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君の好きな花の名前  作者: 乾為天女


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第16話 仕掛け人の正体と、保健室

 2026年6月2日(火)の午前、何でも屋の机の上は紙の山になっていた。条が伝票の控えを並べ直し、角を揃え、鉛筆で小さく印をつけていく。窓の外は初夏の光で眩しいのに、室内は紙の白さのほうが眩しく感じた。


 穂花は椅子の背にもたれ、封筒を胸に抱えている。病院の廊下で、櫂がしゃがみ込んだあの日から、穂花は封筒を乱暴に扱えなくなった。紙なのに、人の声が挟まっている気がする。

 櫂は窓際で立ったまま、道具箱のネジを数え直していた。数えたあと、また数える。足は動かないのに、指だけが忙しい。


 条が一枚の伝票で指を止めた。

 「これ。押し花加工の依頼」

 穂花が顔を上げる。

 「押し花?」

 利里がカップを置き、一言だけ言った。

 「花むすびの」

 条は頷き、控えの行を読み上げた。

 「宛先……花川小学校 保健室」

 穂花は思わず笑ってしまった。

 「小学校。保健室。……鍵が、そこ?」

 利里が腕時計を見て言う。

 「今ならいる」

 条が机の端のメモへ、きっちり書き足す。

 「今日、2026年6月2日。花川小学校へ」

 櫂は道具箱の上で手を止め、短く言った。

 「行かない」

 声は硬い。けれど、足は出ないだけで、帰ろうともしない。


 穂花は封筒を机に置き、端を揃えた。

 「行くよ。走らない。足元見る。……櫂さんも、ついてくるだけでいい」

 条が淡々と続ける。

 「ついてくる、は作業。負担を減らす」

 利里が一言。

 「保健室は、静か」

 櫂は返事をしない。返事の代わりに、道具箱の取っ手を握り直した。握り直し方が、行く準備みたいだった。


 花川小学校の門の前で、受付の先生が名簿を開いた。来客用の名札のひもが、少し長い。

 「何のご用件ですか」

 穂花が答える前に、条が控えの伝票を差し出す。角が揃い、文字がまっすぐだ。

 「押し花加工の宛先確認です。保健室へ」

 先生は伝票を見て、「ああ」と声を落とした。

 「保健室の先生なら、いますよ。子どもが今、二人いるから、声は小さめでお願いします」

 利里が頷かずに、一言だけ返す。

 「小さめ」

 穂花は笑いを噛み殺した。利里の言葉はいつも短いのに、ここではとても役に立つ。


 廊下を歩くと、ワックスの匂いと、消しゴムの粉の匂いが混ざっていた。教室から「はい!」という返事が飛び、体育館からボールの音が遠くに聞こえる。大人の足音がやけに大きく感じて、穂花は靴裏をそっと床に置くように歩いた。


 保健室の引き戸を開けると、薄い薬の匂いと、石けんの匂いがした。ベッドに寝ている子が二人。先生が指を口に当て、静かに手招きする。

 先生は白衣のポケットからペンを出し、名札を見て穂花たちを確認した。

 「何でも屋さん……花川商店街の?」

 穂花が小さく頷く。

 「はい。押し花加工の宛先がここで」

 先生は一度だけ目を伏せ、机の引き出しを開けた。中から出てきたのは、古いアルバム。表紙は薄茶で、角が丸く擦れている。

 先生はアルバムを机に置き、言った。

 「その宛先、私が書きました」

 穂花が目を丸くする。

 「え、先生が?」

 先生は小さく笑った。

 「掲示板の地図も、私が貼りました。子どもたちが勝手に盛り上がって、毎日“次はどこ”って聞きに来るから、昼休みに私まで走りそうでした」

 ベッドの子が「先生、走らないで」と小さく言い、先生は指で自分の靴先を指した。

 「足元ね」

 利里の目が一瞬だけ動いた。穂花は胸の奥で拍手が鳴りそうになって、こらえた。


 先生はアルバムを開いた。押し花が一枚、透明の紙の下に挟まっている。色は薄いのに、形が崩れていない。花の周りに、細い字で日付が書いてあった。

 「私、昔ここへ来たばかりの頃、失敗ばかりで。保健室の机で、毎日“向いてない”って思ってました」

 穂花が口を開きかけたとき、先生は先に続けた。

 「そのとき、花むすびの店主さんが言ったんです。“泣く前に、手を洗っておいで”って」

 穂花は思わず笑いそうになり、口を押さえた。

 先生は真面目な顔のまま、少しだけ口角を上げる。

 「泣いてるの、ばれてました。花屋さんって、匂いじゃなくて顔を見てるんですね」

 条が静かに言った。

 「顔の角も揃ってないから」

 穂花は笑いを堪えきれず、肩が揺れた。先生が小さく頷く。

 「そう。私の顔、ぐしゃぐしゃで。店主さんは“来週、励ましの花束を持っていく”って約束してくれました。……でも、その花束は届きませんでした」

 先生の指が押し花の端に触れ、止まる。

 「閉店したって聞いて、私、ここでずっと働き続けました。花束が来なくても、勝手に逃げたくなくて」

 その言い方が、どこか櫂の「負けだ」に似ていて、穂花は息を一つ飲み込んだ。


 先生は引き出しの奥から、小さな包みを出した。布で巻かれ、結び目がきっちりしている。ほどくと、中に古い鍵が一つ入っていた。金属の色が鈍く、先が少し欠けている。

 「花束の代わりに、預かりました。店主さんが“いつか必要になる”って。渡す相手の名前も、場所も言わないで」

 穂花は思わず、両手を胸の前で合わせた。音を出す前に止めたのに、指先が震える。

 「……それが、花むすびの鍵?」

 先生は頷く。

 「たぶん。鍵穴の形、これしか思いつかない」

 条が伝票の控えを見て、淡々と確認する。

 「一致します。番号も」

  利里が一言。

 「開く」


 穂花が櫂を見ると、櫂は鍵を見ていないふりをして、先生の机の端を指で揃えようとしていた。揃えられないのに、揃える。

 先生が鍵を差し出す。

 「櫂くん……あなたに渡すの、迷いました。でも、迷ってる間に時間だけ過ぎるから」

 櫂の指が、空中で止まった。止まってから、鍵へ伸びる。

 鍵を受け取る直前、櫂の口が勝手に動いた。

 「……すみません」

 言った本人が、少しだけ目を見開いた。自分の声に驚いたみたいに。すぐ視線を外し、鍵を握る手に力を入れる。力を入れすぎないように、指を一本ずつ置き直した。


 穂花は、我慢していた拍手を一回だけ鳴らした。パン。保健室に響かないように、小さく。

 先生が笑って、同じくらい小さく頷いた。

 「成功、ですね」

 条が表情を動かさず言う。

 「成功。記録します。2026年6月2日、鍵が戻った」

 利里は腕時計を見て一言。

 「帰って、開ける」


 校門を出ると、外の空気が急に広くなった。櫂は鍵を掌の中で転がさず、掌ごと胸ポケットへ入れた。入れたあと、ポケットを一度だけ押さえる。押さえる指が、絆創膏の上を通った。

 穂花は歩きながら言った。

 「言えなかった言葉の場所、ここだったんだね」

 櫂は返事をしない。返事の代わりに、歩幅をほんの少しだけ穂花に合わせた。



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