第十二話:暗闇の狂宴と絶対領域
パチン。
すみれ荘の全電源が落ち、館が完全な暗闇に沈んだその瞬間。
割れた窓ガラスを踏み越え、リビングへと侵入してきた「敵」は、暗視ゴーグル越しに舌打ちをした。
「……チッ、古い館だからブレーカーが落ちたか? まあいい、ガキ共がパニックになっている間に、全員のスマホとPCを抜き取ってやる」
黒ずくめのタクティカルスーツに身を包んだ男。彼は、政財界の裏情報を高値で売り捌く悪徳情報屋だった。一ノ瀬拓海の『カリスマ占い師』としてのアカウントをハッキングする過程で、この館に集う異常な住人たちの秘密に気づき、一攫千金を狙って襲撃を仕掛けてきたのだ。
男は手慣れた様子でスタンガンを取り出し、暗視ゴーグルで周囲を見渡した。
だが、彼の視界に飛び込んできたのは、怯えて震える高校生たちの姿ではなく——。
——ピィィィィィィン……ッ!
突如、男の耳元に装着されていたインカムから、脳味噌を直接削り取るような強烈な高周波ノイズが鳴り響いた。
「ぐあああっ!? な、なんだこのジャミングは……!?」
男が思わずインカムを引き剥がしたその瞬間、彼の暗視ゴーグルの視界が、真っ白なノイズに埋め尽くされた。湊が館の四隅に仕掛けていた『妨害電波』が、男の電子機器を完全に無効化したのだ。
視覚と聴覚を奪われた男が後ずさった、その足元。
——カチッ。
カーペットの下に巧妙に隠されていた「感圧式センサー」を、男のブーツが踏み抜いた。
『あら、いらっしゃい。不作法なネズミさん』
暗闇の空間に、館の旧式スピーカーから羽鳥栞の冷徹な声が響き渡る。
それは、あらかじめ録音され、センサーと連動して再生されるように仕組まれた「心理トラップ」だった。
『あなたの個人情報、過去の犯罪履歴、そして裏口座のパスワード。……すべて、私のパソコンの中にダウンロードさせてもらったわ。今頃、警察のサーバーにも同じものが届いている頃ね』
「な……っ!? クソガキが、ハッタリを抜かすな!」
男が声のする方向へ向かってスタンガンを振り回す。だが、もちろんそこに栞の姿はない。彼女の言葉は半分がハッタリだが、半分は事実だ。拓海が逆探知したサーバーの情報を元に、栞のハッキング技術がすでに男の退路を断ち切っていた。
「右舷前方、三メートル! ネズミが暴れてるよ、九条さん!」
二階の吹き抜けから、一ノ瀬拓海のチャラい声が飛ぶ。彼はジャミングの影響を受けないアナログな集音器と、野生の勘にも似た「星読み」で、暗闇の中の男の動きを完全に把握していた。
「了解よ!……くらえっ、レベル45の暗殺者の必殺技!」
拓海のナビゲーションに呼応し、暗闇の天井付近から、芋ジャージ姿の九条凛が「何か」を投擲した。
バサァッ! という音と共に男の頭上から降り注いだのは、すみれ荘の物置にあった重厚な『防刃ネット』だった。深夜のゲームで鍛え上げられた彼女の異常な反射神経とエイム力は、暗闇の中でも見事に標的を捉えたのだ。
「ぐっ!? なんだこの網は……! ふざけるな、こんなもの!」
男がもがきながら、隠し持っていたサバイバルナイフでネットを切り裂こうとした、その時だった。
「——そこまでだ」
男の背後。
絶対的な死角から、氷のように冷たい声が響いた。
「ひっ……!?」
男が振り返る間もなかった。
音もなく背後に回っていた相沢湊の手刀が、男の首筋を正確に打ち抜いた。
手加減は完璧に計算されていた。殺さず、しかし確実に脳への血流を一瞬だけ遮断し、意識を刈り取る『フィクサーの制圧術』。
「あ……が……」
男は白目を剥き、糸が切れた操り人形のように、その場にドサリと崩れ落ちた。
制圧までにかかった時間は、わずか五秒。
「……やれやれ。俺の仕掛けた物理トラップの三段階目まで行く前に終わってしまったな。拍子抜けだ」
湊は冷ややかに男を見下ろしながら、暗闇の中で小さくため息をついた。
パチッ。
館の電源が復旧し、オレンジ色の温かい照明がリビングを照らし出した。
床には防刃ネットに絡まり、猿轡を噛まされて気絶している黒ずくめの男。
その周囲を、すみれ荘の住人たちがグルリと囲んでいた。
「ふぅ〜……終わったわね。私の見事な投擲、見たでしょ相沢くん!」
九条さんが芋ジャージの袖を捲り上げ、ドヤ顔で胸を張る。恐怖はすっかり消え去り、まるでゲームのボス戦をクリアした後のような高揚感に包まれていた。
「あはは、湊の言った通り、マジで一瞬で終わったじゃん! 占うまでもないクソ雑魚だったねぇ」
拓海が笑いながら男のポケットからスマホとUSBメモリを抜き取り、栞にパスする。
「ええ。このデータがあれば、彼が二度と私たちに手を出せないよう、社会的な息の根を止めることができるわ。……私の次作の『哀れな悪役』のモデルとして、骨の髄まで利用させてもらうわね」
栞はUSBを高く掲げ、極上の笑みを浮かべた。
完璧超人のズボラアイドル、チャラいカリスマ占い師、毒舌の天才小説家。
そして、それらをまとめ上げた元・天才フィクサー。
誰一人欠けても、この完璧な防衛戦は成立しなかった。彼らはそれぞれの「裏の顔」を武器として持ち寄り、初めて一つのチームとして機能したのだ。
「お前ら、あまり調子に乗るなよ。こいつの処理は俺が知り合いの『清掃業者(裏の警察)』に引き渡しておく。……それより、今日はもう遅い」
湊はエプロンを手に取り、いつものように首の後ろで紐を結んだ。
彼の瞳からフィクサーとしての冷徹な光が消え、冴えない、しかしどこか安心感のある「すみれ荘の管理人」の顔へと戻る。
「たくさん動いて、腹が減っただろ。……夜食にするぞ」
その言葉に、三人の顔がパァッと明るく輝いた。
「やったぁ! 私はオムライスがいい! ケチャップたっぷりのやつ!」
「俺、ラーメン! 湊の作る鶏ガラ醤油ラーメン!」
「私は、消化に良い温かいスープをお願いするわ。……それと、濃いめのブラックコーヒーも」
「注文が多いな……。オムライスとラーメンとスープを同時に作れってか。俺を誰だと思ってるんだ」
文句を言いながらも、湊はキッチンへと向かう。
冷蔵庫を開け、手際よく食材を取り出すその背中を、三人はリビングのソファから温かい眼差しで見つめていた。
深夜のキッチンに、包丁がまな板を叩くリズミカルな音が響き始める。
フライパンでバターが溶ける甘い匂いと、ネギが油で弾ける香ばしい匂いが、先ほどまでの血生臭い緊張感を完全に上書きしていく。
「ねえ、相沢くん」
キッチンカウンターからひょっこりと顔を出した九条さんが、セロハンテープで補強された眼鏡を押し上げながら、ふふっと笑った。
「私たち、なんだかんだ言って……『最強のパーティー』かもしれないわね」
「ゲームのやりすぎだ。……ほら、できたぞ。さっさと食って寝ろ」
テーブルに並べられた、三者三様の夜食。
湯気を立てる料理を囲み、「いただきます!」と声を合わせる歪な共犯者たち。
こうして、すみれ荘に最大の危機をもたらした長い日曜日は終わりを告げた。
秘密を共有し、修羅場を乗り越えた彼らの絆は、以前よりもずっと強固なものになっている。
元・天才フィクサーの平穏な日常は、深夜のキッチンで崩壊し——そして、新たな形となって、再び始まっていくのだった。




