第19話 穂花の抱負を書き直す夜
2026年6月18日(木)の夜、花川商店街は店じまいの音が遠くで続いていた。シャッターが下りる金属音、ほうきで砂を集める擦れた音、喫茶店のドアベルの軽い音。花むすびの裏へ回ると、街灯の明かりは少し届きにくく、代わりに虫の声が低く広がっていた。
穂花は裏口の前にしゃがみ、バケツの縁を布で磨いていた。第3話の頃から、気づくと手がそこへ向いてしまう。錆の残るところにだけ力が入り、磨きすぎたところは光ってしまう。光った縁に自分の指先が映って、穂花は眉をしかめた。
「……私、やりすぎるなあ」
独り言に返事はない。けれど、後ろの戸の隙間が少しだけ開き、空気が動いた。
利里が折りたたみ椅子を一つ、地面が平らな場所に置いた。椅子の脚がガタつかない位置を探して、ほんの数センチずつずらす。利里は座り、膝の上に小さな保温ポットを置いた。蓋を開けても、匂いを派手に撒かない。音も小さい。
利里が一言だけ言う。
「磨くと、落ち着く」
穂花は布を止めずに笑った。
「落ち着かせたいんだと思う。……明後日、開けるかもしれないし」
「開ける」
利里は迷わず言い、ポットからカップへ紅茶を注いだ。液面が揺れたのに、溢れないところで止まる。
条が裏口から出てきた。両手には紙とペン。紙は四枚、同じ大きさに切ってあり、角が揃っている。ペンは四本、同じ型で、インクの色だけが違う。
「書く準備、できました」
条は地面に薄い板を置いた。作業台の代わりだ。板の端が土に埋まらないよう、小石を二つ挟む。小石の形まで揃えようとして、途中で諦めた。
穂花が言う。
「条くん、諦めた」
条は表情を変えず頷く。
「時間がないので。2026年6月18日、夜だから」
利里が一言。
「夜は、短い」
最後に櫂が出てきた。手には小さなランプ。店内で見つけた古いものらしく、ガラスが少し曇っている。櫂はランプを板の横に置き、火を点けた。火は小さいのに、紙の白さだけをまっすぐ照らした。
穂花は磨いていたバケツを止め、ランプの明かりへ目を向けた。
「……なんで、ランプ?」
櫂は短く言う。
「手元が見えない」
「見えるよ。街灯あるし」
「見えない」
櫂はそう言って、ランプの位置を一度だけ直した。紙の影が揃うように。
条が紙を一枚ずつ配った。利里には利里の前。櫂には櫂の前。穂花には穂花の前。ペンも同じ順に置く。条は最後に自分の分を手元に置いて、言った。
「“今年の約束”を書きます。長くなくていい。いつ、どうするかが分かればいい」
穂花はバケツを横に置き、ペンを持った。ペン先が紙に触れる前に、胸の奥が少しだけ痛む。
就活の頃のことが、勝手に戻ってきたからだ。
2026年3月、穂花はスーツの袖を何度も引っ張って、鏡の前で笑顔を作った。駅のホームで、面接会場の地図を見直し、方向音痴じゃないふりをした。面接室では「志望動機」を噛まずに言えたのに、帰り道でスマホに届く不採用通知の文面だけは、何度見ても目に入った。
「次、がんばろう」
自分に言い聞かせるたび、声が薄くなる。薄くなって、最後は出なくなる。
そのとき、穂花は拍手だけしていた。誰もいない部屋で、自分に向かって、パン、と一回。うまくいったことは何もないのに、手だけが勝手に叩く。音が虚しくて、余計に泣けた。
穂花は今、同じ手でペンを握っている。紙の上に、逃げ道のない白がある。白いところに、自分の声を置くしかない。
穂花はゆっくり書いた。
『私は、私を信じる。うまくいったら叩く。うまくいかなくても、やり方を探す。』
書き終えて、穂花は紙の端を指で揃えた。揃えた瞬間、少しだけ息が楽になった。
条は自分の紙へ、迷わず書いた。書く速度が一定で、線がぶれない。
『途中で投げない。控えを残す。明日やることを今日決める。』
書き終えると、条は紙の角を四つとも同じ角度で折りそうになり、やめた。折ったら読めなくなるからだ。
利里はペンを持ち、止まった。止まったまま、紅茶を一口飲む。それから書いた。
『同じ温度で淹れる。騒いでも、揺れない。足元を見る。』
利里は書き終えると、紙を見つめて、一言だけ言った。
「温度は、嘘をつかない」
穂花は頷いた。泣きそうになったのに、泣かなかった。泣く前に、手を動かしたからだ。
櫂はペンを持っていない。紙の前に座っているのに、手は膝の上で握ったままだ。握った指が、膝の上で角を揃えようとしているみたいに動く。
穂花は無理に見ないふりをやめた。
「櫂さんは?」
櫂は答えず、紙を一度だけ押さえた。押さえた指が震えた。震えが見えないふりをするほど、はっきりする震えだ。
条が淡々と言う。
「書けないなら、書けない、と書けばいい」
利里が一言。
「それも、言葉」
穂花は笑った。
「それ、ずるい」
「ずるくない」
櫂が短く言った。声が少しだけ強い。強いのに、ペンは持たない。
櫂は紙を折った。四つ折り。折り目が、なぜかきっちり合う。合うように折ってしまう。
折った紙を胸ポケットへ入れ、上から一度だけ押さえた。鍵を押さえるときと同じ動きだった。
穂花は責めない。責める言葉は、ここでは冷える。
「明日でもいいよ。2026年6月19日(金)の夜でも、6月21日(日)の朝でも」
櫂は顔を上げずに言う。
「……朝は、忙しい」
穂花は「じゃあ夜」と返し、紅茶を一口飲んだ。温度がちょうどよく、喉が落ち着く。
条が四枚の紙をまとめ、透明の袋へ入れた。濡れないように。折れないように。袋の口を折り、二重にした。
「花むすびの引き出しに入れます。毎年、見返せます」
利里が一言。
「来年も、同じ温度」
穂花は笑って、バケツをもう一度磨いた。今度はさっきより力を抜き、光りすぎないように。磨きすぎない練習みたいに。
ランプの火が小さく揺れた。風が通ったのだろう。揺れても消えない火を見て、穂花は自分の紙を思い出す。
うまくいったら叩く。うまくいかなくても探す。
穂花は手袋をしていない手で、バケツの縁をとん、と叩いた。拍手じゃない。合図だけ。
「……明日、もう一回だけ掃除して、明後日、シャッター上げよう」
条が顔色を変えず頷く。
「順番、決まりました」
利里が一言。
「足元」
櫂は返事をしない。返事の代わりに、ランプの芯を少しだけ調整した。明かりが、紙の袋の上で、ほんの少しだけ明るくなった。




