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ジ・アンソニアホテルは夜の光の中で見てもなかなか立派な造りをしていた。パリにある建物はこんな立ち方をしているのだという間違った思いを抱かせるような宮殿のような建物がマンハッタンのブロードウェイ通りに現れるのだ。
ぶ厚い壁面を持って、夜中でも弾き鳴らす作曲家やピアニストたちの音を跳ね返して外側に漏らさない作りや贅沢なキッチンが好きな時に自炊しても良いし、ホテルに食事を頼んでも良しの何部屋もある一区画が月単位で貸し出される形式で、警備も厳重で頼めば部屋の掃除もしてくれる極めて気楽な空間を貸してくれる。まぁもっともこれはスィートの部屋で、一部屋に分割された場所もあり今回はそこに泊まることになるのだろう。
「大将、暇なときに遊びに来てもいい?」
父親がいても全く気にしないメイベルが尋ねて来たので、青木社長に目を向けると、肩をすくめていた。
「いいよ。ニューヨークを案内してくれるか?」と俺。
「もちのろん!」とメイベル。お前は親父か!
イエローキャブ(タクシー)がブロードウェイ通りのアンソニアホテルにある大きなキャノピー(ひさし)の下で止まると、モノクロ映画で見かける重そうな真ちゅうとガラスで出来た回転ドアの前にいたドアマンが恭しく挨拶してくる。なるほど人種差別を感じるほどの躊躇がなく、当たり前の行動としての滑らかな動きであった。
青木社長とメイベルに別れを告げ、タクシーから降りて手荷物をドアマンに2個預けて20セントのチップを渡しておく。
少々しみったれらしい金額かも知れないが、日系人の懐の心細さを理解してもらうにはこれくらいがいいのではと俺が思っているところは、きっと貧乏性が出ている所なのかもしれない。
回転ドアの先は外で聞こえていたうるさい自動車の騒音がピタリと止んで、ピカピカに磨き上げられた大理石のロビーが広がる。
「なかなかのものですね。松川さん、手続きの方をお願いいたします。」と俺。
にこやかに笑いながら松川さんがフロントで待ち受けるフロントクラークと会話している姿を見ながら、天井から吊るされている豪華なクリスタルシャンデリアの煌めきやふかふかの絨毯、葉巻やたばこを燻らす匂い、微かに聞こえるピアノやヴァイオリンの響き。
アメリカに上陸して初めての感覚であった。時間の流れがゆっくりしていると感じられたのだ。息せき切って突っ走ってきた流れが急に止まったかのようにスローモーションになる。
そこで我に返る。危ない危ない。ここで息を抜くと、一気に精神的疲れが出てしまって、研ぎ澄ました感覚そのものが鈍ってしまい、大きなミスに繋がりかねない。まだまだしっかりとした橋頭保を築けた訳では無いのだから。そう自分を戒めている間に松川さんはチェックインを終わらせて、荷物を持ったベルボーイと共に円形のエレベーターホールへ向かって行く。
エレベーターには制服姿のエレベーターボーイが真ちゅう製の格子扉を開けたままで待っている。全員が乗ると、
「何階ですか?」
「5階にやってくれ。」と松川さん。
「ガチャン」という音と共にエレベーターの金属格子の扉をエレベーターボーイが閉めて、静かにエレベーターが登っていくのであった。




