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すみれ荘には普通の人間がいない 〜元・天才フィクサーの平穏な日常は、深夜のキッチンで崩壊する〜  作者: リリリリス
【第二章:共犯者たちの学園狂騒曲】

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第十八話:三日目のスパイスと理性を失う共犯者たち

約束の週末。日曜日の夕暮れ時。


 すみれ荘のキッチンは、さながら厳重なセキュリティが敷かれた『絶対不可侵領域サンクチュアリ』と化していた。


 俺——相沢湊は、腰に黒いエプロンを巻き、腕を組んでコンロの上の巨大な寸胴鍋を睨みつけていた。


 木曜日の放課後から仕込みを始め、丸三日。


 大量の玉ねぎを三時間かけて極限まで炒め抜き、独自に配合した二十種類のホールスパイスとパウダースパイスを、ミリグラム単位の精度で火入れして香りを引き出す。そこへ、赤ワインと香味野菜でトロトロになるまで煮込んだ牛すじ肉のスープを合わせ、静かに、ただひたすらに寝かせと加熱を繰り返す。


 かつて裏社会の勢力図をミリ単位で調整していたフィクサーとしての異常な集中力は、今やこの「究極のカレー」を完成させるためだけに注がれていた。


「……よし。スパイスの角が取れ、肉の脂と完全に乳化した。仕上げのガラムマサラと、隠し味のビターチョコを……」


 俺がトングで慎重に鍋の中をかき混ぜていると、背後からズルッ、ズルッ、と床を這うような不気味な音が聞こえてきた。


「……相沢くぅん……。もう、いい加減、限界なんだけど……」


 振り返ると、リビングの入り口に九条凛が倒れていた。


 いつもの芋ジャージ姿だが、金曜日の夜からカレーの強烈な香りを嗅がされ続けた結果、完全に理性を失ったゾンビのような目つきになっている。その手には、なぜか白米が山盛りにされた深いどんぶりがしっかりと握られていた。


「まだだ。あと十五分、蓋をして蒸らす。ここでの温度変化が香りの最終到達点を決めるんだ。……おい、それ以上近づくな。キッチンの入り口に張ってある『鳴子』の糸に触れるぞ」


「そんなトラップ、私が解除してやるわ……っ! この三日間、部屋にいてもお風呂に入っても、すみれ荘中を満たすスパイスの香りのせいでゲームにも集中できなかったのよ! 私の胃袋はもう、限界を超えてるの!!」


 九条さんがどんぶりを掲げたまま、キッチンの床を這いずりながらジリジリと距離を詰めてくる。学園の完璧なアイドルが見たら、全男子生徒がショックで寝込むであろう凄惨な光景だ。


「おいおい九条さん、抜け駆けはズルいって〜! 俺だって、さっきから星の導き(タロット)が『今すぐ食え』って激烈にアピールしてきてるんだから!」


 さらにその後ろから、マヨネーズのボトルとスプーンを持った一ノ瀬拓海が飛び出してきた。


「お前は星のせいにするな。それにカレーにマヨネーズをかけるな、俺の三日間の苦労への冒涜だぞ」


「いいじゃないか、相沢くん。人間の欲望とは、かくも浅ましく、そして美しいものよ。……さあ、その鍋の防衛線を解きなさい。私の次回作のヒロインが、今まさにカレーを食べたがっているわ」


 ソファの陰からは、文庫本ではなくマイカレースプーンを握りしめた羽鳥栞が、幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。天才小説家としての語彙力は完全に崩壊し、ただの「カレーを食べたい人」に成り下がっている。


 ……ダメだこいつら。


 調理実習の時の「応急処置カレー」でハードルを上げすぎたせいで、三日間の焦らしに耐えきれず、野生の獣に戻ってしまっている。


「お前ら、俺に向かって力ずくで奪えると思っているのか。大人しく座って待っていろ」


 俺が冷酷な声で言い放つと、三人はピタリと動きを止めた。俺の醸し出す本物のプレッシャーに、ようやく少しだけ理性が戻ったらしい。


 俺はため息をつき、火を止めて鍋に蓋をした。


 十五分後。

タイマーが鳴ると同時に、俺は四枚の深皿に、完璧に炊き上げた硬めのサフランライスを盛り付けた。そして、寸胴鍋の蓋を開ける。


 ——ブワァッ!!


 その瞬間、暴力的なまでのスパイスの香りが、熱気と共にキッチンからリビングへと爆発的に広がった。


 クミンの野性味、コリアンダーの爽やかさ、カルダモンの高貴な香り。それらが複雑に絡み合い、深海のように黒光りするルーの中で一つにまとまっている。


 俺はレードルでルーをすくい、ライスの横にたっぷりと流し込んだ。仕上げに生クリームをひとすじ垂らし、パセリを散らす。


「……待たせたな。相沢特製・三日仕込みの『漆黒の牛すじスパイシーカレー』だ」


 俺がダイニングテーブルに四つの皿を並べた瞬間、三人は椅子に瞬着し、無言のままスプーンを手に取った。


 いただきますの言葉すらない。九条さんに至っては、手が微かに震えている。


 彼女はスプーンにルーとライス、そして形が崩れる寸前まで煮込まれた牛すじ肉を乗せ、大きく口に運んだ。


 一秒。

 二秒。


「——っっっ!!!」


 九条さんが、音のない悲鳴を上げた。

目を見開き、両手で頬を押さえ、そのまま天を仰ぐ。


「な、何これ……! 最初は野菜と果物のフルーツみたいな甘さが来るのに、次の瞬間、複雑なスパイスの辛味が波のように押し寄せてくる……! お肉……牛すじ肉が、舌の上で噛まなくても溶けて消えたわ! なのに旨味だけがずっと口の中に残ってる!!」


「ヤッバ……! なんだこれ、俺の知ってるカレーじゃない! 飲み物じゃん! 喉の奥からスパイスの香りが鼻に抜けて、脳みそが直接痺れる感じ……! マヨネーズなんてかけたら絶対にダメなやつだこれ!」


 拓海がマヨネーズのボトルを窓の外へ放り投げる勢いで感動している。


「……見事よ。幾重にも重なるスパイスの伏線が、口の中で一つの壮大なミステリーを完結させている。私の舌は今、相沢くんの掌の上で完全に踊らされているわ……ッ!」


 栞に至っては、目を潤ませながら恐ろしいスピードで皿を空にし始めている。


 スプーンと皿がぶつかるカチャカチャという音だけが、狂ったようなテンポでリビングに響き渡った。


 ものの三分。

あっという間に三人の皿は空になり、九条さんが「おかわり……!」と力なくスプーンを差し出した。


「言っておくが、これは一人二皿までだ。夜中に胃もたれして騒がれても困るからな」


 俺は呆れながらも、三人の皿を受け取り、再び鍋からルーを注いだ。


 学校では、完璧なアイドル、チャラいモテ男、孤高の天才として振る舞っているこいつらが、今はただの腹を空かせた子供のように、口の周りを汚しながらカレーを頬張っている。


 誰とも関わらない、冷徹で孤独なモブライフ。

俺が思い描いていた『平穏』とは、ほど遠い騒がしさだ。


 だが、自分が計算し尽くして作り上げたものを、ここまで全身全霊で美味そうに食ってくれる共犯者たちの姿を見ていると……俺の中の「フィクサーとしての冷たい心」が、スパイスの熱に当てられたように、ほんの少しだけ緩んでいくのを感じた。


「……相沢くん、これ、また作ってね。絶対だからね」


 口の端にルーをつけた九条さんが、とろけたような笑顔で俺を見上げる。


「三日かかるって言っただろ。……まあ、お前らがテストで赤点を取らなかったご褒美だ。気が向いたらな」


 俺は自分の分の冷めかけたカレーを口に運びながら、窓の外の夜空を見上げた。


 すみれ荘の歪な平穏は、今夜もスパイスの香りと共に、深く、確かなものへと煮詰まっていくのだった。

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