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君の好きな花の名前  作者: 乾為天女


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20/20

第20話 今さらだけど、令和の抱負。

 2026年6月21日(日)の朝、花川商店街の端っこにある花むすびの前だけ、空気が少しだけ早起きしていた。シャッターはまだ下りているのに、店先に小さな黒板が出ている。チョークの粉が、風に乗って白く舞った。


 穂花は黒板の前でしゃがみ込み、文字の間隔を指で測るみたいに見つめた。

 「……ここ、狭い」

 条が表情を動かさず言う。

 「狭い。だから短く」

 利里が腕時計を見て一言。

 「九時」

 穂花は頷いて、チョークを持ち直した。書いたのは、たった一行。

 『本日、花束の予約を承ります』

 書き終えると、穂花は手を叩きそうになって、止めた。粉が舞うのが嫌だったからじゃない。今日は、別の合図のほうが似合う気がした。

 穂花はチョークを黒板の縁に置き、指先で縁をとん、と叩いた。小さな音。


 利里は店の前の通りを見て、人の流れがぶつからない位置へ黒板を少しだけ動かした。動かす距離が、たった二十センチなのに、通りがすっと通りやすくなる。

 条は店内のカウンターで伝票を揃えている。白紙の伝票を二枚、三枚。角を揃え、上から押さえ、最後にペンの向きも揃える。

 櫂は作業台の前に座っていた。机の上に白い紙。ペン。押し花の小さな欠片。薄紫が白へ抜けた、あの花の一片だ。

 櫂の指が、紙の角を揃えようとして止まる。止まった指が、今度はペンへ伸びる。伸びたまま、握れずに宙で揺れる。


 穂花はわざと、見ないふりをしなかった。歩いて近づき、机の端に手を置いた。

 「書く?」

 櫂は答えず、紙を一度だけ押さえた。押さえた指が震えた。震えは、隠すほど目立つ。

 条が表情を動かさず言う。

 「一行でいい」

 利里が一言。

 「温度、下げないで」

 櫂は息を吸った。吸って、吐いた。吐いたあと、ペンを握った。握り方が固い。固いのに、書き始めた。


 『令和の抱負:助けてと言う。ありがとうと言う。』

 書き終えた瞬間、櫂の肩がほんの少しだけ落ちた。落ちたぶんだけ、店の中の空気が軽くなる。

 穂花は、拍手をしなかった。代わりに、紙の上へ手を伸ばして、押し花の欠片をそっと添えた。櫂の指が止めようとしたけれど、止め切れない。

 穂花は欠片の位置を整え、紙の端を揃えた。条の真似みたいに。


 そのとき、表のほうで声がした。

 「本当に、開くのね」

 大家がシャッターの前に立っていた。いつもの帽子。いつもの背中。けれど、今日は目が忙しい。

 その横に、保健室の先生がいる。年配の女性もいる。第13話の夫婦も、紙を冷蔵庫に貼ったままらしく、夫が照れくさそうに笑っている。子どもたちは黒板の文字を読んで、「予約ってなに」「あとでね」と小声で揉めている。

 利里が一言。

 「静かに」

 子どもたちは口を手で塞ぎ、目だけで笑った。


 櫂は椅子から立った。シャッターの取っ手へ向かう前に、足が一度だけ止まる。

 穂花は言った。

 「手伝う?」

 櫂の口が、先に動いた。

 「……手伝って」

 言った直後、櫂は自分の言葉に少しだけ驚いた顔をして、すぐ目を逸らした。けれど、取っ手から手を離さない。


 穂花は取っ手の反対側へ回り、両手で支えた。条が左右の動きを目で測り、利里が通りの人を少しだけ避ける位置へ誘導する。

 「せーの、じゃなくて、呼吸で」

 穂花が小声で言うと、櫂が一度だけ頷いた。

 二人で息を合わせて、シャッターを上げた。金属が擦れる音が、ゆっくり伸びる。途中で重くなり、櫂の腕が震える。穂花は力を足し、声を出さずに「大丈夫」と口だけで言った。

 シャッターが上がり切った瞬間、店の中に朝の光が広がった。木の匂いが、外へ漏れる。


 大家が小さく頷いた。

 「……店になったな」

 条が表情を動かさず言う。

 「店です。伝票、用意あります」

 利里が一言。

 「予約、取れる」

 穂花は笑いそうになって、笑った。笑ってから、黒板を見て、胸の奥で一回だけ拍手を鳴らした。


 櫂は作業台へ戻り、さっきの紙を持った。紙を折らない。折らずに、そのまま穂花の前へ差し出す。

 穂花は両手で受け取った。拍手じゃない。受け取る。

 櫂は目を逸らしたまま、低く言った。

 「君の好きな花の名前、覚えた」

 穂花は紙の上の押し花を見て、頷いた。

 「じゃあ私は、あなたの好きな言葉を覚える」

 櫂が一瞬だけ穂花を見た。見て、すぐ逸らす。でも、口だけが動いた。

 「……ありがとう」

 穂花は返事の代わりに、紙の端を揃え直した。揃え直す必要がないのに、揃える。櫂の癖が、少しだけ移っている。


 外では、子どもが黒板の前で指をさしていた。

 「花束、予約する! 先生にあげる!」

 保健室の先生が慌てて首を振る。

 「ちがうちがう、そういうのじゃ――」

 利里が一言。

 「まず、言葉」

 子どもが目を丸くして、胸に手を当てた。

 「……ありがとう、って言う」

 穂花は思わず、パン、と一回だけ手を叩いた。今度は音がちゃんと出た。粉は舞ったけれど、誰も嫌な顔をしなかった。


 花むすびの中で、伝票の紙が一枚目、音を立ててめくられた。

 それは小さな音なのに、2026年の朝に、確かに店が動き始めた合図だった。



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