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すみれ荘には普通の人間がいない 〜元・天才フィクサーの平穏な日常は、深夜のキッチンで崩壊する〜  作者: リリリリス
【第二章:共犯者たちの学園狂騒曲】

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第十六話:赤点危機のアイドルと、脳を回す特製夜食

金曜日の大告白劇から一夜明けた、週末のすみれ荘。


 リビングのダイニングテーブルには、およそこの館には似合わない、大量の参考書や問題集が積み上げられていた。


「うう……あー、もうダメ。脳細胞が完全にバグを起こしてるわ。ゲシュタルト崩壊ってやつよ。サイン、コサイン、タンジェントって何? 新しいRPGの呪文か何かなの?」


 九条さんが使い古された芋ジャージの襟元を掴みながら、テーブルに頭を打ち付けていた。隣では、一ノ瀬拓海がシャーペンを回しながら「俺も数Bの確率以外、完全に星の配置が見えないわ〜」と、早々に白旗を上げている。


 そう、高校生にとっての最大の敵——『期末テスト』が、週明けの月曜日に迫っていたのだ。


「騒がしいわね。集中線が乱れるから、私の視界の中で騒がないでくれる?」


 テーブルの対面では、羽鳥栞が優雅にハーブティーを飲みながら、学年トップの余裕を漂わせて自習していた。彼女にとって、高校のテストなど、小説の資料を暗記する手間に比べれば赤子の手をひねるようなものらしい。


「羽鳥さんはいいわよね、天才だから! 私なんて、今回のテストで一教科でも赤点を取ったら、事務所から『一ヶ月ゲーム禁止令』と『放課後マンツーマン補習』を言い渡されるのよ! そんなことになったら、私の平穏な廃人ライフが死んじゃう!」

「自業自得だろ。先週の新作ゲームの発売日に、徹夜でログインしてたツケが回ってきただけだ」


 俺——相沢湊は、キッチンから冷たい麦茶のピッチャーを持ってきて、二人の前に置いた。


「相沢くん……! 頼むわ、あなた元・天才フィクサーなんでしょ!? だったら、この絶望的な状況を裏からコントロールして、私の点数を偽装するとか、職員室のサーバーをハッキングして問題を盗み出すとか、そういう『いつものやつ』をやってよ!」

「やるわけないだろ。犯罪だ。それに、俺のフィクサーとしての能力をそんなくだらないことに使うな」


 俺は呆れてため息をついた。


 ちなみに、俺のテスト対策はすでに終わっている。すべての教科で「学年平均点±2点」を正確に叩き出すための、緻密なスコアコントロール。高すぎず、低すぎず、教師の印象にも残らない完全なモブスコアを維持することこそが、俺のフィクシング技術の真骨頂なのだ。


「でもさ、湊。九条さんが補習攻めになったら、放課後の買い出しも夕飯の手伝いもできなくなるよ? それに、ストレスを溜めた九条さんが夜中にゲーム部屋で奇声を上げる確率、占うまでもなく100%なんだけど」


 拓海がニヤニヤしながら、俺の「弱み」を突いてきた。


「……チッ」


 確かに、このズボラアイドルが赤点を取れば、すみれ荘の夜の平穏は間違いなく崩壊する。それは俺にとっても非常にマズい。


「……仕方ない。全員、筆記用具以外を片付けろ。これより、作戦名『ブレイブ・スタディ(赤点回避戦)』を開始する」


 俺が前髪をかき上げ、冷徹なトーンで告げた瞬間、リビングの空気がピリリと引き締まった。


「いいか、九条さん。暗記とは『覚える作業』ではない。『思い出す回路を作る作業』だ」


 俺はホワイトボードを引き寄せ、世界史の重要年号と相関図を凄まじい速度で書き殴っていった。かつて、数カ国の諜報員の名前と偽造パスワードを一夜で暗記した、フィクサーの「脳内ストレージ構築術」の応用だ。


「世界史の事件をただの数字で覚えるな。これは、敵対する組織同士の『騙し合いのプロット』だと思って読め。このボスが、こっちの領土シマを奪うために、裏で暗術を仕掛けた。だが、こっちのフィクサーが……」

「……あ、あれ? 何それ、めちゃくちゃ面白い。ゲームのシナリオみたいに頭に入ってくるわ……!」


 九条さんの瞳に、廃人ゲーマー特有の「異常な集中力」のスイッチが入った。彼女は物語ストーリーとして物事を把握する能力が天才的に高い。俺はその特性をハックし、勉強を「裏社会の抗争シミュレーション」に脳内変換させたのだ。


「拓海、お前は記述式の古文だ。単語の意味を覚えるんじゃない。当時の貴族の『合コンでの駆け引きの心理』を読み解け。お前のチャラい直感なら、こいつがどれだけ見栄を張っているか分かるはずだ」

「うわ、本当だ! この歌、要するに『今夜帰りたくない』って言ってるだけじゃん! ちょろいねぇ!」


 二人のペンが、猛烈な速度で動き始める。

 栞はそんな俺の指導法を、ノートPCにパチパチと記録しながら、感心したように呟いた。


「素晴らしいわね、相沢くん。人間の認知特性を完全に掌握して、最短ルートで知識を叩き込んでいるわ。……やっぱりあなた、ただの掃除係にしておくには惜しい人材ね」

「静かにしろ、羽鳥。……ここからが本当の地獄だ。時計を見ろ」


 夜の静寂がすみれ荘を包み込み、時計の針が深夜二時を回った頃。


 リビングには、完全にエネルギー切れを起こした二人のゾンビが転がっていた。


「あ、頭が熱い……。糖分が……脳のブドウ糖が完全にゼロよ……」


 九条さんがシャーペンを握ったまま、白目を剥きかけている。


「俺も……文字が全部、記号に見えてきた……。限界、限界突破だわ……」


 拓海も机に突っ伏してピクリとも動かない。


 深夜の勉強において、最も効率が落ちるのがこの「脳の飢餓状態」だ。ここで下手に重い夜食を食べれば、消化に血が巡り、猛烈な眠気に襲われることになる。


「お前ら、15分だけ休憩だ。……動くなよ」


 俺は静かに立ち上がり、深夜のキッチンへと向かった。


 冷蔵庫から取り出したのは、完熟したバナナ、無塩のミックスナッツ、そして一切れの厚切り食パン。さらに、スパイスラックから数種類のシナモンとカルダモンを引き出す。 


 トースターで食パンをカリッと黄金色に焼き上げる間に、フライパンでバターを溶かし、スライスしたバナナをソテーする。バナナの甘い香りが熱で引き出されたところに、粗く刻んだナッツを投入。仕上げにハチミツをたっぷりと回し入れ、スパイスを軽く振りかける。


 じゅわあ、という甘美な音と共に、すみれ荘のキッチンに「脳を極限まで刺激する至高の香り」が広がっていった。


「お待たせ。……特製『脳活・キャラメルバナナのハニアナッツトースト』だ」


 テーブルに置かれた皿には、カリカリのトーストの上に、とろとろに溶けたキャラメル色のバナナと、香ばしいナッツが山盛りに乗っていた。


「な、何これ……! 匂いだけで、死にかけてた脳細胞が強制起動されたわ……!」


 九条さんが吸い寄せられるようにトーストに齧り付いた。


「——っ!? 美味しい……! バナナの濃厚な甘みと、ハチミツのコクが、ダイレクトに脳に染み渡っていく……! それに、このナッツのカリカリした食感が、噛むたびに頭をシャキッとさせてくれるわ!」

「お、おいおい、これマジでヤバいって! スパイスの香りで、鼻から脳みそまで一気に覚醒する感覚だわ。湊、天才すぎない!?」


 拓海も大口でトーストを貪り食う。


「バナナの果糖とハチミツのブドウ糖は、最も素早く脳のエネルギーになる。さらにナッツに含まれる不飽和脂肪酸と亜鉛が脳の働きを活性化させ、噛む動作そのものが脳への血流を促す。スパイスは眠気覚ましだ。……計算通りだな」


 俺が腕を組んで解説していると、いつの間にか栞が俺の隣に立っていた。彼女の皿にも、小さなサイズにカットしたトーストが乗っている。


「……見事ね。甘みの中に、カルダモンの爽やかな風味が効いていて、重さを感じさせない。深夜にこれ以上の夜食はないわ。相沢くん、私にもこれを食べる権利をくれて感謝するわ」


 栞は満足そうに目を細め、上品にトーストを口に運んだ。


「さあ、エネルギーは補給したな。期末テスト開始まで、あと50時間。……ここからが本番だ。朝まで叩き込んでやるから、覚悟しろ」

「「イエス・サー!!(指揮官!)」」


 特製夜食で脳を完全にブーストされた二人は、再び凄まじい気迫で問題集へと向かっていった。


 深夜のキッチンに、再び包丁を片付ける小さな音が響く。


 誰とも関わらない、静かなモブライフ。

そんなものはとうに消え去ってしまったけれど、こうして一つの机を囲み、同じ試練に向かって(片方は赤点回避、片方は平均点キープという歪な目的だが)夜を徹して戦うこの騒がしい時間が、俺はそれほど嫌いではなかった。

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