第十七話:調理実習の惨劇と、影のゴースト・シェフ
地獄のような週末の猛勉強から数日が過ぎた、水曜日の放課後。
私立白蘭学園の掲示板の前には、期末テストの結果に一喜一憂する生徒たちの人だかりができていた。
「よっしゃああああっ! 全教科、見事に赤点回避よ! 数学なんて平均点マイナス5点という神がかったスコア! これで私の放課後ゲーマーライフは守られたわ!」
誰もいない廊下の隅で、九条凛がガッツポーズを決めていた。学校用の「完璧なアイドル」の仮面を被っているため声こそ小さいが、その瞳は完全に新作ゲームのパッケージを開ける時のそれだ。
「俺も古文バッチリだったわ〜。湊の言った通り、貴族の合コン心理だと思ったらスラスラ解けたし。マジで湊サマサマだね」
隣で一ノ瀬拓海もホッと胸を撫で下ろしている。
少し離れた窓際では、羽鳥栞が当然のように学年トップの成績表を文庫本の栞代わりに挟んでいた。
「お前ら、あまり目立つな。……俺の苦労を水の泡にする気か」
俺——相沢湊は、周囲の視線を警戒しながら低く呟いた。
俺の手元にある成績表には、見事なまでに全教科「学年平均点ピッタリ」の数字が並んでいる。高すぎず、低すぎず、教師の記憶にも生徒の記憶にも残らない、完全無欠のモブスコア。これこそが、俺がフィクサー時代に培ったスコア・コントロールの芸術だ。
「でも相沢くん、安心するのはまだ早いわよ。明日の木曜日は、私たちにとって最大の鬼門……『家庭科の調理実習』があるんだから」
九条さんの言葉に、俺は微かに眉をひそめた。
白蘭学園の家庭科教師、早乙女先生は、元・高級ホテルのシェフという異色の経歴を持つ、料理に対して異常なまでに厳しい教師だ。しかも明日の実習は、運の悪いことに俺たち四人が同じ班に割り当てられている。
お題は『スパイスから作る本格チキンカレー』。
もし早乙女先生の舌を満足させられなければ、「再実習」という名目で一週間の放課後補習(調理室の清掃含む)が待っている。俺の貴重な平穏なアフタースクールが、洗剤の匂いに染まることなど絶対に避けなければならない。
「……お前ら、料理の腕はどうなんだ」
俺の問いかけに、三人は見事に目を逸らした。
「わ、私は……お湯なら沸かせるわよ? カップ麺の三分だって、体内時計で正確に測れるし」
「俺、包丁持ったことない。だって星が『火と刃物に気をつけろ』って言ってるから」
「私は食べる専門よ。料理の描写は書けるけれど、実際にキッチンに立つのは私の美学に反するわ」
終わった。こいつら、壊滅的に使えない。
「……いいか。明日の実習、お前らは極力何もしなくていい。俺が適当にモブらしく、可もなく不可もないカレーを作ってやり過ごす。余計な手出しは一切するなよ」
俺は固く念を押し、その日は解散となった。
だが、俺はこいつらの「学園でのポンコツ具合」を甘く見ていたのだと、翌日の調理室で痛感することになる。
——木曜日、四時間目。調理室。
「はい、それじゃあ各班、調理開始! 制限時間は五十分よ。私の舌を唸らせるカレーを作ってみなさい!」
早乙女先生の号令と共に、実習がスタートした。
俺はあくまで「班の中で目立たず、黙々と作業をこなす男子生徒」を演じるため、一番地味な玉ねぎの皮むきから始めようとした。
しかし、俺が目を離したわずか数十秒の間に、惨劇は起きていた。
「ちょっと一ノ瀬くん! 鶏肉は私が切るから、あなたは鍋に火をつけて!」
「えー、でも九条さん、その切り方ヤバくない!? 肉っていうか、謎のサイコロ状になってるけど!」
まな板の上では、九条さんが学園のアイドルの微笑みを浮かべながら、鶏肉を親の仇のように滅多斬りにしていた。肉の繊維は完全に破壊され、旨味がすべて逃げ出している。
さらに最悪なことに、彼女の隣では栞が勝手にスパイスの小瓶をブレンドし始めていた。
「……ふむ。ここでクミンを規定量の三倍入れれば、物語のスパイスと同じように、味にドラマチックな狂気が生まれるはずよ」
「待て、やめろ羽鳥!! それは狂気じゃなくてただの致死量の粉だ!!」
俺が慌てて止めに入ろうとした瞬間、早乙女先生が腕を組んで俺たちの班に近づいてきた。
「あら、九条さんの班ね。……ちょっと、その鶏肉の切り方は何!? 繊維がボロボロじゃない! それに、そっちのスパイスの配合は……」
早乙女先生の目が、鷹のように鋭く光る。
マズい。このままでは放課後の再実習が確定する。それだけは、何があっても阻止しなければならない。
「先生。申し訳ありません、私のミスです」
俺は咄嗟に前に出て、深く頭を下げた。
「九条さんには、あえて肉を小さく不揃いに切ってもらいました。煮込み時間を短縮しつつ、あえて食感にバラつきを持たせることで、単調な味にリズムを生むためです」
「……ほう? 食感にリズム、ねえ」
「そして羽鳥さんのスパイスも、彼女の独創性を活かした隠し味です。……ここからが、我々第四班の真骨頂です。どうぞ、完成をお楽しみに」
早乙女先生は疑わしげな視線を向けたまま、「……いいでしょう。期待しているわよ」と告げて、別の班へと去っていった。
俺は深々とため息をつき、三人を振り返った。
九条さんは泣きそうな顔で包丁を握り、拓海は怯え、栞は少しだけ気まずそうに目を伏せている。
「……相沢くん、ごめんなさい。私、アイドルだから料理とか全然できなくて……」
「お前ら……俺が手出しするなと言っただろうが」
だが、もはや後戻りはできない。狂ったスパイス配分と、ボロボロの鶏肉。この絶望的な手札から、早乙女先生を納得させる味を構築しなければならない。
モブとしての平穏を守るため、俺の中で眠っていた『フィクサー(裏の調整屋)』のスイッチが、カチリと音を立てて切り替わった。
「全員、俺の指示通りに動け。ここから巻き返すぞ」
俺の声は、普段の冴えない同級生のものではなく、絶対的な指揮官のそれに変わっていた。
「九条さん。お前は鍋の前に立って、俺が合図するまで絶対の一定リズムで木べらを回せ。アイドルスマイルはキープしろ、早乙女先生の視線を惹きつけるんだ(デコイ)」
「わ、分かったわ!」
「拓海。お前は流し台で洗い物をしろ。ただし、俺が調理する手元を、お前の背中で完全に死角にして隠せ(シールド)」
「了解! 背中なら任せて!」
「羽鳥。お前は周囲の班の進捗状況と、早乙女先生の動線を監視しろ。先生がこちらを向いたら、咳払いで合図だ(センサー)」
「……ええ、任せてちょうだい」
完璧なフォーメーションが組まれた。
拓海の広い背中と、九条さんの眩しい笑顔が、俺の作業スペースを完全に隠蔽する。
俺はその見えない空間の中で、神速の包丁捌きを発動した。
ボロボロになった鶏肉は、あえて表面に強烈な焼き色をつけ、旨味を無理やり封じ込める。
栞が暴走させたスパイスには、備え付けのヨーグルトと少量のトマトペーストを秒速で混ぜ合わせ、強引に酸味とコクのバランスを整え、意図的な「エスニック風」へと軌道修正する。
玉ねぎは、通常の炒め時間では間に合わないため、俺が隠し持っていた「秘密の調味料(ただの重曹)」をひとつまみだけ加え、化学反応で一気に飴色へと変成させる。
まるで手品だった。
他の生徒の目には、俺はただ拓海の後ろでボーッと立っているだけのモブにしか見えない。九条さんが一生懸命に鍋をかき混ぜているようにしか見えないのだ。
だが、鍋の中身は、俺の指先が触れるたびに劇的な進化を遂げていた。
香りが変わる。
最初はバラバラだったスパイスの刺激臭が、火入れと水分の絶妙なコントロールによって、一つの調和した「暴力的なまでの食欲をそそる香り」へとまとまっていく。
「(相沢くん……先生が向かってくるわ)」
栞の微かな咳払い。
俺は即座に火を止め、木べらを九条さんの手に戻し、一歩後ろへ下がった。
「はい、そこまで! 全班、試食に入るわよ!」
早乙女先生が、クリップボードを手に俺たちの班の前にやってきた。
鍋の中には、深い飴色に輝く、美しいチキンカレーが仕上がっている。
「……見た目と香りは、悪くないわね。でも、あのボロボロの肉と無茶苦茶なスパイスがどうなったか……」
先生がスプーンで一口すくい、口に運ぶ。
その瞬間、先生の動きがピタリと止まった。
「な……っ!?」
目が見開かれ、スプーンを持つ手が微かに震えている。
「この、奥深いコク……! ヨーグルトとトマトの酸味が、過剰なスパイスを完璧に包み込み、むしろ高級店のエスニックカレーのような複雑な旋律を奏でている! そしてこの鶏肉……小さく不揃いな分、ルーの旨味が芯まで染み込み、噛むたびに口の中でルーと肉が一体化する……!」
早乙女先生は、まるで幻覚でも見ているかのように鍋を見つめた。
「こ、これを、本当にあなたたちが作ったというの……?」
俺はすぐさま九条さんの背中をツンと突いた。
九条さんはハッとして、完璧なアイドルスマイルを全開にした。
「はいっ! 先生のアドバイスを思い出しながら、みんなで協力して作りました!」
「素晴らしいわ……! 第四班、文句なしのA評価よ!」
調理室に、他の班からのどよめきと拍手が巻き起こる。
九条さんと拓海がハイタッチをして喜び合い、栞がフッと満足げに微笑む。
俺はその背後で、目立たないように小さく息を吐いた。
——放課後。
いつもの路地裏を抜け、すみれ荘へと帰る道すがら。
「あーっ、美味しかった! まさかあんな絶望的な状況から、あんなに美味しいカレーになるなんて! 相沢くん、マジで魔法使いじゃないの!?」
「俺もびびったわ! 湊の手元、速すぎて何も見えなかったし!」
はしゃぐ二人を横目に、俺は少しだけ不機嫌だった。
「勘違いするな。あれは赤点を回避するため、学校にある安物のルーと残り物のスパイスで『応急処置』をしただけだ。俺の本当のカレーは、あんな底の浅い味じゃない」
俺の言葉に、三人の足がピタリと止まった。
「……え?」
九条さんが、ゴクリと生唾を飲み込む。
「あれで『底が浅い』って言うなら……相沢くんの『本気のカレー』は、一体どれだけ美味しいの……?」
「……気になります。私の次回作のグルメ描写のためにも、ぜひ知っておく必要があるわ」
栞の目までがギラギラと輝き始めている。
「チッ……。言っておくが、俺の本気のカレーは仕込みに丸三日かかる。玉ねぎを炒めるだけでも三時間だ。……週末まで待て。お前らの舌のレベルを、一から叩き直してやる」
「「「やったぁーーーーっ!!!」」」
夕暮れの空に、ポンコツな共犯者たちの歓声が響き渡る。
モブとしての平穏を守るための戦いは、いつの間にか、俺自身の「料理人」としてのプライドを刺激する騒がしい日常へとすり替わっていた。
だが、キッチンで腕を振るうことだけは、どうやら俺にとっても悪くない日課になりつつあるらしい。




