第13話 花言葉の勘違い
2026年5月17日(日)の昼すぎ、花川商店街は日曜の匂いをしていた。惣菜屋の揚げ物の湯気、クリーニング店の仕上げたシャツの石けん、喫茶店から漏れる深い香り。何でも屋の空き店舗の戸が開くと、その全部が一瞬だけ入り込み、すぐに木の床の乾いた匂いへ変わった。
入ってきたのは、若い夫婦だった。夫が花束を持ち、妻は両腕を組んだまま、入口の段差で一度だけ立ち止まる。
「仲直りの花束を……作ったんですけど」
夫が言いながら、花束を少し持ち上げる。黄色が目に飛び込む。穂花は椅子を引き、妻の足元を見てから言った。
「座れます? 段差、気をつけて」
妻は「……はい」とだけ言って座った。腕は組んだままだ。
条が机の端に、メモ用紙と鉛筆を置く。角が揃っている。利里はカップを二つ、同じ距離で置いた。櫂は花束を見ずに、リボンの結び目だけを見ている。
穂花は夫婦の前で、手のひらを小さく広げた。
「いつ、何があって、どうなったか。順番に聞きます。途中で遮らないで」
夫が「はい」と頷く。妻は頷かない。でも、目だけが穂花へ向いた。
夫は言いにくそうに、指先で花束の紙をこすった。
「5月10日(日)が……妻の誕生日で。ケーキ、予約してたのに、取りに行くの忘れて……」
妻が「忘れた、じゃない」と小さく言う。声は低いのに、はっきりしている。
夫は肩をすくめるみたいに息を吸った。
「……忘れた。で、昨日、花で謝ろうと思って、明るいのを選んだんです。黄色って、元気出るかなって」
妻が花束を見て、口角を下げたまま言う。
「黄色いカーネーション、って……」
条が反射みたいに本を開いた。厚い本の背表紙は、花言葉の本だ。指で索引を追い、ページをめくる音が、紙の音として真っ直ぐ響く。
条は表情を動かさず、花束の一輪をそっと指した。
「黄色いカーネーション。意味の欄に、“軽蔑”って書いてあります」
夫の顔が、一瞬で白くなる。
「け、軽蔑!? そんなつもり……!」
妻は腕を組んだまま、視線を外さない。
「知らないなら、調べてから渡して」
夫は「ごめん」と言いかけて、声が途中で消えた。
穂花は机の上の花言葉の本を見て、首を傾げた。
「同じ花でも、意味って一つじゃないんですよね?」
条がページの端を押さえ、頷く。
「本によって違う。国によっても違う」
櫂がそこで、ようやく花束を見た。見るのは花じゃなく、妻の顔のほうだった。
「花言葉は、受け取る側の都合で変わる」
短い言い方なのに、夫の肩が少し落ちた。「都合」って言葉に、責められた気がしたのかもしれない。
利里がカップを指で回し、静かに言った。
「だから、渡すときに言葉を添える」
穂花は机の上に、白い紙を一枚置いた。条が出したメモ用紙より大きい。文房具店の紙だ。角がぴんと立っている。
「花束の意味を、本に預けると、受け取った人が一人で考えなきゃいけない。だから、渡す人が、短い言葉を添える」
妻が少しだけ、腕の力を緩めた。組んだ腕が、ほんの一センチ下がる。
夫は紙を見て、鉛筆を持った。けれど、書き出しで止まる。鉛筆の先が、紙の上で迷子になる。
穂花は、夫の手元に視線を落としながら言う。
「書くのは、三つでいい。いつ、何をしたか。どうするか。言い訳は後」
夫は小さく息を吐き、書いた。字は少し曲がる。でも、途中で止まらない。
『5月10日、誕生日のケーキを受け取りに行く約束を守れませんでした。来週の5月24日、あなたの好きな店で二人で食べたいです。ごめん。ありがとう。』
書き終えると、夫は紙を妻へ差し出した。差し出し方が、今までより少しだけゆっくりだった。
妻は紙を受け取り、目で追った。読み終えると、ため息を一つ落とす。
「……ケーキじゃなくて、約束が嫌だった」
夫が頷く。頷き方が大きすぎて、穂花が少し笑ってしまった。
妻は花束を見て言った。
「黄色、嫌いじゃない。でも……この花は、知らないで渡されたら腹が立つ」
夫はすぐ花束から黄色いカーネーションを抜き取りそうになり、手を止めた。
櫂が低く言う。
「抜くな。乱れる」
夫は「……はい」と言って手を引っ込めた。利里が一言。
「置き換える」
条が店の奥から、白い小さな花を一輪だけ持ってきた。どこから出したのか分からないのに、茎は濡れている。
「白。意味は、ここでは“再出発”って書いてある」
条はページを開いたまま、指先で行を押さえた。夫はそっと白い花を差し込み、リボンを結び直そうとして手を止める。
結び目は、櫂のほうが先に直していた。左右の長さが揃い、結び目の中心がぴたりと合う。
「……ありがとうございます」
夫が言うと、櫂は顔を上げずに言った。
「礼はいらない」
でも、結び目はほどかない。
妻が立ち上がり、花束と紙を抱えた。腕はもう組んでいない。
「……帰って、貼る。冷蔵庫に」
夫が目を丸くする。
「貼るの?」
「貼る。忘れたら困るから」
夫は笑って、今度は自分から頷いた。
「うん。貼ろう」
出口で、夫が振り返って笑った。
「あなたたちも、仲直りしなよ」
穂花は「えっ」と声が出て、思わず口を押さえた。妻は夫の背中を小さく叩いて「余計なこと言わない」と言いながら、どこか楽しそうだった。
戸が閉まると、店の中に静けさが戻った。穂花は胸の前で、いつもの癖を抑えきれず、パン、と一回だけ手を叩いた。
「成功!」
条が眉ひとつ動かさず頷く。
「成功。記録します」
利里はカップを持ち上げて一言。
「温度、戻った」
そのとき、穂花の視線が櫂の手に止まった。右手の甲に、小さな赤い点。さっき花を触ったときの棘か、針金か。櫂はその手をすぐポケットへ入れようとする。
穂花は言うより早く、条のカウンターへ手を伸ばした。絆創膏の箱が、いつも角を揃えて置いてある。
「ちょっと」
穂花が櫂の手首を軽く掴むと、櫂は抵抗しない。引き抜こうとはするのに、力を入れない。
穂花は絆創膏を貼った。小さな音で、ぴたりと肌に吸いつく。
櫂は低く言う。
「大げさ」
穂花は笑って返す。
「小さいのを放っておくほうが、大げさになる」
櫂は返事をしない。絆創膏を剥がしもしない。手の甲を一度だけ見て、視線を外した。
穂花は花言葉の本のページを閉じながら、さっきのヒントを思い出した。
『次は、言葉。』
「言葉って、こういうことだったのかな」
独り言みたいに言うと、利里が一言。
「まだある」
条が机の端の地図を指で押さえた。花の絵が残り一つ。薄い線で描かれた花の形が、花むすびの看板の花の印に、どこか似ている。
穂花はその線を見て、喉が少し乾いた。
「……似てる、だけ?」
櫂は答えない。答えないまま、胸ポケットの地図の角を指で揃えた。揃え方が、さっきのリボンと同じくらい丁寧だった。




