第14話 地図の最後の花
2026年5月22日(金)の朝、花川商店街は平日の顔をしていた。制服の袖がすれ、クリーニングのビニールが擦れる音がする。花むすびのシャッターだけが、いつも通り、音もなく閉まっている。
何でも屋の空き店舗に集まった四人の前で、条が地図を机に広げた。折り目がぴたりと合い、紙は勝手に平らになる。
「残り一つ。花の形が、看板の花と似てる」
穂花は地図の端の小さな絵を見て、目を細めた。
「似てる、じゃなくて……同じ人の手だ。線が、きっちりしてる」
利里がカップを置き、一言だけ言う。
「裏」
「看板の裏?」
穂花が聞き返すと、利里は頷かず、カップの取っ手を揃えた。揃えた向きが、花むすびの方向だった。
花むすびの前に立つと、看板の花の印が、朝日で少し白く見えた。木の板の端は欠け、ネジの頭だけが新しく光っている。
条がその光を見て言った。
「最近、外した跡がある。付け直してる」
穂花は思わず声を落とす。
「誰か、触ってる」
櫂は返事をしない。視線が一瞬だけ鍵穴へ落ち、すぐ看板へ戻る。戻り方が早い。
条は文房具店へ走らず、歩いて向かった。戻ってきた手には、脚立が一つ。肩に担いでも、角がぶれない。店主が後ろで手を振る。
「返すとき、ネジも一緒に頼むぞ!」
条が表情を変えず頷く。
「落としません」
利里は花むすびの前に立ち、通りかかる人に短く言った。
「右側をどうぞ」
言い方は静かなのに、なぜか皆が素直に右へよける。小学生が走って来て「見ていい!?」と叫びかけ、利里の視線に気づいて口を塞いだ。穂花はその子の頭を軽く撫でる。
「落ち着いて。見ていいけど、手は出さない」
子どもは両手を背中へ回し、背筋だけは立派に伸ばした。
条が脚立を立て、足元のがたつきを確認する。利里が足の下へ薄い板を差し込み、水平にする。穂花が一歩踏み出した。
「私、登るね」
その瞬間、櫂の手が無言で穂花の肩を押さえた。押さえ方は強くない。揺れないように、支える位置だけが正確だ。
穂花は思わず笑ってしまう。
「押さえるなら、ひと言くらい」
櫂は視線を外したまま、短く言った。
「落ちる」
「落ちません」
「落ちる」
同じ言葉を二回言われて、穂花は結局「じゃあ、落ちないように」と言い直した。
看板のネジは四つ。条が小さなトレイを出し、外したネジを順番に並べる。利里はトレイが倒れない位置へそっと寄せる。穂花は脚立の上でドライバーを回し、最後の一つで手が止まった。
「固い」
条が下から言う。
「右に一度、左に戻して。油が切れてる」
言われた通りにすると、ネジがきゅっと動いた。穂花は目を丸くする。
「何で分かるの」
条は淡々と答える。
「紙もネジも、癖がある」
看板が外れた。木の板は思ったより重く、穂花の腕が少し震える。櫂の手がすぐ板の下へ回り、支えた。板の縁を持つ指が、角を傷つけない位置を選んでいる。
「下ろす」
櫂の声は短い。条がトレイを抱えたまま一歩下がり、利里が通りの人へもう一度だけ言った。
「右側をどうぞ」
さっきより笑っている人が多い。商店街の人は、こういう光景に慣れている。
看板の裏側に、小さな花の絵が貼られていた。地図の最後の花と同じ形。線がまっすぐで、花びらの角まで揃っている。
穂花は声を弾ませた。
「当たり!」
パン、と手を叩きかけて、ぎりぎりで止めた。ここは看板の前だ。音が大きい。代わりに、指を握りしめて頷く。
条が視線を落としたまま確認する。
「花の絵の裏。封筒があるはず」
穂花が絵の端をそっとめくると、薄い封筒が出てきた。小さくて、角がきっちりしている。糊の端が一ミリだけ浮いていて、開けてほしいと言っているみたいだ。
穂花が封を切ろうとした瞬間、櫂が封筒を取った。取る手つきは乱暴じゃない。けれど、速い。
「……俺が開ける」
穂花は一拍置いて頷いた。
「破かないでね」
「破かない」
櫂はそう言って、封筒の角を指で揃えてから、折り目に沿って開けた。中から出てきた紙は、短い。余白がまっすぐだ。
穂花が読もうとすると、櫂が一瞬だけ紙を引いた。引いてから、諦めたように紙を机代わりの看板の上へ置く。
利里が最初に覗き込み、一言。
「鍵、ない」
条が紙を指で押さえ、声に出して読む。
「『鍵は、言えなかった言葉の場所にある』」
穂花は紙を見て、首を傾げた。
「言えなかった言葉って……何?」
条が淡々と答える。
「誰かが言えなかった。誰かに」
利里が一言。
「場所、ある」
穂花はさらに首を傾げる。
「言葉に、場所があるの?」
利里は頷かない。でも、視線が花むすびのシャッターの鍵穴へ落ちた。
穂花も同じ方向を見る。鍵穴は、いつもと同じ黒い点なのに、今日は少しだけ近く見える。
「……櫂さん、心当たりある?」
穂花が聞くと、櫂は「知らない」と言い切った。言い切り方が強い。
「知らない」
でも、封筒を握る手が白い。指先が、紙の角を潰しそうで潰さない。潰さないために、力が入っている。
条がネジをトレイへ戻し、順番通りに数えた。
「四つ。欠けなし」
利里が看板の位置を測るみたいに、目だけで壁を見て言う。
「戻す」
穂花は脚立にもう一度登り、看板を元の位置へ当てた。櫂の手は、さっきと同じ場所で肩を押さえる。穂花は小さく言った。
「……支えるの、上手い」
櫂は返事をしない。返事の代わりに、ネジを渡す順番だけが正確だった。
看板が元に戻ると、花の印がまた通りを向いた。何も変わっていないようで、確かに一つ、変わったものがある。穂花の胸の中の、次の行き先。
穂花は封筒の紙を見つめて言った。
「言えなかった言葉の場所。探そう。……今度は、走らない。足元、見て」
利里が一言。
「足元」
条が顔色を変えず頷く。
「記録します。今日、看板の裏まで行けた」
櫂は紙を折り、胸ポケットへ入れた。折り目は、ぴたりと合う。入れ終えたあと、胸ポケットを一度だけ押さえた。押さえる指が、絆創膏の上を通る。
穂花はそれを見て、何も言わなかった。言わない代わりに、掌をぎゅっと握った。拍手の代わりに。




