第15話 病室で聞く、花むすびの閉店
2026年5月28日(木)の午後、病院の自動ドアが開くたび、消毒の匂いが胸の奥まで入ってきた。穂花は封筒を両手で持っている。薄い茶色の封筒で、角が少しだけ丸い。看板の裏から出てきたものだと思うと、紙なのに重い。
櫂は受付の前で一度だけ足を止め、面会票を無言で取った。書く欄の文字を追う視線が速い。条は控えの伝票を揃え、利里はいつもの腕時計を見ている。四人の動きが、もう一度ここへ来る手順を覚えてしまったみたいだった。
病室の前で、看護師が穂花の手元を見て言った。
「前にも来た方ですよね。今は大丈夫。静かにね」
穂花は頷き、声を小さくして扉を開けた。
大家の妻は、ベッドの上で窓の外を見ていた。前に手紙を渡した日より、頬が少し痩せている。でも目は、ちゃんとこちらを見る力がある。
「また来ちゃいました」
穂花が言うと、女性はふっと笑った。
「来てくれる人がいると、病院も少しだけましね」
条が封筒を差し出す。角が揃っている。利里は黙って椅子を一つ引いた。櫂は一歩後ろで立ったまま、封筒の文字を見ないふりをしている。
女性が封筒を受け取り、表の文字を見た瞬間、指が止まった。
「……この字」
声が少しだけ震える。穂花の背筋が伸びる。
女性はゆっくり封筒を持ち上げ、櫂の顔を見た。
「櫂くん。これ、あなたのお母さんの字よ」
櫂の喉が、一度だけ動いた。返事は出ない。代わりに、胸ポケットの上を指先で押さえる。封筒じゃない場所を押さえるのに、力が入っている。
穂花は思わず言った。
「やっぱり……知ってたんだ」
櫂は短く言う。
「知らない」
言い切ったのに、目だけが封筒へ寄ってしまう。条がその矛盾を見逃さないみたいに、鉛筆を持ち直した。
女性は封筒を膝の上に置き、指先でなぞるように言った。
「花むすびが閉めた日、覚えてる? 2026年の春じゃない。もっと前。あなたがまだ高校生の頃」
穂花は「いつですか」と聞きかけて、飲み込んだ。今は、話の流れを止めたくない。
女性は続けた。
「あなたのお母さん、体がしんどくても、店の裏でバケツを磨いてた。あの錆びたバケツ。毎日、磨いてたの」
穂花は、磨かれた縁の光を思い出した。手のひらに残る、つるりとした感触。
女性が目を細める。
「『最後の花束だけは、自分で渡したい』ってね。だから休めって言っても、首を振るの。声は優しいのに、頑固でね」
穂花は櫂を見る。櫂は壁の注意書きを見ているふりをしている。視線が一行だけ動かない。
「でもね」
女性の声が少し落ちる。
「渡せなかった相手がいた。約束してたのに。花束も、言葉も、渡せなかった」
条が静かに聞いた。
「相手は誰ですか」
女性は首を振った。
「名前までは、私も知らない。あなたのお母さん、最後まで言わなかったの。言えないって顔をしてた」
利里が一言。
「言えない顔」
女性は頷く。
「そう。笑ってるのに、口が固いの。……あなたみたいに」
櫂の肩が、ほんの一ミリだけ下がった。下がってから、また固くなる。
穂花は封筒を見て言った。
「じゃあ、この封筒は……その人に向けたもの?」
女性は封筒の角を指で揃え直して言った。
「たぶんね。あなたのお母さんは、何かを隠すときほど、角を揃えてたから」
条が小さく頷く。揃える癖は、伝染している。
穂花は胸の奥の拍手を、喉の手前で止めた。今は、鳴らしたくない。
代わりに言った。
「その相手、探せる。商店街には、人がいる。紙もある。伝票も――」
「やめろ」
櫂の声が、病室の空気を切った。大きくはない。でも、鋭い。穂花の言葉が途中で止まる。
穂花は封筒を抱え直し、唇を噛んだ。
「どうして。鍵が必要なんだよ。花むすびを――」
櫂は顔を上げないまま言う。
「必要ない」
その言い方が、頑丈すぎて、穂花は腹が立つより先に、怖くなった。
条が一歩前に出た。声は淡々としている。
「やめる理由を具体的に」
櫂の指が、ポケットの中で何かを握っている形になる。絆創膏が貼られた手の甲が、少し白い。
利里が穂花の肩に手を置き、一言だけ言った。
「今は帰って寝て」
穂花は「寝て、で済む?」と言いかけて、利里の目を見て飲み込んだ。利里の目は、静かに決まっている。争いを止める目だ。
病室を出ると、廊下の空気が冷たく感じた。蛍光灯の光が白い。足音が反射して、四人分が倍になる。
エレベーター前で、櫂が急に立ち止まった。封筒は穂花が持っているのに、櫂の指が胸ポケットを押さえる。
条が言った。
「理由」
櫂は口を開ける。開けるのに、音が出ない。喉が詰まっているみたいに。
利里が腕時計を見て言う。
「呼吸」
櫂は息を吸おうとして、吸えなくて、肩が小さく揺れた。
そして、廊下の真ん中で、櫂はしゃがみ込んだ。膝を折って、床に手をつかないように、ぎりぎりで止める。床に触れたら負けだ、みたいに。
穂花は駆け寄りかけて、利里の「足元」が頭をよぎり、足を止めた。止めてから、ゆっくり近づく。
「……櫂さん」
櫂は顔を上げない。代わりに、短い息が漏れた。
「……やめろって言った」
その声は、さっきよりずっと弱い。怒りじゃなくて、怖さに近い。
穂花は封筒を胸に当てた。
「やめない。勝手に走らない。足元、見る。だから……一緒に探そう」
返事はない。けれど、櫂の肩の揺れが、ほんの少しだけ落ち着いた。
条がしゃがみ、床から少し浮いたところで手を出した。触れない距離で止める。
「言える範囲でいい。理由を、言葉にする練習」
利里が一言。
「今日じゃなくていい」
櫂はしばらく沈黙したあと、封筒のない手で、自分の膝の上のズボンの皺を伸ばした。伸ばす必要がないのに、伸ばす。
そして、息をひとつ吐いた。
「……帰る」
それが、今の精一杯の言葉だった。




