不知足者 その2
対峙する瞳は鏡のように己の体を映す。
もうさっきのような威力の攻撃はできないだろう。しかし、それでも僕には彼を満足させるに至る力を持っていた。
肉体の適応が起こした変質は五感を研ぎ澄まし、人域を超えた動きを可能にする。
碧水は単なる動力に留まらず、肉体機能そのものを強化させることを実現させたのだ。
残りは拳で語り合う外ない————。
研ぎ澄まされた動体視力は拳を見切る。こめかみから突き抜ける風を感じた。
そしてすかさずクロスカウンター。拳が顔面にめり込んだ。
「がっ……‼︎ この感触は……純然たる龍の息吹! 斯くも美しき力の流れをっ、私は今直に受けているっ!」
怯んだのは一瞬、瞬きした次の瞬間には向こうも反撃の体勢をとっていた。
二発目の拳が交差する。
本来なら、僕は彼に対し怒りを以て拳を振るわなければならないだろう。
彼は人を殺した。望月美那萌の凄惨な最期を忘れることはない。
それだけでなく、僕を含めた少なくない人間の人生を自らの目的のために巻き込んだ。
だけど——それらの責任については、先生たちに丸投げしよう。
拳から伝わる熱意。よろけても、倒れたってその手は止まらない。
彼の生き方に僕は否定を突きつけない。他の誰かに憎まれようと、罪を犯そうと、美しいものを追い求めるその志まで否定されるべきじゃないからだ。
僕だって何かの拍子に過ちを犯すかもしれない。——或いは既にそうかもしれない。
美佳は僕が自分から傷付きにいっていると言う。それは僕がそういった状況でなきゃ生の悦びを実感できない人間だったからだ。
如何に好み趣向といえど、それが他人に影響を及ぼすようになれば悪となる事だっておかしくはない。
だからこれは、境界線の話だ。
自分が生きて、何かを求めていかなければならない以上、必ず他人との関わりがある。
その上で相手の持つ領域の輪郭を踏み越えないこと——それがこの世界で真っ当に生きられる条件だ。
己の欲を自覚し、彼はその境界線を越えることを厭わなかった。その点を僕は羨ましいとも思う。僕には同じことはできないだろう。踏み込もうとする足を、きっと仲間が引き戻す。
故にこれは敬意だった。追い求めた者に対して、同じく追い求める者からの称賛の拳。
既に何度拳を受けたかわからない。よろけては踏み込み、互いに拳を交える。
「ああ、御身はそこに生きている。————この実感が、一生続けばいいのに」
だが、無常。決着の時はいずれ来る。
振り上げた互いの拳は、どちらも相手の眼前で止まった。
僕は既に彼が拳を止めることをわかっていた。だからこちらも止めた。
そしてその理由も知っていた。
「時間切れか。次は、お互い十全な状態で戦いたいものだ」
僕の瞳に映っていた白い髪が、唐突に視線の下へ落ちていく。
「次はないだろ。もうやり合う建前がない」
その言葉を聞いて魔術師は不思議な笑みを零した。
その笑みはどこか寂しそうだった。
「それもそうか。龍神の器……いや、櫛見幸斗——私の孤独に寄り添ってくれてありがとう。君の渇きが完全に潤されるときは来ないとしても、大丈夫だ。友に恵まれている君ならば私のようにはならんだろう」
宇宙を詰め込んだような瞳が、帳を下ろすように目蓋の裏に消える。
意識を失い倒れた魔術師の前で佇む僕は、ただ静かに薄晴れた空を眺めていた。
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