第17話 花むすび、最初の掃除
2026年6月5日(金)の午前、花川商店街は平日の顔をしていた。クリーニング店のハンガーが風に鳴り、古本屋の前では段ボールが一つだけ積み直されている。花むすびのシャッターは下りたままなのに、今日はその前に四人が揃って立っていた。
櫂は胸ポケットから鍵を出した。掌の中で転がさず、指を一本ずつ置き直して、鍵の向きを確かめる。鍵穴へ差し込む手が、一瞬だけ止まる。
穂花が小声で言った。
「止まった」
「止まってない」
櫂はそう言って、回した。金属が擦れる音が短く鳴り、次に、久しぶりの扉が重く息を吐いた。
扉が開いた瞬間、埃の匂いが流れ出た。紙と木と、長いあいだ閉じ込められていた空気の匂い。
穂花は鼻と口を同時に押さえたのに、咳が出た。
「けほっ……っ、うわ、元気な埃」
「埃は元気じゃない」
条が眉ひとつ動かさず返しながら、紙袋から手袋を取り出した。二重の袋。角が崩れていない。手袋も左右の向きを揃えて、順番に配る。
利里は何も言わず、先に窓へ向かった。固い窓枠を両手で押し、少しずつ開ける。外の光が斜めに差し込み、埃が白い線になって舞った。
利里が短く言う。
「吸う前に、逃がす」
穂花は「かっこいい」と言いかけて、また咳をした。
店内は花屋の骨格だけ残っていた。カウンター、作業台、棚。床には紙くずが薄く広がり、隅に、丸い埃のかたまりが転がっている。穂花はそれを見て、笑いが漏れた。
「……埃が、団子になってる」
条が視線を落とす。
「転ぶ」
利里が一言。
「足元」
穂花は即座に靴裏を確かめ、団子埃から離れた。団子埃は、こっそり勝ち誇っているみたいに転がったままだ。
櫂は作業台の前へ行った。そこだけ、台の角が妙にきれいに残っている。手のひらが、台の縁に触れる。指が止まる。止まったあと、指先が少しだけ動いて、木目をなぞった。
穂花は言葉を探したけれど、見つからなかった。代わりに、手袋をはめる音だけが小さく鳴った。
櫂は何も言わず、棚の奥から雑巾を一枚取り出した。乾いた雑巾。すぐバケツに水を張り、絞り、床に膝をつく。
拭き始める動きが速い。速いのに、線がまっすぐだ。拭いたところと、拭いてないところが、くっきり分かれる。
穂花も床へ膝をつき、隣で拭き始めた。雑巾の端が、利里の靴先に少しだけ触れた。
利里は動かない。代わりに、ほんの一センチだけ足を引いて、通り道を作る。
条は棚の中の紙袋を集め、袋の口をきちんと折り、捨てるものと残すものを分けた。捨てる箱も、角を揃えて置く。
穂花が息を吐きながら言う。
「ねえ、これ、文化祭の準備みたい」
条が表情を変えず頷く。
「文化祭は、期限が決まってる。効率が上がる」
利里が一言。
「期限、いる」
穂花は「それは困る」と笑い、また咳をした。
しばらく拭いていると、床の木の色が戻ってきた。穂花は嬉しくなって、いつもの癖が出そうになる。手を叩く動きで、ふと止まる。
手袋が汚れている。叩いたら、自分が汚れるだけだ。
穂花は代わりに、手袋のまま小さく手を合わせた。音は出ない。
櫂が横目で見て、低く言った。
「音、出せ」
「え、汚れる」
「汚れてる」
穂花は笑って、手袋のまま小さく叩いた。パン、じゃなく、ふにゃ、みたいな音がした。
条が表情を動かさず言う。
「音が弱い」
利里が一言。
「でも、届く」
穂花はその言葉で、胸が少し温かくなった。
奥の棚を拭いていた穂花の指先が、硬い箱に当たった。古いアルバムだ。表紙は薄茶で、角が丸く擦れている。穂花は埃を払うように、手袋でそっと撫でた。
表紙に、鉛筆の文字がある。
『君の好きな花の名前』
穂花は声を出しそうになって、喉で止めた。ここで声を出したら、何かが壊れそうな気がしたからだ。
アルバムを開くと、押し花が透明な紙の下に挟まっている。薄紫の花、白い花、黄色の小さな花。日付が細い字で並ぶ。どれも、花の形が崩れていない。
ページの間に、小さなメモが挟まっていた。紙の角が、きっちり揃っている。
穂花は目で読み、声に出さなかった。
『花の名前を覚えるより、渡す時の言葉を覚えなさい』
読み終えたとき、穂花の指先が少しだけ震えた。手袋越しでも、紙が熱い気がした。
穂花はメモをそっと戻し、アルバムも元の箱へ入れた。箱の向きを揃え、棚の奥へ戻す。戻す位置まで、さっきと同じにする。
振り向くと、櫂が作業台の下を拭いていた。拭く手が一瞬だけ止まり、次の瞬間、また動く。止まった理由は言わない。言わないまま、床の線だけが増えていく。
穂花は何も言わず、雑巾を絞り直した。水が落ちる音が、店の中で一番はっきり聞こえた。
窓から入る風が、埃の匂いを少しずつ薄めていく。代わりに、木の匂いが戻ってくる。昔ここで花を束ねた人の手の匂いが、どこかに残っている気がした。
利里が窓際で一言だけ言った。
「息、しやすい」
条が顔色を変えず頷く。
「第一段階、完了」
穂花は手袋のまま、今度は少しだけはっきり叩いた。パン、と鳴った。
櫂は顔を上げずに言う。
「……まだだ」
「うん。まだ。次は――」
穂花は言いかけて止めた。言うより先に、アルバムの表紙の文字が頭の中で光ったからだ。
「“好きな花の名前”。それを、探すんだよね」
櫂は返事をしない。返事の代わりに、雑巾を折り直した。折り目がぴたりと揃う。揃えたまま、また床を拭き始める。
穂花は、アルバムのメモを声に出さなかったことを、少しだけ誇らしく思った。
言葉は、取っておくほうがいい時がある。




