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体育館中に響いた私を呼ぶ声に、踏み出そうとした足が止まる。声の主を探すため視線を彷徨わせると、彼は体育館の入り口に息を切らせながら立っていた。
「ごめん! 遅くなって。今、どういう状況?」
「来たのか、鴇森。勝負はフリースロー、五点先取した方が勝ちだ。今は三対四で凰院が負けている」
「え!? そんな、頑張って! 凰院さん!」
彼の登場と共に自然と割れた人混みを抜け、鴇森君は鷹司一輝の隣に立った。彼は鶴岡様の応援演説者だ。楓恋様の言葉を信じるなら、『鳥の名家』の私が楓恋様の味方につけば、その分鶴岡様の当選確率が下がってしまう。それは彼にとって望ましくは無いはずだ。だからこの応援は、楓恋様の力を削ぐためであって、私自身を応援するものでは無い。
そう自分に言い聞かせてみたものの、すぐにそんなはずがないと心が否定した。私を応援してくれる彼からはそういった打算は感じられず、ただ純粋に私を応援してくれているような気がしたのだ。
「……来ないわよね、あいつは」
「え?」
観客の声援に掻き消されてしまうほど小さな声で楓恋様が呟く。きっと聞こえたのは傍に居た私だけだ。思わず聞き返した私には答えること無く、「ほら、次は貴方の番よ。早くして」と言ってきた。表情はいつも通り。今の寂しげな声を発した人とは思えない。
もう一度鴇森君を見る。彼に後ろめたい様子は無い。私は鴇森君がとてもいい人だと知っている。友達の秘密を言いふらしたりしないし、もし秘密を漏らしてしまったらそれを平気で過ごすことができる人でもないだろう。
だから、大丈夫。
「鴇森君。私、頑張るわ」
「うん。凰院さんならできるよ!」
ニコニコといつも通りの笑顔で応援してくれる鴇森君に胸の奥が温かくなる。彼は不思議な人だ。そこに居てくれるだけで、自然と勇気が湧いてくる。
鷹司一輝の後方に視線を遣ると、姉の取り巻きと目が合った。きっと彼女はこの勝負を姉に報告するのだろう。それでいい。勝っても負けても嫌な未来が待っているのなら、せめて私を応援してくれる人に応えるように全力を尽くしたい。
足を踏み出す。もう止まれない。このボールが入るか否かで決める。そんな覚悟と共に放ったボールは綺麗な放物線を描き――
ポスッ
――ネットを潜ったボールが床をバウンドした瞬間、歓声が起こった。
「四対四。これで同点ですね、楓恋様」
「…そうじゃなくちゃ、面白くないわ」
勝気に笑ってみせた楓恋様は、目を伏せてゆっくりと深呼吸した。集中しているのだろう。ここで楓恋様が入れることができれば勝負が決まる。
「――勝つのは私よ」
目を開いた楓恋様は、とても落ち着いていて。
楓恋様が、一歩踏み出す。堂々としていて、自分が勝つことを信じているようだった。ボールを放つ。観客が息をのんで見守る中、ボールがゴールに向かっていく。そんな緊迫した空気の中、何故か私はボールではなく楓恋様を目で追っていた。
ボールが手を離れる瞬間、ほんのわずかに垣間見えた不安げな表情。ここで外してしまっても負けが確定するわけではないが、それでも勝ちが遠のくのは事実だ。きっとその不安だろう。
ボールがネットを潜る音。観客の爆発的な歓声。楓恋様の喜びの表情。その全てが私の敗北を伝えてきた。
「ほら、見なさいよ! 勝ったわ! あたしの勝ちよ!!」
「…ええ、私の負けです」
立ち去る姉の取り巻き。無表情の鷹司一輝。残念そうな鴇森君。勝負は終わった。観客も帰り始めている。人のいる間に済ませた方が良いだろう。
「それで、楓恋様は私に何を望まれますか?」
「ふん、決まっているわ!」
胸を張り、ずいと右手を伸ばす楓恋様。指をさす気だろうか。
『あんた、凰院の妹ね! そんなやつに、実行委員会をする資格なんてないわ!!』
あの日、生徒会室の前で言われた言葉を思い出し、胸が痛くなる。楓恋様はあの頃と変わらず、私を姉の同類だと思っているだろうか。
「あたしの右腕になって。選挙の間だけじゃない。書記として、あたしを支えて」
伸ばされた右手は握り込まれること無く開いていた。間違いなく握手を求める手だ。楓恋様ははきはきとした声で、ひとつひとつの言葉に願いを込めるように私に願いを伝えた。
「勿論です。それが今回の約束でしたからね」
正直に言えば、彼女の願いが壮大過ぎて圧倒されたところもあったが、予め決めていた言葉は淀みなく口から出ていった。所在無さげに宙に浮いていた右手も握る。しっかりと友好の証に映るように。
こうして私は楓恋様の応援演説者となったのだった。
◆◇◆◇
選挙当日まであと二週間。応援演説は選挙当日に壇上でスピーチをすればいいのだが、たいていはそれまでの選挙活動でも立候補者をサポートするのが習わしらしい。私と楓恋様は締切ギリギリに立候補者として登録したので、選挙の準備が全然終わっていない。
「準備は私達に任せて、貴方は原稿作りに集中してちょうだい」
「分かりました」
選挙活動中はサポートとして三名の協力者を募ることができる。楓恋様は三名とも同級生に頼んだようだ。先輩方に仕事を任せきりなのは心苦しいが、応援演説の原稿が最優先だろう。
今回の生徒会選挙では、立候補者が二名だけらしい。つまり鶴岡様と楓恋様だ。最初はもう少し立候補者がいたと聞いたが、楓恋様が登録を済ませた時全員辞退してしまったという。やはり『鳥の名家』の力が絶大ということか。
「そうだ、楓恋様。もし良ければ去年楓恋様が応援演説されたときの原稿を貸していただけませんか? 参考にしたいので」
「あー…」
「ちょっと!」
私の言葉に歯切れの悪い返事を返した楓恋様に首を傾げていると、協力者の先輩の一人が慌てたように割り込んできた。
「貴方、知らないの!? 楓恋は去年、応援演説してないのよ!」
「え? でも、書記は演説者から選ばれるって…」
「そういう慣習だけど、去年は特例中の特例がいたじゃない!」
「特例?」
「一条先輩よ」
先輩の話を聞いた限りだと、つまりはこういうことらしい。
去年の立候補者は全部で三人。鷹司一輝、一条先輩、姉。そして応援演説は鶴岡様、一条先輩の同級生の方、姉の取り巻き。当時書記を務めていたのは鷹司一輝と一条先輩で、姉はどこかの委員会で名前だけの副委員長を務めていたから資格を有していたそうだ。
そしてその三人で戦った結果、姉は見事に敗北し生徒会入りを断念。どこかの委員の委員長を務めるのも断って、今の自由気ままな立ち位置になったらしい。
一条先輩は自分の応援演説をしてくれた同級生の弟を書記にするつもりだったそうだが、それを鷹司一輝が止めた。これから生徒たちの壁をなくしていくのに、女子がいないのはやりにくいだろうと。そこで選ばれたのが楓恋様だった。彼女は白鳥学院への入学以前から姉と敵対していた。だからこそ信用に足ると思われたのだろう。
一条先輩のことだ。彼女が『鳥の名家』であることも考慮したのだろう。寧ろ最初に別の人を候補にあげて誘導したようにも思える。あの人なら色々とやりかねない。
「そういうことでしたか…。すみません、私ってば何も知らず…」
「気を付けてよね!」
「そうねぇ。無知は罪ではないけど、無関心はやめてちょうだいね。貴方はもう唯の生徒ではないのだから」
「う…」
三人の先輩から呆れたような視線や困った視線を向けられ、居た堪れなくなる。彼女たちの言葉は私を「次期書記」として見ていることを嫌でも意識させるものだった。
「やめてちょうだい、三人とも。教えてなかった私に非があるわ」
楓恋様は三人と私の間に割って入り「この話はここまで」と言った。三人は納得していないものの、楓恋様の顔を立てて引き下がってくれたようだ。その姿に少しもやっとする。
「楓恋様」
「? なに?」
選挙の準備のために三人を引き連れて部屋を出ていこうとしていた楓恋様を呼び止める。その表情からは後ろめたさなどは感じられなかった。
『嘘よ。あの女のこと、嫌いなくせに』
勝負の時、彼女は言った。私は姉が嫌いなのだと。それを口にしたのは一度きりだ。鴇森君と話した、裏庭のガゼボ。思えばあの場所は、クリーンアップ活動で楓恋様と勝負をした場所からそう遠くない。彼女があの場所を知っていてもおかしくは無いように思える。
たまたま通りかかったのか、それとも鴇森君を見つけて後を付けたのか。とにかくあの場所に居合わせた彼女は私の告白を聞いた。そして盗み聞いたことを打ち明けず、勝負の時にこちらを動揺させる手段として用いた。それ自体は問題視していない。彼女が勝つために手段を選ばないところがあることなど承知の上だ。でも、盗み聞きを謝りもしないなんて、これから信頼して支え合う人に対してあまりにも不義理なのでは?
寂しげなところ。不安げなところ。強気な彼女が時折見せる弱い一面。先輩といっても、前世の私よりは年下だ。だから大目に見てきたところもあったが……このままで、いいのだろうか。
「…原稿、三日以内に草案をまとめてきます」
「そんなに急がなくてもいいけれど…助かるわ。お願いね」
「はい」
先に出ていっていた先輩を追うように楓恋様は早歩きで部屋から出ていった。きっと同級生同士、仲良く準備を進めていることだろう。だったらもう、私はそちらを気にするべきではないはずだ。やるべきことをやらなきゃ。そう思って目の前の原稿用紙を眺めるが、一向にペンは進まなかった。
「…図書室にでも、行こうかしら」
もしかしたら過去の選挙の参考資料とか保管されてるかもしれない。ここにこのままいても何かいい案が思い浮かぶとは思えなかった。潔く筆記用具を片付けて移動する。
「おーい! ボールそっち行ったぞ!」
「わ、分かってる!」
廊下を歩いていると外で遊んでいる男子生徒の声が聞こえた。というかこの声、要だ。
知ってる声だったので外を見ると要と数名の男子――ってあれ黒崎君!? 眼鏡外してて一瞬分からなかった…。あの二人、一緒に遊ぶほど仲良いの? なんか意外かも。
そんなことを考えながら眺めていると、ぱっと顔を上げた要と目が合った。「おーい」と大声を上げてこちらに手を振る要。それに右手の拳を上げて応える。
「優莉奈も混ざるかー?」
「…そうね、それもいいかも」
いつもならすぐに却下するような申し出に、柄にもなく逡巡してしまう。この距離だ。小さな呟きなど要には届かないだろう。
そう思っていたのに。
「わり、俺抜けるわ。また明日な!」
「え、おい要!」
要は何を思ったのか友人たちの輪を抜けてこちらに近寄って来た。思わぬ展開に動揺して、周囲をきょろきょろと窺ってしまう。助けを求めようにも傍には誰もいなかった。
「鞄持って校門な!」
「はあ? 突然何よ、私はまだ予定が――」
「最近遊んでなかったしいーだろ!」
こちらの都合などお構いなしで話を進める要。彼の中では既に決定事項のようだ。別に要に従う理由は無い。ただ、彼は既に友人達から離れているし、校門に向かって歩き出している。いくら自分勝手な要とはいえ待たせるのは悪い。急ぎ足になっているのを自覚しながら私は昇降口に向かった。




