第18話 花の名前が戻る夜
2026年6月12日(金)の夕方、花川商店街の空はまだ明るいのに、風だけが少し冷たくなっていた。花むすびの店内で雑巾を干し終えた穂花は、裏口の戸を開けて外へ出た。掃除の水を捨てるだけのつもりだったのに、足が止まる。
裏の小さな空き地に、低い木があった。枝が自由に伸びて、葉が重なり、薄紫の花がぽつぽつ咲いている。近づくと、花の白いところが少しずつ増えているのが分かった。時間が経つほど、薄紫が抜けていくみたいに。
穂花は息を吸って、すぐ口を押さえた。
甘い匂いが、胸の奥まで入ってくる。昼間より強い。夜へ向かうほど濃くなる匂いだ。
「……これ」
穂花の声は小さかったのに、背後の足音がすぐ返事の代わりになった。櫂が裏口へ出てきて、木を見た。見るのは花じゃなく、枝の伸び方と、剪定されていない切り口の古さだ。
「いつから、あった」
穂花は首を振る。
「知らなかった。……今日、初めて気づいた」
利里も来て、匂いに顔をしかめず、ただ一言だけ言った。
「夜、強い」
条はアルバムを抱えて出てきた。乾いた布で包んで、角を崩さないようにしている。条はページを開き、押し花の薄紫を指で示した。
「これと、同じ色」
穂花はアルバムの押し花と、目の前の花を交互に見た。押し花は薄紫で、端が白く抜けている。さっき見た花と同じだ。
穂花は口の中で、前に聞いた言葉をなぞった。
“夜に匂いが強くなる。薄紫から白へ変わる。”
あの年配の女性が言っていた特徴だ。夫の好きだった花。名前だけが戻らない花。
穂花はスマホで調べようとして、止めた。スマホの画面より、アルバムの紙の手触りのほうが確かだったからだ。
条がページの端を押さえたまま言う。
「この花、名前の候補がある。『ニオイバンマツリ』」
穂花は声に出してみた。
「におい……ばん……まつり」
言った瞬間、裏の空き地の向こうから子どもの声が飛んできた。
「におい、ばん、まつり! くさいおまつり!?」
「違うよ! いいにおい!」
二人の言い合いが聞こえて、穂花は笑いそうになり、口を押さえた。利里が子どものほうへ視線を送り、一言だけ言う。
「静かに」
子どもの足音が止まり、草の上で立ち尽くす気配がした。
穂花はもう一度、花に顔を近づけた。甘さの奥に、少しだけ青い匂いが混ざる。あの日、換気口の前で一瞬だけ乗った匂いと同じ方向。
穂花は頷いた。
「これだ。……これ、だよ」
条が視線を落としたまま確認する。
「第4話の依頼の人。連絡先、控えにあります」
穂花は息を吐き、手袋を外した。外した手で、アルバムのページをそっと閉じる。紙が鳴らないように、角を揃える。
「呼ぼう。今日、来てもらおう。匂いで確かめてもらう」
2026年6月12日(金)の夜、商店街の街灯がつきはじめた頃、年配の女性が花むすびの前へ来た。黒い手提げ袋は前と同じ。歩く速度も同じ。けれど、目だけが少しだけ忙しい。
穂花は店内へ招き、裏口の戸を開けた。
「ここです」
女性は一歩出て、低木の前で止まった。目を閉じる。息を吸う。肩がふっと落ちた。
「ああ……この花」
女性は目を開けて、穂花を見た。涙は出ていない。でも、まぶたの端が少し濡れている。
「ニオイバンマツリ……そうだった。あの人、口に出して言うのが好きでね。言って、笑ってた」
穂花は胸の前で、手を叩きそうになって止めた。音を出すより先に、言うべきことがある。
「……5月5日(火)の命日に、間に合いませんでした。すみません」
条が頭を下げず、表情を動かさず言う。
「遅れました。控えに残して、追いかけました」
利里は短く言った。
「忘れてない」
櫂は女性の前に立った。いつもみたいに背中を向けて逃げられない距離だ。櫂は鍵を握る手を、ポケットの中で一度だけ置き直した。
それから、口が動いた。
「……遅れてすみません」
声は低いのに、言葉だけがまっすぐ出た。穂花はそれを聞いて、喉の奥が熱くなった。
穂花たちは、その場で小さな花束を作った。低木の花は枝ごと切らない。代わりに、店内に残っていた白い小花と、淡い紫の花を合わせ、匂いの強さがちょうどよくなるように束ねる。利里が水の量を調整し、条が紙の幅を揃え、櫂がリボンの結び目の中心を合わせた。
穂花は完成した花束を、両手で持った。手袋はしていない。指先で、花の茎の冷たさが分かる。
穂花は女性の手の上に、花束をそっと重ねた。拍手の代わりに、重ねる。
女性は花束を胸に抱え、笑った。
「花の名前より、覚えてくれてたことが嬉しい。……それに、匂いは隠しても戻るのね」
穂花は小さく頷いた。
「戻りました。今日、戻りました」
女性は帰り際、裏の低木を見上げた。
「これ、剪定しないでね。好き勝手に伸びてるところが、あの人に似てるから」
言い終えると、女性は自分で笑った。笑い声が、街灯の明かりの下で軽く揺れた。
穂花もつられて笑い、今度は小さく、パン、と一回だけ手を叩いた。音は小さいのに、店の中まで届いた。
条が眉ひとつ動かさず頷く。
「成功。記録します」
利里が一言。
「名前、戻った」
櫂は返事をしない。返事の代わりに、裏口の戸を閉める手を、いつもよりゆっくり動かした。戸が閉まる直前、甘い匂いがもう一度だけ店内へ入り、すぐに木の匂いへ混ざっていった。




