番、余裕をなくしていたらしい」


 西園寺は残りの紅茶を飲み干すと、ふっと自嘲気味に笑った。


「見事な紅茶だったよ、相沢くん。君のその『無個性』の裏には、随分と面白い才能が隠れているようだ。……今日のところは帰っていい。だが、今後も君たちの動向は注視させてもらうからね」


「……失礼します」


 俺は深く一礼し、いまだに状況が飲み込めていない三人へ目配せをして、逃げるように生徒会室を後にした。



 ——夕暮れの帰り道。


 旧校舎の影が長く伸びる中、俺たちは無言のまま学園の門を抜けた。

そして、通学路の角を曲がった瞬間。


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!! 死ぬかと思った!!! 生きた心地がしなかったわよ!!」


 九条さんがその場に崩れ落ち、頭を抱えて絶叫した。


「マジで心臓止まるかと思った……。俺の占いでも『絶体絶命の危機』って出てたのに、湊、お前よくあんな状況で紅茶なんか淹れられたな!?」


 拓海が俺の肩をバシバシと叩きながら、安堵の涙を流している。


「相手の思考のバイアスを破壊し、肉体的な疲労という弱点を突いて主導権を奪い返す。……見事な手腕だったわ、相沢くん。あなたが本物のフィクサーだったという事実を、今日ほど頼もしく思ったことはないわ」


 栞もまた、冷や汗をハンカチで拭いながら小さく微笑んだ。


「……勘違いするな。俺はただ、自分の平穏なモブライフを守りたかっただけだ。あそこで西園寺に目をつけられたら、俺の放課後の買い出しの時間が削られるからな」


 俺は肩をすくめ、前を向いて歩き出した。


 強がりを言ったが、実際、俺の背中も嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。西園寺玲王。あの男の直感は本物だ。今回は紅茶による心理操作で強引に煙に巻いたが、次は通用しないかもしれない。学園という名の箱庭で、俺の「平穏な日常」を守るための防衛戦は、ますます難易度を上げているようだった。


「ほら、さっさと帰るぞ。今日は精神をすり減らしたからな。夜飯は、お前らの大好きなやつにしてやる」


「大好きなやつって……もしかして!」


 九条さんの顔が、パァッと明るくなる。


「ああ。半熟卵をナイフで割ると、中からトロトロの卵が溢れ出す『特製デミグラス・オムライス』だ。ケチャップライスには、細かく刻んだマッシュルームと鶏肉をたっぷりと入れてやる」


「やったぁぁぁぁっ!! 相沢くん、一生ついていく!!」


「俺、チーズも乗せてほしい!」


「私は、デミグラスソースに少し赤ワインを効かせて深みを出してちょうだい」


 夕日に染まる住宅街に、共犯者たちの騒がしい声が響き渡る。


 誰もが秘密を抱え、薄氷の上を歩くような日々。だが、冷酷なはずの俺の心は、この騒がしい足音と共に帰るすみれ荘のキッチンを、今はただ早く見たいと願ってしまっていた。


 今日のオムライスは、少しだけ卵に生クリームを多めに入れて、限界まで甘やかして作ってやるか。


 俺は微かに口角を上げながら、傾きかけた太陽に向かって歩幅を広げた。

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